5-8
小牧君が、ふいに私の姿へ気づいた。さっきまで私は、ルークから少し内緒話をしたいと言われ、画面の外へ避けていた。とはいえ、大した話ではない。
「楽しい?」
そう聞かれただけだった。もちろん、私は頷いた。こんな経験をするなんて、昔の自分には想像もできなかったと思う。19年前。22歳だった頃。インターネットは普及しつつあったけれど、今みたいな時代ではなかった。スマートフォンなんてなくて、動画配信も身近じゃない。でも、今は違う。ネットを通じて、世界が横へ広がっていく。普通なら絶対に知り合わなかった人たちと、こうして繋がっている。それが、少し不思議だった。
『あ、紫乙ちゃんいるじゃん!』
小牧君が、スマホの向こうで手を振った。
「こんばんは」
『久しぶり!今日そっち行くから!』
「え、来るんですか?」
『22時半くらいかなー』
どうやら、本当にこちらへ来るらしい。
「電気代払った直後に?」
『復旧待ち時間あるから!』
なるほど、暇なのだ。ねえさんが笑いながら聞く。
「じゃあ、店に来るの?」
『行く行く!それまでいてよ!』
その声に、ねえさんがこちらを見た。
「紫乙ちゃん、今日何時まで?」
「夜中まではいますよ」
「じゃあ決まりね」
小牧君が、ぱっと明るい顔をした。
『やった!』
コメント欄にも、“コラボ確定!”という文字が流れ始める。
「ねえさん、今回いつまで東京なんですか?」
私が聞くと、ねえさんはグラスを持ちながら答えた。
「元旦の夕方までいるよ」
『じゃあ、どっかで配信しようよ!』
小牧君が、食い気味に入ってくる。
『外配信でもいいし!』
「年末年始って、人が多いのよねえ」
『それがいいんじゃん!』
ねえさんは少し考え込んだ。スマホのスケジュールアプリを開き、唸る。
「30日は紫乙ちゃんとトンネルでしょ。カウントダウン配信もあるし」
『じゃあ、明日?』
「あー……」
その時だった。ルークが、横からぽつりと言う。
「明日は雨っぽいよ」
「えっ」
「夜から少し降る」
ねえさんが驚いた顔をした。
「天気見たの?」
「なんとなく」
適当である。私は思わず横目でルークを見る。たぶん、本当に“なんとなく”ではない。でも、こういうところで変なことを言い始めると面倒なので、私は黙っていた。
「じゃあ昼にコラボする?」
ねえさんが小牧君へ聞く。
『昼ならいける!』
「新宿?」
『池袋でも!』
「うーん……」
少し考えた後、ねえさんが頷いた。
「じゃ、明日で」
『決まり!?』
「決まり」
コメント欄が盛り上がる。
『行動力すご』
『配信者の予定決まるの早い』
『年末感ある』
確かに、その通りだった。普通なら、もっと細かく予定を調整するのだろう。でも、配信者たちは違う。“今できる”を優先する。勢いで決まり、勢いで始まり、勢いで人が集まる。そういう世界なのだと思う。
『よし、じゃあ、俺、あとで店、行くわ!』
小牧君が元気よく言う。
『電気代払ったし、もう無敵!』
「その無敵、レベル低くない?」
私が言うと、店内がどっと笑った。小牧君も、画面の向こうで笑っている。
『いやほんと、年末って怖いね!』
「まず請求書を見なさい。口座振替じゃないの?そうしなさいよ」
ねえさんが呆れ顔で返す。そのやり取りを聞きながら、私は小さく笑った。騒がしくて、くだらなくて、でも、妙に温かい。そういう夜だった。
店の笑い声を聞きながら肩を震わせていると、隣でルークが勝手に私のグラスを引き寄せた。
「はい」
目の前へ差し出されたのは、緑茶割りだった。焼酎を少し濃いめに入れ、氷を混ぜ、緑茶を注いだだけのシンプルな酒。アンダーウェアの飲み放題は、各テーブルへ酒類や割り材が置かれていて、各自で作るスタイルだ。だから、慣れている人間ほど勝手に他人の酒を作り始める。そして、ルークは妙に手際がいい。
「……濃くない?」
「大丈夫」
絶対に大丈夫じゃない時の返事だった。私は半目になる。
「あなた、自分は飲まないくせに」
「僕はウーロン茶があるから」
そう言って、ルークは自分のグラスを軽く持ち上げた。琥珀色の液体。一応、見た目はウーロンハイっぽい。でも、中身はほぼウーロン茶だ。実際に酒を飲む時もあるけれど、今日はほとんど口をつけていない。
「トイレ行きたくなると面倒なんだよね」
以前、本人はそう言っていた。本当かどうかは分からない。だって、この人なら、どうにでもできそうだからだ。水分を飛ばすとか、酔いを消すとか、アルコールを分解するとか、そのくらい普通にやりそうで怖い。私はグラスを見下ろした。
「……なんか納得いかない」
「何が?」
「私だけ酔わされてる感じ」
「気のせいだよ」
ルークが穏やかに微笑む。その顔が、一番信用できない。
「早く酔いなよ」
「嫌よ」
即答すると、ルークは楽しそうに笑った。
「どうせ今日は飲むんだろう?」
「……まあ」
私は店内を見回した。ちょうど今、吉田さんがシャンパンを開けたところだった。ぽんっ、と軽い音が響き、店内から歓声が上がる。
「ねえさん、おめでとー!」
「かんぱーい!」
グラスがぶつかる音。笑い声。リングライトの光。年末独特の浮かれた空気が、店中へ広がっている。そんな中で、「飲みません」という選択肢は、たしかに少し取りづらかった。
「ほら」
ルークが、私のグラスを軽く押す。
「今日は楽しい夜なんだから」
「……その言い方ずるいのよ」
私は小さくため息をつき、グラスへ口をつけた。緑茶の香りの後から、焼酎の熱が喉へ落ちていく。
「あー……、濃い」
思わず顔をしかめると、ルークが満足そうに目を細めた。
「いい感じ」
「絶対、面白がってるでしょ」
「少しだけ」
少しじゃない。でも、その時だった。
「紫乙ちゃーん!乾杯しよー!」
ねえさんが、シャンパングラスを掲げながらこちらを呼ぶ。私は思わず笑ってしまった。もう、今日は駄目だ。たぶん、ちゃんと酔う夜になる。
そう思っていると、ルークがこちらへ微笑みかけてきた。それは、とても優しい笑顔だった。どこか、“守護者”らしいものを感じる笑みで、私は少しだけ、安心してしまったのだった。




