7-1 五十里邸
12月29日、月曜日。13時。
五十里邸の前へ着いた時、私は小さく息を吐いた。
「……眠い」
ぼそっと呟く。昨夜、結局家へ帰ったのは午前2時近かった。シャワーを浴びて、メイクを落として、ベッドへ倒れ込んだ後、夢を見ていた。朝まで眠った後は妙に頭がすっきりしていた。夢のことで泣いたのに。でも、お昼前になると眠くなった。
今日は午前中から買い物だ。恵介君から送られてきたメモを見ながら、スーパーを二軒回ってきた。鶏むね肉。豚こま。豆腐。ブロッコリー。きのこ。卵。うどん。味噌。調味料。冷凍保存できる野菜類。三日分の料理を作る予定だから、量もそれなりに多い。私はエコバッグを持ち直した。隣では、ルークが平然とした顔で立っている。
「君、ちゃんと寝た?」
「4時間くらい」
「少ないね」
「誰のせいよ……」
睨むと、ルークは楽しそうに笑った。
「でも、顔色は悪くない」
「それ、絶対なんかしたでしょ」
「少しだけ」
やっぱりである。たぶん、頭痛でも飛ばされたのだろう。朝起きた時、思ったより楽だった。完全に助けられている気がして、少し悔しい。私は五十里邸のインターホンを押した。数秒後、ぱたぱたと足音が聞こえる。そして、扉が開いた。
「あっ、紫乙さん」
顔を出したのは恵介君だった。部屋着のパーカー姿で、髪も少し跳ねている。休日らしい格好だった。
「こんにちは」
「こんにちは!すみません、買い物まで頼んじゃって」
申し訳なさそうに頭を下げる。
「いいのよ。どうせ料理するんだし」
「重かったですよね?」
「まあまあ」
私は笑いながら袋を持ち上げた。恵介君とはくだけた話し方に変化している。この間、ここに来た後、ラインでやり取りし、すっかり打ち解けていた。すると、奥から低い声が聞こえた。
「紫乙君、来たのか」
視線を向ける。リビングの奥から現れたのは、社長だった。いつものスーツ姿ではない。黒のニットに、柔らかいグレーの部屋着パンツ。髪も少し下ろしていて、完全にオフの格好だった。それなのに、妙に存在感がある。私の呼び名が下の名前に変わっている。ラインをして連絡をまめに取り合う中で、そう変化した。恵介君が下の名前で呼ぶからだろう。
「あ……、こんにちは」
私は軽く頭を下げる。
「こんにちは。すまないね、休みの日に」
「いえ、大丈夫です」
社長は、少し疲れたように笑った。
「恵介が、君の料理しか食べたくないと言い出してね」
「ち、違うよ!」
恵介君が慌てる。
「そこまで言ってないよ!」
「似たようなものだろう」
社長が静かに笑う。その空気が柔らかくて、私は少しだけ安心した。以前より、この家の空気は穏やかになった気がする。
「入ってくれ」
「お邪魔します」
私は靴を脱いで中へ入った。暖房の効いた室内は暖かい。外が寒かったせいか、それだけで少し眠気が増す。
「紫乙、眠そう」
後ろからルークがぼそっと言う。
「うるさい……」
「昨夜、1時半以降の記憶が怪しかったよ」
「言わないで」
そこで、恵介君が吹き出した。納得した顔をされる。どうやら察したらしい。ねえさんの配信に出ると伝えてあったから、見たそうだ。
「それで今日来てくれるの、すごいですね」
「……私もそう思う」
本音だった。リビングへ入ると、テーブルの上にはすでにペットボトルの水とスポーツドリンクが置かれていた。
「えっ」
私が目を丸くすると、社長が静かに言った。
「恵介が、二日酔い対策に必要だと言っていた」
「完全に心配されてる……」
私は思わず額を押さえた。恵介君が少し気まずそうに笑う。
「いや、ルークさんから、“たぶん飲みすぎてる”って連絡が来て」
「裏切り者!」
振り返ると、ルークは悪びれもせず微笑んでいた。
「大事な情報共有だよ」
「敵しかいない……」
リビングが笑いに包まれる。私は小さくため息をつきながら、買い物袋をキッチンへ運んだ。広くて綺麗なキッチンだ。調理器具も揃っていて使いやすい。最初は緊張したけれど、だいぶ慣れてきた。
「今日は何作るんですか?」
恵介君が後ろから覗き込む。
「まず、鶏むね肉のハムの香味だれ添え。あとスープと、きのこの和え物。豚肉は冷凍して、後で使えるように下味つけるわ」
「助かる……」
本当に安心した顔をする。その反応を見ると、なんだか放っておけなくなる。私は冷蔵庫を開き、中身を確認した。
「あ、卵まだ残ってる」
「昨日コンビニで買いました」
「えらい」
褒めると、恵介君が少し嬉しそうに笑った。その横で、社長が静かにこちらを見ている。
「紫乙君」
「はい?」
「本当に、すまないね」
落ち着いた声だった。
「本来なら、お手伝いさんでも雇えば済む話なんだが。恵介がここにいることを漏れるのを避けたくてね」
「いや、別にそんな」
私は慌てて首を振る。
「料理、嫌いじゃないので」
「それでも、君に負担をかけている」
その言い方が、妙に真面目だった。この人は、本当に気を遣う。社長という立場なのに、こういうところが妙に丁寧だ。
「負担なら断りますよ」
私は笑いながら言った。
「嫌なら来ません」
「……それもそうか」
社長が小さく笑う。すると、ルークが横から口を挟んだ。
「紫乙は頼られるの嫌いじゃないからね」
「勝手に分析しないで」
「でも本当だろう?」
私は少し言葉に詰まる。否定は、できなかった。料理を作って。誰かが美味しいと言って。安心した顔をする。そういう時間は、たしかに嫌いじゃない。
「……とりあえず作るわよ」
誤魔化すように言いながら、私は袖をまくった。包丁を取り出し、野菜を並べる。まな板へ触れた瞬間、不思議と頭が切り替わった。昨夜の騒がしさ。酒の匂い。笑い声。それとは別の、“日常”の空気。私はブロッコリーを切り分けながら、小さく息を吐いた。こういう時間も、悪くない。そう思いながら。




