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照明が少し落ちた店内で、ルークがマイクを持つ。その瞬間、不思議なくらい空気が静かになった。配信準備をしていた人たちまで手を止めている。
「いかないで……」
低く、柔らかな声が店内へ広がった。
「いかないで……」
ぞくり、とした。隣でミナトさんが小さく息を呑むのが分かる。ルークの歌声は、上手いというより危険だった。感情を押しつけてくるわけじゃない。なのに、気づくと引き込まれている。まるで、静かに首へ手を回されるみたいに。逃げるタイミングが分からなくなる。
「ひとりにしないで……」
店のざわめきが、完全に消えていた。さっきまで騒いでいた常連たちも黙っている。吉田さんでさえ、カウンターに肘をつきながら真顔で聴いていた。私は思わず視線を逸らしかける。こういう時のルークは、少し怖い。普段はふざけてばかりなのに。歌っている時だけ、別人みたいになる。感情の奥を、そのまま声に乗せてくる。
「……やば」
誰かが小さく呟いた。それくらいしか、言葉が出ない。ルークは目を閉じたまま歌っている。照明が横顔へ落ち、睫毛の影が頬へかかる。低音が、胸の奥へ沈んでくる。店の空気が、完全にルークへ支配されていた。
その時だった。入口の扉が開く音がした。けれど、誰もそちらを見ない。みんな歌に引き込まれている。私はなんとなく振り返った。そして、目を瞬かせる。
「あ……」
入口に立っていたのは、スタイリッシュねえさんだった。長いコートを脱ぎかけたまま、店の中を見て固まっている。
「……なにこれ」
ぽつりと呟く。
「店入った瞬間、空気がドラマなんだけど」
私は思わず吹き出しそうになった。その瞬間にも、ルークの歌声は静かに流れている。
「そばにいて……」
甘く、低く、掠れた声。ねえさんが、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
「紫乙ちゃん」
「お誕生日おめでとうございます」
「ありがと。……っていうか誰あれ」
小声で聞かれる。
「ルーク」
「知ってる。知ってるけど、今日やばくない?」
私は苦笑した。
「今日は本気っぽい」
「いや、本気すぎるでしょ……」
ねえさんはそう言いながら、私の隣の空いていた席へ腰を下ろす。その目は、完全にルークへ向いていた。店内も同じだった。みんな、黙って聴いている。酒を飲む手も止まっている。そして、歌が終わりに近づく。最後のフレーズ。
「いかないで……」
静かに、音が消えた。一瞬。本当に一瞬だけ、店内が無音になる。そして次の瞬間。
「うわあああ!」
「やば!!」
「反則!!」
「だから好き!!」
拍手と歓声が一気に爆発した。吉田さんがカウンターを叩いている。
「ちょっと待って、うち今日バーよね!?ライブ会場じゃないわよね!?」
店内が大笑いになる。ルークは、そんな反応にも特に照れた様子はなく、小さく笑っただけだった。
「ありがとう」
その一言に、また悲鳴みたいな歓声が上がる。
「だめだ、この男!」
「人たらし!」
「沼!」
私は額を押さえた。
「……だから嫌なのよ、この人連れてくるの」
すると、隣でスタイリッシュねえさんが真顔で言った。
「いや、毎回来て」
思わず笑ってしまった。ルークはマイクを置きながら、こちらを見る。そして、悪びれもせず微笑んだ。
「紫乙。次、何を歌おうか」
「……もう好きにして」
そう返すと、店の笑い声がさらに大きくなった。店内では、まださっきの歌の余韻が残っていた。カウンター席では、「やっぱ低音だよな」と誰かが語り合っているし、ミナトさんはスマホを見ながら「切り抜き欲しい……」と呟いている。
「今日の配信、絶対ルークさん切り抜かれる」
「タイトル、“店がライブ会場になった”とかになる」
「ありそう」
笑いが起きる。その流れのまま、ねえさんとの話題は自然と今後のコラボ予定へ移っていった。
「そういえば紫乙ちゃん、年末のトンネル配信って、ほんとに行くの?」
「行きますよ」
私はうどんの器を持ちながら頷いた。
「ねえさんとルークとの三人で」
「寒そう」
「絶対寒い」
周囲から同情の声が飛ぶ。ねえさんは気にした様子もなく笑った。
「でも、数字出るのよ、ああいうの」
「まあねえ……」
心霊スポット系は、年末になると妙に伸びる。そんな話をしている、その時だった。
「あっ」
ねえさんが急にスマホを見ながら声を上げた。
「小牧君、また電気止められてる」
店内の何人かが、一斉に反応する。
「えっ、また?」
「嘘でしょ」
「年末恒例じゃん」
私はスマホ画面を覗き込んだ。配信サイトのおすすめページ。そこに、小牧君の配信が上がっている。タイトルは――。
『大阪から帰宅したら電気が止まっていた』
視聴者数、4500人。
「うわ、めっちゃ見られてる」
私が呟くと、ミナトさんが呆れたように笑った。
「また小牧が”電気止められた芸”やってる」
「芸って」
「いや、年に何回かやるのよ、彼」
別の配信者が口を挟む。
「払うの忘れるんだって」
「横浜住みだよね?」
「そうそう。大阪から帰ったら真っ暗だったらしい」
店内に笑いが広がる。小牧君は33歳の男性配信者だ。雑談と外出配信を中心に活動していて、生活感を隠さないタイプ。財布事情も、部屋の汚さも、寝坊も全部そのまま配信する。だから人気がある。
「コメント欄、“ブレーカーじゃなくて?”で埋まってる」
「絶対最初みんな疑うやつ」
ねえさんが笑いながらスクロールする。すると、数秒後。
「あ、タイトル変わった」
画面を見せてきた。
『これから電気代を払いに行く』
「早い」
「行動力だけはある」
「いや、止まってから動くな」
店内から総ツッコミが入る。吉田さんなんて、カウンターで肩を震わせて笑っていた。




