14-2
15時45分。
タクシーは元麻布へ入り、ほどなくして私のアパートの前で静かに停車した。兄たちが次々と荷物を降ろし、部屋まで運んでくれている。ここまで世話になったのだから、このまま帰ってもらうのは申し訳ない。せめて冷たいお茶くらい飲んで休んでいってほしいと思い、みんなを部屋へ招くことにした。
タクシーが走り去っていくのを見送ると、私は玄関の鍵を開けた。ドアを開けた瞬間、出発前に置いていった新しい芳香剤のほのかな香りがふわりと漂う。
「あら、いい香りね。ルーク、あなたが選んだ香りでよかったわ」
私が振り返って微笑むと、ルークは満足そうに口元を緩めた。
「そうだろう。君はもう一つの香りを選ぼうとしていたけど、こっちの方が控えめで落ち着くと思ったんだ」
「そうね。こっちの方が部屋にも合っているわ。それにしても、家の中は暑いわね」
締め切っていた部屋の熱気が一気に押し寄せてくる。
「早くエアコンをつけないと」
私は靴を脱ぎながらリビングへ向かおうとした。後ろでは兄たちが荷物を抱えたまま玄関へ入ってくる。
「冷たいお茶があるわよ。出かける前にペットボトルを冷蔵庫へ入れておいたから、すぐ飲めからる」
「それは助かる。今日も暑かったからな」
兄が笑いながら答えた。その時だった。
「……っ」
胸の奥を、何かに強く握り潰されたような激しい痛みが走った。
「……!」
思わず息をのみ、右手で胸を押さえる。ズキッ――ではない。締め付けられるような、押し潰されるような痛みだった。息が吸えない。心臓が急に早鐘を打ち始め、呼吸が浅くなる。
(な、に……)
立っていることさえ苦しくなり、視界がぐらりと揺れた。足元から力が抜けていく。私は思わず壁へ手をつこうと腕を伸ばした。けれど、指先は届かない。身体から一気に力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
「紫乙!」
ルークの声が耳元で響いた。次の瞬間、ぐらりと傾いた私の身体を、ルークが咄嗟に抱き支えてくれた。
「紫乙さん!」
保木君も荷物を放り出して駆け寄ってきた。胸が痛い。苦しい。呼吸をしようとしても、思うように空気が入ってこない。
「……っ、はぁ……」
浅い呼吸だけが何度も漏れる。兄が私の前へ膝をついた。
「紫乙、分かるか。返事をしろ」
肩へ優しく手が添えられる。返事をしたい。大丈夫だと言いたい。それなのに、声が出ない。胸の奥を万力で締めつけられるような痛みだけが強くなっていく。
「痛い……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
「胸か?」
私は小さく頷く。
「急に……、痛くて……」
その言葉を聞いた兄の表情が変わった。
「ルーク、紫乙を床へ寝かせる。ゆっくりだ」
「分かった」
ルークは慌てることなく、私の身体をそっと支えながら玄関の床へ横向きに座らせ、そのままゆっくりと仰向けに寝かせた。
「苦しい?」
私はもう一度だけ頷く。呼吸をするたびに胸が痛む。頭の中までぼんやりしてきた。ユリウスさんが私の手を握る。
「大丈夫。僕たちがいるから」
その声は穏やかだった。不思議と、その一言だけで少し安心できる。兄はすぐにスマートフォンを取り出した。
「救急車を呼ぶ」
迷いはなかった。画面を操作し、119番へ発信する。
「お願いします。成人女性です。突然、強い胸の痛みを訴えて倒れました」
兄の声は落ち着いている。
「場所は東京都港区元麻布――」
住所を正確に伝え、状況を説明していく。
「意識はあります。会話はできますが、呼吸が苦しそうです。胸を押さえています」
電話の向こうから質問が続く。兄は一つ一つ落ち着いて答えた。
「はい。突然です。持病ですか……心臓の病気と診断されたことはありません。ただ、先日、医師から心雑音を指摘され、大きな病院で検査を受けるよう勧められていました」
その言葉を聞き、私はぼんやりと聖河さんの顔を思い出す。あの時、もっと早く予約をしていれば良かったのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
「分かりました。救急隊をお願いします」
兄は電話を切ると、私へ視線を戻した。
「もう来るからな」
私はゆっくり頷いた。ルークは私の額へ触れる。
「汗が出てる」
自分でも気づかなかった。額だけではない。首筋も背中も冷たい汗で濡れている。息を吸うたび、胸の中央が締めつけられる。
「紫乙、無理に話さなくていい」
兄が静かに言う。
「呼吸だけ意識しろ」
私は小さく息を吸う。浅い。どうしても深く吸えない。
「ルーク、玄関を開けておいてくれ」
「うん」
ルークはすぐにドアを大きく開けた。アレクは廊下へ出た。
「救急隊が来たらすぐ案内します」
「頼む」
保木君は玄関に散らばった荷物を素早く壁際へ寄せ、通路を広く空けた。
「これで担架も入れます」
「ありがとう」
誰も取り乱していない。そのことが、少しだけ心強かった。私は天井を見つめる。見慣れた部屋。ほんの数分前まで、暑いねと笑っていた場所なのに、景色がまるで違って見えた。胸の痛みは少しも引かない。むしろ呼吸をするたびに強くなる。
「お兄ちゃん……」
「ここにいる」
すぐ返事が返ってくる。
「怖い……」
思わず漏れた本音だった。兄は私の手をしっかり握り返した。
「大丈夫だ。救急隊がもう向かっている」
私はその言葉に頷いた。そして、ルークが私のそばで膝をつきながら、怖くないよと言った。でも、私のもう片方の手を握って、つらそうな顔をしている。だから、私の状態がよくないことが分かり、どうしようもない恐怖が走った。




