7-3
社長が小さくため息をついた。けれど、その表情は怒っているものではなかった。
「怒っているわけじゃない」
そう言って、静かに笑う。その言葉に、恵介君がほっとした顔になった。けれど次の瞬間には、少し気まずそうに視線を落とす。その様子を見ていると、社長はまるで恵介君の保護者みたいだった。父親のようでもあり、兄のようでもある。でも、それ以上に、本気で心配しているのが伝わってくる。社長の口調は、いつだって穏やかだ。声を荒げることもない。けれど、“駄目なものは駄目だ”という時には、きちんと線を引く。今もそうだった。
「……玲司さん」
恵介君が、小さな声で言う。
「僕、外に出たくって」
「それなら、機会は作る」
社長は落ち着いた声で返した。
「だが、お前が行きたい公園は遠い」
私は野菜を鍋へ入れながら聞いた。
「そんなに怖い場所なの?」
「トンネルっていうより、通路に近いんですけど」
恵介君が説明する。
「公園の中にあるんです。最近、“変な音がする”とか、“人影が立ってる”とか噂になってるみたいで」
「夜に?」
「夜です」
ルークが、コーヒーを飲みながらぽつりと言った。
「人は暗い場所が好きだからね」
「ホラー配信界隈だけでしょ」
私は呆れる。でも実際、そういう場所は数字が出る。特に夜の公園やトンネルは定番だ。
「紫乙さんたち、本当に行くんですよね?」
「行くわよ。ねえさんとルークの三人で」
そう答えると、社長が静かにこちらを見た。
「夜道は気をつけてくれ」
低く、穏やかな声だった。
「最近は、怪談より現実の方が危険だ」
「……はい」
私は素直に頷く。本当に、その通りだと思った。怪奇現象より、人間の方が怖い時代なのかもしれない。
鍋の湯気が、ふわりと立ち上る。私は味噌を溶きながら、小さく息を吐いた。昨日の夜は、酒と笑い声に包まれていた。でも今日は、こうして昼のキッチンで料理を作っている。不思議だった。騒がしい夜と、静かな昼。全然違う時間なのに、どちらもちゃんと今の自分の生活になっている。
「いい匂い……」
恵介君が、小さく呟く。私は思わず笑った。
「まだ途中よ」
「でも、お腹が空きました」
「よかった。食欲あるのね」
「さっきもサツマイモチップス食べてたんです」
恵介君が少し照れくさそうに笑う。
「あれ、おいしくて。別腹なんです」
「別腹、多すぎない?」
私が言うと、リビングへ小さな笑いが広がった。その空気が穏やかで、私は少しだけ肩の力を抜く。年末は忙しい。やることも多い。でも、悪くない。そんなふうに思いながら、私は鍋をゆっくりかき混ぜ続けた。
鍋の蓋を少しずらす。味噌の香りが、ふわりと広がった。私は火加減を調整しながら、小さく息を吐く。キッチンの空気は穏やかだった。社長はソファーへ座り、コーヒーを飲んでいる。恵介君はテーブルで野菜の袋をまとめ直していて、ルークは相変わらずキッチンカウンターに居座っていた。そんな中、ふいにルークが口を開く。
「提案があるんだけど」
その言い方に、私は嫌な予感しかしなかった。
「なに?」
「30日のコラボ、恵介君も一緒に行けば?」
一瞬、キッチンが静かになる。
「……え?」
最初に反応したのは、恵介君だった。ルークは、まるで普通の世間話みたいな顔で続ける。
「画面へ映らないようにすればいいだろう?」
「いや、でも」
私は思わず包丁を止めた。けれど、ルークは平然としている。
「昼間の外出は、人目があるから記者に見つかる可能性が高い。でも、山の中のトンネルなら人は少ない」
「……まあ」
私は思わず口ごもる。実際、それはそうだった。さっきから、少し考えていたことでもある。夜の公園や山の中はいいと思った。しかも、配信者が集まるような大型イベントではなく、個人配信レベルだ。偶然記者がいる可能性はかなり低い。
「気晴らしに、夜のドライブも悪くないと思うけど」
ルークが静かに言った。その瞬間だった。恵介君の表情が、ぱっと明るくなる。本当に一瞬で分かるくらいだった。
「……行っても、いいんですか?」
小さな声。期待と不安が混ざったみたいな顔だった。私は思わず視線を逸らせなくなる。やっぱり、外へ出たいのだ。当たり前だと思う。ずっと家にいるのは苦しい。気持ちが外へ向き始めている時期なのだろう。
「紫乙はどう思う?」
ルークがこちらを見る。
「えっ、私?」
「運転するのは君だろう?ねえさんが助手席で、僕が後部座席。恵介君は隣に座ればいい」
たしかにそうだ。私は少し考える。でも、夜道は危険だ。何があるか分からない。でも――。
「……ちゃんと変装するなら、ありかも」
私は正直に言った。
「帽子とマスクして、配信にも映らないなら」
「ほら」
ルークが満足そうに笑う。
「紫乙も賛成だ」
「まだ半分よ」
私は即座に訂正した。問題は、そこではない。私はゆっくり社長を見る。たぶん、全員が同じことを考えていた。社長が、頷くかどうか。リビングが静かになる。社長は、すぐには答えなかった。コーヒーカップを置き、少し考えるように視線を落とす。その横顔は、普段よりさらに落ち着いて見えた。




