15-3
16時。
私は病室のベッドに横になり、枕元に置いたスマートフォンから流れてくる配信へ耳を傾けていた。配信をしているのは、久木田神社の神職・木田保貴さんだ。玉姫が暮らしている神社でもある。木田さんは一貴さんの友人で、今日は富士山を登っていた。現在は八合目の山小屋へ到着し、一泊する様子を配信している。
『みなさん。僕はそろそろ休憩したいと思います』
穏やかな木田さんの声を聞きながら、私は小さく息をついた。ここは個室だから、スマートフォンの音を出していても周囲を気にする必要はない。面会も24時間可能な病棟だ。ただし、私の場合は検査のため病室を空ける時間があるので、「来られる際は、あらかじめ予定している時間帯にお願いします」と看護師さんから説明を受けていた。そのため、夜になる前にまとめて顔を見せようと思ったのだろう。病室にはユリウスさんがやって来て、保木君とアレクを連れてきてくれた。さらに、夏樹君と一貴さんも一緒だ。
「何度も出入りすると病院にも迷惑がかかるからね。一度に済ませた方がいいと思って」
ユリウスさんはそう言って微笑んだ。
「来てくれてありがとう」
私は自然と笑顔になる。配信は流したままになっていた。止めようとスマートフォンへ手を伸ばすと、ユリウスさんが優しく制した。
「そのままでいいよ」
「でも……」
「紫乙さんは、いつもこうして誰かの配信を聞きながら過ごしているだろう?いつもの日常が少しでも残っていた方が、気持ちも落ち着くと思う」
私はその言葉に頷いた。
「ああ、木田さんの配信なんだね」
「ええ。さっき、一貴さんのことを話していたの」
「僕?」
一貴さんが少し驚いたように笑う。
「プラセルのファッションショーへ招待されたって話をしていたわ」
「ああ、そのことか」
一貴さんは納得したように頷いた。
「実は、紫乙さんのことも招待する予定だったんだ。五十里君もね。でも、当日は秘書としてだけじゃなく、一人のゲストとして楽しんでもらおうと思っていてね」
「そうだったのね」
少し残念な気持ちはあったけれど、その言葉だけで十分嬉しかった。一貴さんは柔らかな笑みを浮かべている。以前よりも、その表情にはどこか穏やかさが増していた。修輔君と恋人になってからだろうか。肩の力が抜け、自然に笑うことが多くなった気がする。そんな幸せそうな表情を見ていると、私まで温かな気持ちになってくるのだった。
すると、その時だった。夏樹君が病室に並ぶ検査機器へ静かに視線を向けた。その表情は少しだけ曇っている。夏樹君にも先天性の心疾患がある。過去にはジョギング中に心停止を起こし、生死の境をさまよった経験があった。きっと、あの日のことを思い出したのだろう。今回のツアー中も、夏樹君は新曲作りを進めていた。心停止した時に見た夢を題材にした楽曲だ。作詞も夏樹君自身が担当している。
「夏樹君。歌詞は順調にできてる?」
私が尋ねると、夏樹君は笑顔で頷いた。
「うん。タイトルは『Far From Heaven――サイド2』だよ」
「素敵なタイトルね」
「『天国から遠く離れて』っていう意味なんだ。まだ天国へ行く時じゃない。でも、地上にも完全には戻れていない。そんな狭間にいる心を歌おうと思ってる」
少し照れくさそうに笑ってから、続けた。
「『サイド1』は久弥が『Dear Drops』で発表した曲なんだ。その続きを描きたくてね。でも、最後はちゃんと地上へ戻ってくる。『マザー』と対になる一曲にしたいと思ってる」
「私、『マザー』のメロディーも歌詞も大好きなの」
自然と、あの歌詞が頭に浮かんだ。
――天にあるように地にも。あなたは次はどこで生まれますか。
『主の祈り』を思わせるその言葉。けれど『マザー』では、「次に生まれる場所」を静かに問いかけている。私は、この地球に生まれて幸せだったのだろうか。ここで生きてきた意味はあったのだろうか。そう自分へ問いかける。そして、その答えは今、この病室に集まってくれている人たちの姿の中にあった。私には、帰る場所がある。そう思えた。
「そうだ」
夏樹君は思い出したように、バッグから一冊のノートを取り出した。
「紫乙さんに読んでもらいたかったんだ」
表紙には丁寧な字でタイトルが書かれている。夏樹君が執筆中の絵本の構想ノートだった。彼は絵本のコラムも執筆していて、その時のペンネームは『黒崎双樹』。本来、双樹という名前になる予定だったため、そのままペンネームにしたのだという。夏樹君はノートを開き、静かに語り始めた。
「ルークに説得されて、紫乙さんは地球へ来たんだろ?でも、最後に選んだのは紫乙さん自身だったと思うんだ」
そして、自分が生まれた頃の記憶を話してくれた。
「温かいベッドで眠っていたら、『ナツキ』って呼ばれたんだ。それが俺の名前だった。その時はまだ外の世界じゃなかった。目を覚ましたら明るい部屋で寝ていてね。『ナツキが笑ったよ』って男の子がすごく喜んでた。伊吹お兄ちゃんだったんだ」
夏樹君は優しく微笑む。
「笑うだけでそんなに喜んでくれるなら、もっと笑おうって思ったんだ」
私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「だからきっと、紫乙さんも月島さんに名前を呼ばれたんだと思う。地球で生きるって決めた、その最初の日に」
少し間を置き、夏樹君は穏やかな声で続けた。
「だから、ご両親がお見舞いに来ることを拒まないであげて。月島さんがきっと、紫乙さんのことも、ご両親のことも大切に支えてくれるから」
「……ええ」
私は静かに頷いた。地球の両親がお見舞いに来ることを知ったのは、一時間ほど前だった。兄が連絡を入れてくれたのだ。
――もしものことがあったら、きっと後悔するから。
その兄の思いが、今の私には痛いほどよく分かる気がした。私は静かに頷いた。
「……うん。両親に来てもらうわ」
その言葉を聞くと、夏樹君も安心したように頷いた。
「それがいいと思う」
病室に穏やかな静けさが流れる。誰もすぐには口を開かなかった。それぞれが、それぞれの思いを胸に抱いているようだった。嬉しかったこと。苦しかったこと。後悔したこと。きっと、ここにいる全員が、それぞれ違う人生を歩み、違う痛みを知っている。それでも今、この病室に集まり、同じ時間を過ごしている。その事実こそが、一つの答えなのだと私は思った。
すると、その時だった。病室のドアが静かに開き、兄とルークが戻ってきた。
「みんな、待合室でお茶でも飲んでいってくれ。飲み物を買ってきてある」
兄がそう声をかけると、夏樹君が驚いたように目を丸くした。
「えっ、もう15分経ったの?」
話に夢中になっていたせいで、誰も時間を気にしていなかったらしい。一貴さんが腕時計を見て苦笑する。
「本当だ。あっという間だったな」
ユリウスさんたちも立ち上がり、それぞれ帰る支度を始めた。夏樹君は私のベッドのそばまで来ると、手にしていたノートをそっと差し出す。
「これ、預かっていて」
「いいの?」
「もちろん。読んで感想を聞かせてほしいんだ」
そう言って、いつもの優しい笑顔を見せた。
「また明日、来るよ」
「うん。待ってる」
私はノートを両手で受け取り、胸にそっと抱き寄せた。夏樹君の想いが詰まった、大切な一冊。そのぬくもりが手のひらから伝わってきて、自然と笑みがこぼれる。明日も、みんなに会える。そう思うだけで、不安ばかりだった病室が、少しだけ温かな場所に感じられた。




