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しかし、その拍手が収まる前だった。ステージの照明がゆっくりと落ちていく。ギターは静かにフェードアウトし、代わりに柔らかなピアノの音色が流れ始めた。
「あっ……」
私は思わず息をのむ。曲が途切れない。まるで一つの物語のように、自然な流れで次の楽曲へつながっていく。スポットライトがステージ中央ではなく、少し左側を照らした。そこには、一台の電子キーボードが置かれている。悠人君がギターをスタッフへ預け、ゆっくりとキーボードの前へ歩いていった。椅子へ腰掛けると、一度だけ客席を見渡し、小さく微笑む。そして、そっと鍵盤へ指を置いた。
すると、静かなピアノの旋律が流れ始める。さっきまでの激しいロックサウンドが嘘のような、優しく澄んだ音色だった。客席の歓声は自然と静まり、誰もがその旋律へ耳を傾ける。夏樹君もマイクを両手で包み込むように持ち、ゆっくり目を閉じた。激しさの後だからこそ、その静けさがより心へ染み渡る。ディスレクトサイドゼロは、激しいだけのバンドではない。優しさも、切なさも、そのすべてを音楽に込めて届けてくれる。そう感じながら私は静かに姿勢を正し、これから始まるバラードへ心を委ねた。
悠人君の指先が鍵盤の上を静かに滑る。澄んだピアノの音色が会場を優しく包み込み、さっきまでの熱気が嘘のように静まっていく。客席には誰一人として声を上げる人はいなかった。誰もが次の一曲を待っている。夏樹君はゆっくりと目を開け、マイクを口元へ近づけた。
「次の曲を聴いてください。『マザー』」
そのタイトルが告げられた瞬間、客席のあちこちから静かな拍手が起こる。私は自然と背筋を伸ばした。去年の夏に発表された曲だ。動画では何度も聴いてきた。それでも、生で聴くのは今日が初めてだった。悠人君のピアノに、大和君のベースがそっと重なる。琉芯君はドラムを優しく鳴らす。聡太郎君は透明感のある旋律を添えていた。そして、夏樹君が歌い始める。
最初の歌詞は、母親の視点だった。遠くへ旅立った息子を思い続ける親の心。ちゃんと食べているだろうか。風邪を引いていないだろうか。笑って暮らしているだろうか。直接そんな言葉が歌われているわけではない。それでも、一つひとつの歌詞から、離れて暮らす子どもを案じる親の温かい愛情が伝わってきた。切ない。でも、どこか優しい。そんなバラードだった。
私は静かに夏樹君を見つめる。この歌詞を書いたのは、夏樹君自身だ。自然と、一人の女性の顔が浮かんできた。夏樹君のお母さんだ。穏やかな笑顔が印象的で、誰に対しても優しく接してくれる人だった。初めて会った時も、まるで昔から知っていたかのように温かく迎えてくれた。あんなお母さんがいる夏樹君を、少し羨ましいと思ったこともある。私には、そんな思い出が少ないからだ。
けれど、私はふと考え直した。私には兄がいる。いつも心配してくれて、困った時には必ず手を差し伸べてくれる。さっきだって、ヘドバンをしようとして腰を痛めた私を真っ先に心配してくれた。聖河さんに診てもらった時も、ずっと様子を見ていてくれた。形は違っても、私は一人ではない。そう思うと、不思議と胸が温かくなった。
曲は静かにサビへ入る。歌詞は少しずつ視点を変え、今度は母を想う子どもの気持ちへと移っていく。ありがとうと言えなかった日々。もっと優しくすればよかったという後悔。そんな想いが、夏樹君のまっすぐな歌声に乗って会場へ広がっていく。私も兄のことを思いながら、静かに耳を傾けていた。
その時だった。トントン。肩を軽く叩かれる。振り向くと、アレクが少し身をかがめていた。
「紫乙さん」
演奏の邪魔にならないよう、小さな声で話しかけてくる。
「今、百貨店の担当から連絡が入りました」
「え?」
「体験プログラムの支払いが正式に承認されました。これで契約条件は達成です」
私は思わず目を丸くした。
「本当?」
「はい」
アレクは嬉しそうに頷いた。
「だから、もう撮影のことは気にしなくていいです。今からは自由に旅行を楽しんでください」
その言葉を聞いた瞬間、胸につかえていたものが少し軽くなる。今回の旅行では、体験プログラムの条件を満たすことも目的の一つだった。そのことが、どこか心の隅で気になっていた。でも、それはもう終わった。あとは純粋に、この高知での時間を楽しめばいい。そして、アレクは続けた。
「もし体調が悪くなるようなら、明日は無理をしなくていいですから、ホテルでゆっくり休んでいてください」
「でも……」
「無理は禁物です」
その言葉は優しかった。私はアレクの顔を見つめる。このタイミングで条件達成の連絡が来るなんて、あまりにも都合が良すぎる。もしかして――。
「アレク……、もしかして」
私は小さく尋ねた。
「あなたが本社に話をして、早めに承認してもらったの?」
アレクは一瞬だけ笑みを深めた。そして、はっきりとは答えず、肩をすくめる。
「無理はいけません」
それだけだった。けれど、その一言で十分だった。私は思わず笑ってしまう。
「ありがとう」
「いいんですよ」
アレクは優しく微笑む。
「楽しむために来たんですから。ブルーハイサービスの加入ができましたので、今度は新しいサービスを紹介させてくださいね。旅行から帰ったら、お話ししましょう」
その言葉を聞きながら、私は再びステージへ視線を戻した。夏樹君の歌声は、変わらず会場いっぱいに響いている。その優しいメロディーが、今の私の心へ静かに染み渡っていった。




