7-2
鍋へ火をかける音が、静かなキッチンへ響く。私はスープ用の野菜を切りながら、小さく息を吐いた。昨日の酒は、思ったより残っていない。頭痛もほとんどないし、手元も安定している。
(……絶対ルークが何かしたわね)
ちらりと視線を向ける。ルークはキッチンカウンターへ肘をつきながら、のんびりコーヒーを飲んでいた。完全にリラックスした顔だ。他人事ともいう。
「紫乙さん、玉ねぎ追加あります」
恵介君が冷蔵庫を覗き込みながら言う。
「あ、ありがとう。使うわ」
私は玉ねぎを受け取りながら聞いた。
「年始って仕事あるの?」
「あります」
恵介君は少し苦笑した。
「1月6日に、雑誌の対談が入ってて」
「早いわね」
思わず声が出る。まだ正月気分も抜けない時期だ。
「キャンセルも考えたんですけど……」
そう言って、恵介君は少しだけ視線を落とした。
「どうしても受けたかった仕事なんです」
その言い方が、妙に真剣だった。私は包丁を動かしながら続きを待つ。
「ワタベ電機の企画なんです」
その名前に、私は小さく頷いた。ワタベ電機。大型家電から生活用品まで扱っている有名メーカーで、家電量販店へ行けば必ず名前を見る。
「パンフレットに起用してもらってる関係で、対談企画が入って」
「へえ」
私は少し驚いた。恵介君は最近、広告関係の仕事が増えている。けれど、“対談”となるとまた少し意味合いが違う。
「相手は?」
「ワタベ電機の企画部の課長さんです。伊神蔵之介さんっていう方で」
恵介君の声が、少しだけ明るくなる。
「僕が最初にパンフレットへ起用された時の窓口の人なんです。当時は広告宣伝部にいて、そのあと企画部へ異動されて。僕がデザインしたカラーの掃除機を作ってくださったんですよ」
「えっ、あの限定モデル?」
「そうです」
私は少し目を丸くした。たしか、ネットでも話題になっていたはずだ。落ち着いた色味で、インテリアに馴染むと評判だった。
「それで、その宣伝も兼ねてインタビュー企画が来たんですけど……、うちの事務所の社長が、“伊神さんが相手なら面白そうだ”って対談形式を提案したんです」
恵介君は苦笑する。
「まさか受けてもらえるとは思ってなくて。メディアへ顔を出すの、嫌がられがちな仕事ですし。渡部社長も、基本的に表へ出ない方なんですよ」
すると、リビングから社長が反応した。
「ああ、伊神君か」
「知ってるんですか?」
「以前、仕事で会ったことがある。真面目な人だよ」
落ち着いた声だった。私は鍋をかき混ぜながら聞く。
「どんな対談なの?」
「子供の頃からワタベ電機に触れてきた話とか……、あとは仕事論ですね」
恵介君が少し照れくさそうに笑った。
「僕、昔から家電好きなんです」
「分かる気がする」
「実家の炊飯器もワタベ電機だったんですよ」
恵介君はどこか懐かしそうに言った。
「子供の頃、炊き上がる時の音が好きで。メロディーとか」
「あー……」
私は少し笑った。そういう記憶、分からなくもない。家電の音や匂いは、不思議と記憶へ残る。
「だから今回、嬉しくて」
「そっか」
私は頷いた。たぶん、そういう“好き”がある仕事は強い。無理してでも引き受けたくなる気持ちは分かる。
「久しぶりの外出になるしな」
社長が静かに言う。その言葉に、キッチンの空気が少しだけ変わった。私は手を止めないまま、そっと恵介君を見る。最近の彼は、以前よりずっと落ち着いている。でも、まだ完全ではない。人混みや外出は、今でも負担になることがある。だからこそ、その仕事を受けた意味は大きいのだろう。
「緊張する?」
「します」
即答だった。でも、そのあと少しだけ笑う。
「でも、楽しみです」
その顔を見て、私は少し安心した。ちゃんと前を向いている。無理をしているだけの顔じゃない。
「衣装はどうするの?」
「スタイリストさんが入るみたいです」
「すごい」
「いや、僕もまだ信じられなくて……。久しぶりに外に出るから、どんな格好をしていけばわからなくて」
恵介君が苦笑する。その時だった。
「僕、トンネルも行きたいんですよね」
急に話題が飛んだ。
「紫乙さんたち、30日に行くんでしょう? いいなって思って」
「え?」
私は思わず振り返る。
「昨日、配信見てて思ったんですけど、面白そうで」
「面白そうで行く場所じゃないわよ」
即座に返す。すると、社長が静かに口を開いた。
「恵介」
「うん?」
「軽率に夜のトンネルへ行こうとするな。お前は、まだ自由に外へ出られる状態じゃないだろう」
声は穏やかだった。でも、しっかり叱っている。恵介君が少し肩を縮める。
「……ごめんなさい」
その様子を見ながら、私は小さく息を吐いた。そろそろ外へ出たいのだろう。それは、よく分かる。閉じこもってばかりだと、気持ちは沈む。昼間に眠気が強くなり、夜になると眠れない。生活リズムも崩れていく。本当なら、少しずつ外を歩いた方がいい。太陽を浴びて、人のいる場所へ出て、身体を動かした方が回復には繋がる。でも、今はまだ、そう簡単に言えない状況の中にいる。社長は、そのことを誰より理解しているのだろう。
「まずは昼間の外出からだ」
静かな声だった。
「夜のトンネルは、そのあとにしなさい」
恵介君は苦笑しながら頷いた。
「はい……」
私は鍋をかき混ぜながら、そんな二人のやり取りを眺めていた。少しずつ。本当に少しずつだけれど。この家の時間は、前へ進んでいるのかもしれない――そんなことを思いながら。




