14-1 帰京
翌日。8月12日、水曜日。14時。
私たちは三日間の高知旅行を終え、高知龍馬空港から羽田空港へと戻ってきた。ここで昼食を済ませたら、それぞれ自宅へ帰る予定だ。けれど、兄もユリウスさんも保木君もアレクも、私の体調と荷物の多さを気にして、一度元麻布の家まで送ってから帰ろうと言ってくれた。
原因は、ルークだ。空港で「あれも欲しい、これも欲しい」と目を輝かせ、お土産を次々と買い込んだ結果、私たち二人だけでは到底持ち切れない量になってしまった。紙袋や箱がいくつも増え、結局、兄たちまで荷物を分担して運んでくれている。本人は悪びれる様子もなく、満足そうな笑顔で袋を眺めているのだから、怒る気も失せてしまう。
「東京に帰ってからも楽しめるね」
そう言って笑うルークに、私は苦笑しながら肩をすくめた。
「誰が運ぶことになると思ってるの」
「みんな」
即答だった。その答えに、兄たちまで思わず笑ってしまう。こういうところは、本当にルークらしい。私たちは、そのまま空港内のラウンジへ向かった。お目当ては、ここの名物でもあるビーフカレーだ。ルークとアレクが「一度食べてみたい」と朝から楽しみにしていて、それを聞いた兄が「それなら最後に寄っていこう」と提案してくれたのだった。
実は私も、このカレーが気になっていた。本当は空港内の和食店でざるそばを食べる予定だった。でも、お盆休みに入ったこの時期はどこも混雑している。ゆっくり座って旅の締めくくりを楽しもうということになり、比較的落ち着いて過ごせるラウンジを選んだのだ。
三日間、本当によく歩いた。よさこい祭りの熱気を間近で感じ、高知の街を巡り、美味しいものを食べ、桂浜の景色を眺め、コンサートでは最高の時間を過ごした。少し疲れは残っているものの、それ以上に心は満たされていた。私は窓の外に並ぶ飛行機を眺めながら、小さく息をつく。楽しかった。そんな思いが胸いっぱいに広がっていた。
ラウンジへ入ると、外の喧騒が嘘のように静かだった。大きな窓の向こうには、離着陸を繰り返す飛行機が並び、滑走路では整備車両が忙しそうに行き交っている。落ち着いた照明とゆったりとしたソファのおかげで、ようやく旅の終わりを実感できた。
「空いていて良かったわね」
私がそう言うと、兄が頷く。
「ああ。和食屋はさっき見たら長蛇の列だったからな。ここにして正解だった」
「お盆だからね」
ユリウスさんも窓の外を眺めながら微笑んだ。私たちは6人掛けのテーブルに腰を下ろした。ルークは席に着くなり、嬉しそうにメニューを開く。
「ビーフカレー!」
「それしか見てないね」
私が笑うと、ルークは真顔で頷いた。
「今日はこれを食べるために飛行機に乗ったんだ」
「違うでしょう」
思わず笑ってしまう。アレクまで腕を組みながら頷いている。
「僕も楽しみでした」
「二人とも、本当に好きなんだね」
保木君が苦笑すると、兄も笑った。
「ここまで期待されるカレーも珍しいな」
全員が同じビーフカレーを注文し、飲み物だけそれぞれ好きなものを頼んだ。少し待つと、香辛料の香りと一緒に湯気を立てたカレーが運ばれてくる。
「おお……」
ルークの目が輝いた。
「美味しそう」
「いただきます」
みんなで手を合わせ、スプーンを手に取る。一口食べた瞬間、ルークが目を丸くした。
「美味しい!」
「本当だ」
アレクも驚いたように頷いている。
「辛すぎなくて、肉が柔らかい」
「空港のカレーって有名なんだよ」
兄が笑う。
「だから一度食べさせたかった」
「ありがとう」
ルークは素直に礼を言うと、夢中で食べ始めた。その姿を見ているだけで、こちらまで嬉しくなる。私もゆっくりとスプーンを口へ運ぶ。牛肉はスプーンだけでほぐれるほど柔らかく、コクのあるルーがご飯によく合う。
「美味しい……」
