4-9
18時。
あれから私は再び五十里邸のキッチンに立ち、最後に大きな鍋でカレーを仕上げた。野菜を多めに使い、オーガニック原料のカレールウをゆっくりと溶かしていく。いつもとは違う味だから少し不安もあったけれど、味見の時点では悪くない出来だったと思う。
「この匂い、たまらないです」
恵介君がそう言って、キッチンから離れなかったのを思い出す。その様子を見ていた社長は、どこか安心したように、やわらかく笑っていた。帰り際には、こう声をかけられた。
「29日も来てくれないか」
料理が目的なら仕事扱いでいい、と言われ、ボーナスまで出すと言われたのには驚いたけれど、断る理由はなかった。
そして今。私はルークと一緒に、アパートに戻ってきている。コートを脱ぎ、暖房の効いた部屋に入ると、ようやく一日が終わった実感が湧いてきた。こたつはすでに出してあり、ルークは当然のように足を入れている。
私はスマホを手に取り、配信の準備を始めた。昨日は、あの“光”が部屋に入り込んできたところで終わっている。その後、ダイレクトメッセージがいくつも届いていた。
――「あれ何?」
――「演出?本物?」
――「続きが気になる」
どれも、答えられないものばかりだ。窓の外を見ると、まだ雪の名残が残っている。昼を過ぎても完全には溶けきらず、帰り道では踏むたびに、しゃり、と小さな音がしていた。
「……外、寒いわよね」
ぽつりと呟く。
「今日は早めに動けたから、一日が長く感じるわ」
そのときだった。
「……あのさ」
ルークが、不意に口を開いた。振り向くと、彼はミカンの皮をむきながら、何気ない顔で差し出してくる。
「なに?」
受け取りながら聞くと、彼は静かに言った。
「君、ああいうの好きなんだね」
「……ああいうの?」
「面倒を見る感じ」
一瞬、言葉に詰まる。
「……仕事だからよ」
「本当に?」
視線がぶつかる。いつもより、少しだけ強い目だった。
「料理して、様子見て、あの子のこと気にしてた」
「当たり前でしょ」
思わず声が少し強くなる。
「体調も崩していたし、貧血気味だったでしょう」
「ふうん」
短い返事。その声音が、わずかに引っかかる。
「なによ」
「別に」
そう言って笑う。でも、その笑いはいつもより少し固かった。
「……嫉妬してるの?」
軽い気持ちで聞いた。けれど――。
「してるよ」
返ってきたのは、まっすぐすぎる答えだった。
「……は?」
「嫌なんだよ」
さらりと続ける。
「君が、誰かのために料理するの」
「仕事だって言ってるでしょ」
「それでもだよ」
少し間を置いて、ルークは言った。
「恵介君はいい子だった。僕も好きだよ。だからまた会いたいと思う」
「それならいいじゃない」
「でも」
言葉が、少しだけ重くなる。
「君は社長にも優しくするだろう」
「それの何がいけないのよ」
「いけなくない」
はっきりと言い切る。
「でも、僕は好きじゃない」
その言葉に、私は一瞬だけ黙った。
(……こんな言い方、する人だった?)
「……子どもみたい」
「そうだよ」
即答だった。
「僕、そういうところ、昔から変わらない」
その一言が、胸に残る。――“昔から”。私は、その“昔”を知らない。でも、ルークは知っている。その差が、ふいに現実として浮かび上がる。私は息を整えてから、ゆっくりと言葉を選んだ。
「社長はね、恵介君のこと、好きなのよ」
ルークの目が、わずかに細くなる。
「あなたが言ったんでしょう?」
「……そうだね」
「だから思ったの」
視線を落とす。
「好きって、ああいう感じなのかなって」
言った瞬間、空気が変わった。
「じゃあ、僕は?」
「え?」
「僕のは、どう見える?」
まっすぐな問い。でも、答えは出てこない。
「……分からない」
正直に言う。
「あなた、変だもの」
「ひどいな」
苦笑する。けれど、その表情はどこか穏やかだった。
「でも、それでいい」
「え?」
「君が分からないって言うなら、それでいい」
少しだけ笑う。
「思い出したときに、ちゃんと分かるから」
静かな声だった。
「それまで、僕はお預けだ。近づきたいのに、君の方が少しずつ離れていく」
「そんなことないわよ」
私は首を振る。
「こうして一緒にいるじゃない。あなたが無茶を言っても、ここにいる」
「それは僕が出ていかないからだ」
軽く笑う。
「中田君みたいに、トイレに籠城しているようなものだ」
「例えがおかしいわよ」
思わず小さく笑う。
「だって、あなたのこと、まだ何も覚えていないのよ。半年しか一緒にいないんだもの」
「僕は、全部知ってるのにね」
ルークは静かに言った。
「好きなのに、切ないよ」
「……」
「資格を取るまで待つしかない。本当に覚えてないの?」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「“夕日のように消える”って言ってくれたこと、あったじゃないか」
「なにそれ」
思わず眉をひそめる。
「別れの言葉みたいじゃない」
「そうかもね」
ルークは微笑んだ。
「僕は、追いかけてきたのかもしれない」
「……」
「君と、離れるつもりはない」
その言葉が、静かに胸に落ちる。私は何も言えなかった。ただ、手の中のミカンの甘さだけが、やけに鮮明に残っていた。




