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そうして空いた席に、私が入った。兄の紹介と、タイミング。そして――年齢。落ち着いていること。必要以上に踏み込まないこと。その点で、私は都合がよかったのだろう。恋人の有無についても、特に問題にはされなかった。けれど、男性社長の秘書という立場上、嫉妬する相手がいると仕事に影響が出ることもあるらしい。できれば、しがらみの少ない人間が望ましい。私は、その条件に当てはまっていた。
けれど、その“前提”は、途中で崩れた。ルークが現れたからだ。配信に登場するようになり、彼の存在は自然と社長の目にも入った。そして真っ先に見抜かれたのは、ルークの“私への想い”だった。
「付き合えばいいのに」
そう言われたとき、私は初めて真正面から考えた。ルークとの関係を。曖昧にしていた距離を。結果的に、背中を押したのは社長だった。そういう意味では、彼が私たちを引き合わせたとも言える。
ただ一つ。心に引っかかっていることがある。社長は、ルークのことを「プラセルに勤めるアメリカ人」だと信じている。けれど、それは嘘だ。本当は、まったく違う存在なのに。それでも私は、何も言えない。ルークが「内緒にしておいてくれ」と言うから。そして私は、それを守る側の人間だから。
スープの湯気が、ゆっくりと立ち上っていく。火加減を弱めながら、私は鍋の中を覗き込んだ。野菜はほどよく火が通り、鶏肉の旨味が溶け出している。やさしい匂いが、キッチンに広がっていた。
「……いい香りですね」
背後から、恵介君の声がする。
「ありがとうございます。もう少しで出来上がりますので」
振り返らずに答えると、彼は少し距離を詰めて、鍋の中を覗き込んだ。
「こういうの、久しぶりです」
「外食が多かったんですよね?」
「はい……。基本的には」
言葉を選ぶような、慎重な話し方だった。
「最近は、ほとんど食べていなくて」
その一言に、私はほんの一瞬だけ手を止める。思っていた以上に、消耗している。
「少しずつで大丈夫ですよ」
やわらかく声をかける。
「無理に量を増やさなくても、回数を分けるだけでも違いますから」
「……はい」
素直に頷く。その反応に、少しだけ安心する。そのときだった。鍋の中の泡が、ふわりと大きく膨らんだ。
「……え?」
思わず目を見開く。泡はそのまま、シャボン玉のように浮かび上がり、鍋の上、二十センチほどの空間で、ぱちん、と弾けた。慌てて火を止める。それでも、細かな泡がゆらゆらと揺れている。――ルークだ。分かっている。でも、口には出せない。恵介君がいる以上、説明のしようがない。そのとき、ルークがくすりと笑った。
「君、洗剤を入れたんじゃないか?」
「そんなこと、するわけないでしょう」
小さく睨む。恵介君が驚いている。
「すごい泡でしたね。鶏肉の灰汁でしょうか?」
「……そうかもしれませんね」
無難に答えるしかない。
「恵介君、料理をされていたと伺いましたが」
「はい。でも、事務所から止められていて」
「お怪我のこともありますし、仕方ないですよね」
「二回、包丁で切ってしまって……」
少し困ったように笑う。
「このスープ、好きなんです。鶏肉と野菜の」
「そうなんですね。お口に合うといいのですが」
「匂いで分かります。すごく美味しそうです」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「手際もすごいですね」
「そんなことはありませんよ」
軽く否定しながら、鍋をかき混ぜる。――その瞬間。
「あら?」
沈んでいたはずの玉ねぎだけが、まとめて浮かび上がってきた。くし切りの形のまま、ふわりと。……まただ。
「美味しくなるおまじないをかけてあげたんだよ」
横で、ルークが何でもない顔で言う。
「はは。おまじないですか」
恵介君が、少しだけ笑う。
「懐かしい言葉ですね」
「だろう?」
ルークは楽しそうに続ける。
「ここ、宇宙船と同じ空気にしてあるんだ。エーテル料理っていうんだよ」
「エーテル……?」
「オカルト用語だよ。幽霊料理って意味」
「え?幽霊……。消えるんですか?」
「そう。消える」
「はは……」
恵介君が、困ったように笑った。
「配信でもやったことがあるんですか?」
「いや、まだだよ。やってみたら面白そうだね」
「たしかに……、話題にはなりそうですね」
うまく合わせてくれている。冗談として受け取ってくれているのが分かる。――助かる。でも、私は知っている。ルークは、本気で言っている。もし今、この鍋ごと“消す”なんてことをされたら。そのときは、さすがに説明のしようがない。私はそっと鍋の火加減を調整しながら、心の中で小さくため息をついた。
――お願いだから、今日はそこまでにして。
そんな私の思いを知ってか知らずか、ルークは楽しそうに微笑んでいた。




