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どれくらい時間が経ったのだろう。胸の痛みのせいで時間の感覚はすっかり曖昧になっていた。私には、兄たちが二言三言ほど言葉を交わしただけのようにしか感じられない。その会話が終わるか終わらないかのうちに、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。最初はかすかだったその音が、少しずつ、確実にこちらへ近づいてくる。
「来ました!」
廊下へ様子を見に出ていたアレクが声を上げた。
「救急車だ」
その言葉を聞いた兄は、安堵したように小さく息をつき、私の肩へそっと手を添えた。
「もう安心していい」
その一言に、張り詰めていた気持ちが少しだけ和らぐ。玄関の外では慌ただしい足音が響き、続いて階段を上がる音が聞こえてきた。ほどなくして数人分の足音が通路を駆けてくる。開いたままの玄関から、医療バッグを手にした救急隊員たちが素早く室内へ入り、その後ろからストレッチャーも運び込まれた。救急隊員が私のそばへ駆け寄る。
「こんにちは。分かりますか。お名前を教えてください」
私はゆっくりと目を開けた。
「……ながやま、し、お……」
声がうまく出ない。
「永山紫乙さんですね。大丈夫ですよ。今から病院へ向かいます」
若い隊員が穏やかな口調で話しかけながら、私の手首へ指を添える。もう一人は血圧計を腕へ巻き、胸へ聴診器を当てていた。
「胸の痛みはいつからですか」
私は小さく息を吸う。
「急に……、玄関で……」
「痛みは今もありますか」
頷こうとしただけで胸が苦しくなり、私はゆっくり目を閉じた。
「あります……」
「分かりました」
救急隊員は落ち着いた様子で頷くと、隣の隊員へ状況を伝えた。
「胸痛継続。意識清明。循環器疾患の可能性あり」
その言葉を聞いた兄が一歩前へ出る。
「高知で診察を受けた際、心雑音を指摘されました。精密検査を受ける予定でした」
「ありがとうございます。その情報は非常に助かります」
隊員はすぐに記録へ書き込んだ。
「搬送先へ伝えます」
私の身体へ心電図の電極が貼られ、指先には酸素濃度を測る小さな機械が取り付けられる。
「酸素を入れますね」
透明なマスクが口元へ当てられた。少しだけ呼吸が楽になる。それでも胸の締めつけは消えなかった。
「ストレッチャーへ移ります」
「せーの」
数人の手が私の身体を支え、揺らさないよう慎重に持ち上げる。そのままストレッチャーへ寝かされ、ベルトが掛けられた。
「紫乙」
兄が私の右手を握る。
「病院ですぐ診てもらえる。心配するな」
「……うん」
その隣ではユリウスさんが安心させるように微笑み、保木君とアレクも静かに頷いていた。ルークだけは、私のすぐそばから離れようとしない。救急隊員が慎重にストレッチャーを動かし、玄関から廊下へ出る。
「4階から階段で搬送します」
隊員の一人がそう告げると、別の隊員が頷いた。
「了解。頭側、お願いします」
私の身体はストレッチャーごと専用の搬送器具に固定され、ベルトが締め直される。
「永山さん、少し揺れますが、大丈夫ですよ」
優しく声を掛けられ、私は小さく頷いた。兄たちも後ろから付いてきている気配がする。すると、兄の声が聞こえた。私は返事をしようとしたが、もう声にならなかった。階段を一段ずつ降りるたび、わずかな振動が身体へ伝わる。救急隊員たちは息を合わせ、慎重に搬送を続けていた。
「一段下ります」
「はい」
「そのまま」
短い声が飛び交う。私は天井を見つめたまま、ぼんやりとその声を聞いていた。胸の痛みは変わらない。息をするだけで苦しい。頭の中まで霞がかかったようになり、意識が少しずつ遠のいていく。
(……あれ)
隣を歩くルークへ目を向けた。すると、不思議なことが起きた。黒かったはずの髪が淡い光をまとい、少しずつ銀色へと変わっていく。私は目を瞬かせた。そこにいたのは、ルークなのに、ルークではなかった。ラファエル先生だ。あの穏やかな笑顔の先生によく似た姿だった。
そして、もう一つの記憶が胸の奥から浮かび上がる。ミケーネ。あの時、彼は彼女の身体を強く抱き締め、悲痛な表情を浮かべていた。何もできない自分を責めるような、今にも泣き出しそうな顔だった。でも、今、目の前にいる彼は違う。表情は落ち着いていて、どこか厳しさを帯びている。強い意志を秘めた眼差しで、まっすぐ私を見つめていた。けれど、後ろから兄たちの声が聞こえた瞬間、その厳しい表情がふっと和らぐ。優しい笑みが浮かんだ。その笑顔は、いつものルークそのものだった。
「……ルーク」
掠れた声で名前を呼ぶ。
「うん」
すぐ隣から返事が返ってくる。私は震える唇を動かした。
「私……、死ぬの?」
ルークは迷うことなく私の手を包み込んだ。
「まだ大丈夫だ」
その声は静かだったが、確かな力強さがあった。
「凰李たちもいる。君は一人じゃない」
私は小さく息を吐く。その言葉だけで、不思議なくらい安心できた。やがて一階へ降りると、アパートの前には救急車が待機していた。夏の日差しが眩しく目に映る。ストレッチャーはそのまま救急車へと運び込まれ、私の身体が固定される。後部ドアが閉まる音が聞こえた。サイレンが鳴り始める。その音が遠くなっていくように感じながら、私は最後にもう一度ルークの姿を見つめた。銀色に見えた髪は、いつの間にか元の黒髪へ戻っていた。
(……よかった)
そう思った瞬間、私の意識は静かに闇の中へ沈んでいった。




