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12時。
それから、気づけば二時間が過ぎていた。時計が、静かに12時を指す。キッチンには、三日分の料理が整然と並んでいた。鶏むね肉の蒸し料理、野菜たっぷりのスープ、きのこの和え物、やわらかく煮たブロッコリー。どれも冷蔵保存ができるように、小分けにしてある。
テーブルの上には、すでに箸とスプーンを並べていた。社長が戻ってきても、そのまま食事ができるように。リビングから、笑い声が聞こえる。
「それはずるいですよ、ルークさん」
「でも、事実だよ」
「いや、それを今、言いますか?」
くすくすと笑う声。恵介君だ。よかった。私は、鍋の火を止めながら、小さく息を吐いた。最初に会ったときの、あの張り詰めた空気はもうない。ルークがうまく距離を縮めてくれたのだろう。彼はこういうとき、本当に上手い。場の空気を壊さず、相手を安心させる。ふざけているように見えて、ちゃんと人を見ている。連れてきてよかった。そう思いながら、私はスープを器に移した。
ルークが恵介君と打ち解けてくれたおかげで、今回の事情も少し詳しく聞くことができた。元恋人の中田宗一のことだ。35歳のテレビ局員で、恵介君より10歳以上年上だったという。
給料はあるはずなのに、ギャンブルにつぎ込んでいつもお金がなく、恵介君の部屋に転がり込む形で半年ほど同棲していたらしい。浮気もひどく、何度も別れようとしたけれど、そのたびに謝られ、ずるずると許してしまったのだと聞いた。
けれど、恵介君の知人と浮気したことが分かり、さすがに気持ちが離れた。それでも中田はなかなか別れてくれず、別の知人の家へ追い出した後も、何度も会いに来た。強引に家の中へ入り込み、トイレに鍵をかけて籠城したことまであったという。
その後、プラセルコーポレーションとの仕事の縁で、トラブル対応に強いと評判の如月常務が相談を受けた。中田と話し合い、二度目の対応でようやく家に来なくなったらしい。
しばらくして、中田には新しい恋人ができ、恵介君はやっと平穏な日々を取り戻した。その矢先の、逮捕だった。落ち着かないのも当然だ。
金のない恋人を持ち、何でも自分の財布から出していたと聞いて、私は思わず遠い目になった。分かる。分かってしまう。ただ、中田宗一の場合は、お金がないというより、あっても余計なところへ使ってしまう人だったのだろう。ルークとは事情が違う。そのあたりのことを、呆れた顔になっていた私に、ルークがすかさず言った。
「僕とは違うんだよ」
すると、恵介君が、少し首を傾げて言った。
「ヒモなんですか?」
あまりに率直で、ルークが目を丸くした。それをきっかけに、二人は打ち解けたらしい。一応、私の方からは、ルークはお金を持っていないわけではなく、貯めるのが好きで、あまり使わないようにしているだけだと説明しておいた。かなり苦しい言い訳だったが、何も言わないよりはいい。
(よかった。恵介君、笑ってる。顔色もよくなったみたい)
私はまた板を洗いながら、そう思った。そのときだった。玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
落ち着いた声。社長だ。私はすぐにリビングへ顔を出した。
「お帰りなさいませ」
「ああ。戻った」
コートを脱ぎながら、社長が室内を見渡す。そして、恵介君の姿を見た瞬間、表情がやわらいだ。
「……どうだ?」
短い問いかけ。
「うん。大丈夫だよ」
恵介君が答える。その声は、朝よりもずっと落ち着いていた。社長は、ほっとしたように小さく息をついた。それから、私の方へ視線を向ける。
「永山さん」
「はい」
「ありがとう」
簡潔な言葉だった。でも、その中に、きちんとした感謝がこもっているのが分かる。
「いえ、とんでもございません」
軽く頭を下げると、社長はわずかに頷いた。それから、自然な動作で恵介君のそばに歩み寄る。
「襟、少し曲がっている」
「ああ、そうなんだね」
社長が、そっとシャツの襟を整える。その手つきは、とても丁寧で、やさしい。まるで、壊れ物に触れるみたいだった。
「……ありがとう」
「気にするな」
短いやり取り。けれど、その間に流れている空気は、どこか特別だった。私はそれを見て、ほんの少しだけ目を細める。仲がよさそうだと思った。その瞬間だった。
「気づいた?」
耳元で、小さな声がした。ルークだ。
「……なにが?」
小声で返す。
「社長、彼のこと好きだよ」
さらりと言う。私は、一瞬だけ息を止めた。そして、改めて社長を見る。確かに、視線が違う。やさしい。あきらかに、特別なやわらかさがある。守るような、気遣うような。そして少しだけ、距離を測っているような。その全部が、混ざっている。私は、静かに理解した。そういうことだったのかと。
「食事にしよう」
社長が言った。
「はい、すぐにご用意いたします」
私はキッチンへ戻り、手際よく配膳を始める。スープをよそい、温め直した料理を並べていく。湯気が立ち上り、部屋の空気が少しずつ変わる。さっきまでの静けさとは違う、“生活のある温度”に。
「どうぞ」
テーブルに料理を並べ終えると、二人が席についた。社長と恵介君が向かい合う形になる。
「いただきます」
静かな声が重なる。最初に手を伸ばしたのは、恵介君だった。スプーンを持ち、スープを一口。その様子を、社長が、じっと見ている。まるで、結果を待つように。恵介君は、ゆっくりと飲み込んだ。そして、微笑んだ。
「……おいしいよ」
小さく、でもはっきりと言った。その瞬間、社長の表情がやわらいだ。
「そうか」
それだけだった。でも、どこか嬉しそうだった。
「無理せず、少しずつでいい」
「うん」
短いやり取り。それでも、空気は十分に伝わる。私はその様子を見ながら、静かに頷いた。いい時間だと思う。食事の音。人の気配。やわらかい会話。この部屋に、ちゃんと“日常”が戻ってきている。それが、なにより大事なことだった。
しばらくして、食事が一段落したころ、社長がふとこちらを見た。
「永山さん」
「はい」
「今日は仕事納めだ」
そう言って、少しだけ微笑む。
「一年、お疲れさま」
「ありがとうございます」
「君がいてくれて、どんなに助かったことか」
社長が静かに頭を下げる。社長はこういう一言を、自然に言える人だ。だからこそ、周りがついていくのだろう。社長が続ける。
「もしよければ、今度は仕事ではなく来てくれないか」
少し間を置いてから、言葉を選ぶように続ける。
「……遊びに」
私は、ほんの一瞬だけ考えた。仕事ではない関係。でも、拒む理由はない。むしろ、いいと思った。
「ぜひ」
自然と、言葉が出た。
「お伺いさせていただきます」
社長は小さく頷いた。
「そうか」
それだけ。けれど、その一言で十分だった。窓の外は、まだ雪の名残が残っている。けれど、部屋の中は温かい。私はふと、ルークの方を見る。彼は、満足そうに微笑んでいた。




