5-9
午前1時。
アンダーウェアの扉が閉まる。室内の熱気が消えた瞬間、冬の冷たい空気が頬へ刺さった。
「うわ、寒っ……」
思わず肩を縮める。新宿二丁目の路地は、深夜になっても明るかった。酔った人たちの笑い声。タクシーのヘッドライト。コンビニの白い灯り。年末だからか、普段よりさらに人が多い気がする。
私はコートの前を閉じながら、小さく息を吐いた。白い。頭が、少しふわふわする。いや、少しじゃない。かなり酔っていた。
「紫乙、大丈夫?」
隣でルークが覗き込んでくる。
「だいじょ、ぶ……」
「それ、大丈夫じゃない人の喋り方だよ」
「歩けるもん」
一応、本当に歩けてはいる。ただ、足元が少し頼りない。シャンパンを飲み、そのあと緑茶割りを飲み、その流れでレモンサワーまで飲まされて、気づけばまた乾杯していた。完全に飲みすぎた。
「……やらかした」
ぽつりと呟く。
「何が?」
「今日、午後から五十里邸なのに……」
言った瞬間、軽く頭を抱えたくなった。今日は午後から、五十里邸へ行く予定なのだ。恵介君に頼まれた買い物を届けて、それから三日分の料理を作る。冷蔵保存できるものをまとめて作っておく約束になっていた。なのに、この状態である。
「あー……」
ルークが少し困ったように笑った。
「飲みすぎたね」
「あなたが飲ませたんでしょ……」
「君が楽しそうだったから」
「悪魔……」
私が睨むと、ルークは楽しそうに肩を揺らした。本当にこの人、酔っている私を見るのが好きなのだ。絶対、面白がっている。
路地を抜けながら、私は少しぼんやりした頭で空を見上げた。都会だから星は少ない。でも、夜空は綺麗だった。冷たい空気のおかげか、いつもより透明に見える。
「ねえ」
私はふと思い出したように口を開く。
「小牧君、結局来たわね」
「来たねえ」
結局、22時半を少し過ぎた頃、本当にアンダーウェアへやって来たのだ。しかも。
『電気、復活しましたー!』
と、店へ入った瞬間に叫んでいた。店内は大爆笑だった。
「配信者って元気よね……」
私はしみじみ呟く。
「さっきまで“人生終わった”みたいな顔してたのに」
「コンセントに明かりが戻った瞬間、復活したんだろうね」
「単純……」
でも、少し羨ましくもあった。配信者たちは、感情の切り替えが早い。落ち込んでも、炎上しても、次の日には配信している。強いというより、“止まれない”のかもしれない。
「紫乙も似てるよ」
ルークが何気なく言った。
「え?」
「君も、結局また人の輪に戻ってくる」
私は少しだけ黙った。たしかに。疲れることは多い。人付き合いも苦手だ。配信だって、向いているとは思わない。でも、それでも結局、こういう場所へ来てしまう。誰かと笑って。酒を飲んで。くだらない話をして。その時間に救われている。たぶん、そういうことなのだ。
「……寒い」
ふらっと身体が揺れる。その瞬間、ルークが自然に私の腕を掴んだ。
「危ない」
「平気」
「平気じゃないよ」
低い声が近い。酔っているせいで、距離感がおかしくなる。私は少しだけ顔をしかめた。
「あなた、酔ってないのずるい……」
「飲んでないからね」
「ずるい……」
繰り返すと、ルークが笑った。
「じゃあ、君も次からウーロン茶にする?」
「それは嫌」
「わがままだなあ」
そう言いながら、ルークは私の歩幅へ合わせてゆっくり歩いてくれる。その優しさが、また腹立たしい。たぶん私は、酔うと少し素直になる。だから、困る。
「……ねえ」
私はぼそっと呟いた。
「なに?」
「今日、楽しかった」
「うん」
ルークが柔らかく笑う。
「僕も楽しかったよ」
「歌、ずるかった」
「まだ言う?」
「だって、空気変だったもん」
「褒めてる?」
「……半分くらい」
ルークが小さく笑う。その横顔を見ながら、私はぼんやり思う。ふざけてばかりいるくせに、時々、妙に優しいと。そして、時々、本当に“守護者”みたいな顔をする。
「紫乙」
名前を呼ばれる。
「今日、飲みすぎたこと後悔してる?」
「……ちょっと」
本音だった。今は楽しい。でも、たぶん昼頃には地獄を見る。五十里邸のキッチンで、頭痛と戦いながら鍋をかき混ぜる未来が見える。
「大丈夫だよ」
ルークが静かに言った。
「昼までには治る」
「なんで分かるの」
「僕がいるから」
「その言い方、怖いのよ……」
私は苦笑する。でも、不思議と安心もしてしまう。ルークは時々、本当に全部どうにかしてしまいそうな顔をするからだ。コンビニの前まで来ると、ルークが立ち止まった。
「水、買おうか」
「いる……」
「ほらね。やっぱり酔ってる」
自動ドアが開き、暖かい空気が流れてくる。私はそのまま店内へ入りながら、小さく息を吐いた。楽しかった。本当に。飲みすぎたし、絶対あとで後悔する。でも、こういう夜があるから、また誰かのために料理を作って、買い物をして、日常へ戻っていけるのかもしれない。そんなことを、少しだけ思った。夜空には星が瞬いていた。