思わず呟くと、ユリウスさんが微笑んだ。
「紫乙さん、気に入った?」
「うん。また食べたいわ」
「東京へ戻る時の楽しみが増えたね」
「そうだ」
自然と笑顔になる。三日間の思い出話をしながら食事は進んでいった。桂浜での出来事。よさこい祭りで見た演舞。コンサートのこと。ルークが買い過ぎたお土産のこと。何を話しても笑いが起きた。それだけ充実した旅だったのだ。食べ終える頃には、身体も心も満たされていた。私は温かいコーヒーを一口飲み、小さく息をつく。
「楽しかったね」
「また来よう」
兄がそう言うと、全員が頷いた。
「今度は二泊じゃ足りない」
アレクが真面目な顔で言う。
「三泊かな」
「四泊でもいいよ」
ルークまで乗ってくる。
「あなた、本当に遊ぶのが好きね」
私が呆れて言うと、また笑い声が広がった。その笑い声を聞きながら立ち上がろうとした、その時だった。
「……っ」
胸が少し苦しくなった。ほんの一瞬だった。階段を駆け上がった後のように、呼吸が浅くなる。
(あれ……)
私は誰にも気づかれないように、小さく息を吸った。少し息を整えれば治る。そう思った。高知でも歩き回ったし、今日は朝から飛行機に乗っている。疲れが残っているだけだろう。
「紫乙?」
ルークが顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「あ……、うん」
私は笑顔を作る。
「ちょっと食べ過ぎたかも」
「珍しい」
「カレー、美味しかったから」
そう答えると、ルークは安心したように笑った。でも、立ち上がった瞬間、もう一度だけ息が詰まるような感覚が襲ってきた。胸いっぱいに空気を吸えない。ほんの数秒。それだけで治まった。
(変だわ)
私はそっと胸へ手を当てる。痛みはない。苦しさもすぐ消えた。だから誰にも言わなかった。高知で聖河さんに「心雑音がある」と言われたことが、一瞬だけ頭をよぎる。
――一度、大きな病院で検査を受けてください。
あの穏やかな口調が思い出される。
(帰ったら予約しよう)
そう思った。急ぐ必要はない。検査だけ受ければ安心できる。私はそう自分に言い聞かせた。
「行こうか」
兄の声で我に返る。
「うん」
荷物を持とうとすると、兄が首を横に振った。
「持つな」
「でも」
「今日は僕たちが運ぶ」
保木君も紙袋を持ち上げる。
「紫乙さんはリュックだけでいいですよ」
「ありがとう」
「ルークさんのお土産、多すぎですよ」
アレクが笑いながらルークを見る。
「悪かった」
そう言いながらも嬉しそうなのだから、誰も本気では責められなかった。私たちはラウンジを後にし、到着ロビーへ向かった。羽田空港は相変わらず多くの人で賑わっている。旅行客。帰省する家族。大きなスーツケースを引く人たち。その流れに合わせて歩いているうちに、さっきの息苦しさはすっかり消えていた。
(やっぱり疲れかな)
そう思い直す。空港を出ると、8月の熱気が身体を包み込んだ。
「暑い……」
思わず声が漏れる。
「東京も負けてないね」
ユリウスさんが苦笑した。兄はすぐにタクシー乗り場へ向かい、大型車を手配してくれた。しばらくすると、黒いジャンボタクシーが静かに横付けされた。運転手さんがトランクを開けると、兄たちは次々とスーツケースや紙袋を積み込んでいく。
「これで全部です」
「ありがとうございます」
荷物を載せ終えると、私たちは車内へ乗り込んだ。冷房の効いた空気に包まれ、私はようやく肩の力を抜く。窓の外では、東京の景色がゆっくりと流れ始めた。高知で過ごした三日間が、少しずつ思い出へと変わっていく。私はその景色を眺めながら、もう一度だけ小さく胸に手を当てた。今は何ともない。だからきっと大丈夫。そう信じて、元麻布の自宅へ向かうタクシーに揺られていた。




