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19時半。
新宿二丁目は、夜になると空気が変わる。年末特有の浮ついた熱気。酔った笑い声。ネオンの灯り。狭い路地に並ぶ看板の光が、湿ったアスファルトへぼんやり滲んでいる。私はコートのポケットに手を入れながら、ルークと並んで歩いていた。
「寒い……」
白い息が夜の空気へ溶けていく。駅から少し歩いただけなのに、指先が冷えていた。けれど隣のルークは平然としている。寒さに強いのか、それとも気にしていないだけなのか、よく分からない。
「今日は人が多いね」
「年末だからでしょう」
忘年会帰りらしい人たちが、笑いながら通り過ぎていく。その流れを抜け、細い路地へ入ると、見慣れた雑居ビルが見えてきた。一階に小さなネオン看板が出ている。UNDERWEAR。配信用リングライトのイラストが横に描かれた、少しゆるいデザインの看板だ。ゴミ置き場が近くにあり、数袋が積み上げられていた。ネズミがかじったのか。それともカラスの仕業なのか、下の方は穴が開いていた。明日が収集日のはずだ。正月三が日は収集がないから、店から出たごみがまた積み上げられるのだろう。アンダーウェアは正月の2日から営業だ。年末も開いていて、元旦の午前4時に閉まる。
「着いたわね」
「うん」
私は手に提げていた紙袋を持ち直した。中には、マリーズカフェのドリップコーヒーのセットと、コンビニで買ってきたチキンが入っている。今日は翌朝5時まで営業だ。きっと途中でお腹が空く。吉田さんは営業中、自分のことを後回しにしがちだし、スタッフのゆうきさんも、配膳や片付けでまともに休まない。だから、軽く食べられるものを持ってきた。
「君、なんだかんだ優しいよね」
ルークが横で言う。
「普通よ。夜通し働くなら、お腹空くでしょ」
「でも、コンビニのチキンを選ぶところが現実的だ」
「シャンパンタワーより役に立つわよ」
「夢がないなあ」
「あなたが現実を見なさい」
私は呆れながら店のドアノブに手をかけた。すると、店内の音楽が聞こえてきた。低めの重低音。誰かの笑い声。マイクテストらしい声も混ざっている。店の扉の前で一瞬立ち止まり、私はドアを開けた。
「こんばんはー」
途端に、暖房の熱気と出汁の匂いが流れ込んでくる。
「あっ、紫乙ちゃん!」
カウンターの向こうから声が飛んだ。吉田さんだった。今日は黒のパーカーにデニムというラフな格好だ。普段の街中にいそうな服装なのに、不思議とこの店に立つと“アキラママ”らしく見えるから不思議だ。
「いらっしゃい!」
笑顔で手を振ってくる。店内は飾りつけがされていた。吉田さんがやっているところを配信で見てきた。
「こんばんは。ねえさんの誕生日の飾りつけができていますね」
私は軽く頭を下げた。
「ありがとー!あの子、今年も無事に歳を取るんじゃないかしら」
「その言い方だと、生還報告みたいですね。吉田さんも誕生日が近いですよね。いつも忘れたっていうけど、本当はいつなんですか?」
「アタシ、本当に忘れたのよ。この年齢になると、だいたいそんな感じよ」
吉田さんはけらけら笑う。カウンターの奥では、ゆうきさんが鍋の火加減を確認していた。
「あ、紫乙さん。こんばんは」
相変わらず穏やかな声だ。細身で少し眠そうな顔をしているけれど、営業が始まると驚くほど動きが速い。
「こんばんは。これ、差し入れです」
私は紙袋を差し出した。
「マリーズカフェのドリップコーヒーと、チキン。朝方、お腹空くかなと思って」
「えっ、嬉しい!」
吉田さんが目を丸くする。
「絶対助かる。今日長丁場だし」
「ゆうきさんの分もあります」
「ありがとうございます」
ゆうきさんが柔らかく笑った。
「たぶん夜中に飢えるので」
「でしょ?だからチキンにしたの」
私は笑いながらコートを脱ぐ。店内はまだ営業開始直後で、完全に混み合う前の空気だった。リングライトを準備している配信者。スマホを充電している人。すでに酒を飲み始めている人。カウンターで雑談している常連。独特のゆるさが、この店にはある。
「ルークさんも、こんばんは」
ゆうきさんが声をかける。ルークは軽く手を上げた。
「こんばんは、ゆうき君」
「今日は人、多くなりそうですよ」
「23時以降かな。配信終わり組が来るだろうね」
「あー……」
ゆうきさんが少し遠い目をする。
「また、うどん祭りですね」
「今日は何味?」
「基本は肉うどんですけど、味噌もあります。吉田さんが昼から仕込んでました」
「えらい」
私が言うと、吉田さんが胸を張った。
「うち、食で戦う店だから」
「ゲイバーなのに?」
「ゲイバーだからよ!」
意味は分からない。でも、この店はそういう場所だった。配信ができて、カラオケができて、朝までだらだら過ごせて、うどんが美味しい。変な店なのに、妙に居心地がいい。




