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恵介君が、ふっと微笑んだ。
「面白いものを見ました」
そう言われて、私は内心ほっとする。事前に社長から、彼はプライベートでは人見知りで、会話が続かないかもしれないと聞いていたからだ。
「……すごい配信でした。ルークさんの仕掛けだったんですか?」
「そうだよ」
ルークがにこやかに答える。
「……少し、不思議な感じがします」
「よく言われる」
それ以上は語らない。いつもの調子だ。私はそのやり取りを横目に見ながら、調理の準備に入った。まな板を出し、野菜を洗う。包丁の音が静かに響く。少しずつ、この空間に“生活の音”が戻っていく。
「本日は、どのようなお料理を?」
恵介君が遠慮がちに尋ねる。
「まずは軽めのものからにいたしますね」
手を止めずに答える。
「鶏むね肉の蒸し料理と、野菜のスープを中心に、副菜をいくつかご用意いたします」
「……しっかりされていますね」
「体に負担がかからないように考えておりますので」
そう言うと、彼は小さく笑った。さっきよりも、表情がやわらいでいる。
「……こういう空気、久しぶりです」
「空気、ですか?」
「人がいて、生活音がして……、料理をしている感じが」
私は一瞬だけ手を止めた。そうか。この部屋には、ずっと足りていなかったものなのかもしれない。
「よろしければ、しばらく続きますよ」
やさしくそう告げると、恵介君は小さく頷いた。そのときだった。
「紫乙」
ルークの声が、すぐ近くで響く。
「なに?」
「少し、入るね」
「え?」
次の瞬間、身体の内側に感覚が重なった。――ウォークイン。けれど、視界の端には、隣に立っているルークの姿もある。意識を分けているのだ。彼が“二人いる”ような、不思議な感覚。
「……ルーク、今?」
思わず声が漏れる。
「味見したくて」
「後にしてください」
小さく、抑えた声で返す。恵介君が不思議そうにこちらを見る。
「……大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」
私はすぐに微笑んだ。
「少し立ちくらみがしただけです」
「無理なさらないでください」
「ありがとうございます」
そう答えながら、ゆっくりと呼吸を整える。湯気が立ち上る。包丁の音が続く。人の気配がある。――ここには、ちゃんと“生活”がある。
鶏肉に下味をつけながら、ふと、社長のことを思い出す。五十里社長は45歳だ。叔父である五十里龍一氏から事業を引き継ぎ、音響会社・ファーストコンタクトの代表となった人物だ。もともとはグループ会社の藤下音響に勤めていたが、叔父の引退を機に、経営を託された。
就任から3年。会社は明らかに上昇気流に乗っている。テレビ局とのパイプ。レコード会社・IKUエンターテイメントとの提携。とくにIKUとの関係は、社長就任後に築かれたものだと聞いている。それによって、会社の規模も影響力も、一気に拡大した。もともと大きな企業だったが、そこからさらに“次の段階”へ進んだ印象だ。社内には、社長をカリスマのように見る社員もいるという。――分かる気がする。丁寧で穏やかな話し方。それでいて、決断の場では一切の迷いを見せない。NOと言わせない空気を、自然に作る人だ。
そんな社長が、私を秘書に採用した理由ははっきりしている。兄から、秘密を守れる人間だと聞いたからだ。実際、プライベートで知っていることは少ないとはいえ、大事なことを知らされている。男性と付き合うこともある、ということだ。
わざわざ公言するようなことではない。けれど、隠しているわけでもない。そういう距離感だった。社長の周囲には、“友人以上”と見える男性が複数いる。その関係性を把握しておくことも、秘書としての役割の一つだった。
一方で、社長は女性にもよくモテる。女性と付き合えないわけではなく、実際に過去には恋人もいたらしい。これは、同じ秘書室の山田さんから聞いた話だ。秘書同士の情報共有の中で自然と入ってくる内容だった。現在も、親しい女性は複数いる。タレントや女優、モデル――いずれも仕事で関わりのある相手だ。贈り物の手配などは秘書室が担当することも多く、関係性は嫌でも把握することになる。
全員独身で、社長も独身。だから、表立って問題になることはない。けれど、誰が“本命”になるのか。水面下で競っているような空気があるのも事実だった。秘書室でも、ときどきそんな話題になる。そのうち揉めるのではないかと。社長はうまく距離を保っているつもりでも、相手が本気になってしまうことがあるらしい。
実際、過去の秘書の中にも、社長に想いを寄せた人がいたという。男性も、女性もいた。けれど社長は、秘書とは一線を越えないと決めている。そのため、恋が実らなかった彼らは、最終的にグループ会社へ異動することになった。




