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すると、その時だった。
「……っ」
私は胸の奥に、小さな痛みが走るのを感じた。
ツキッ――。
針で突かれたような鋭い痛みだった。思わず胸元へ手を添える。
「どうしたの?」
ルークがすぐに気づき、小声で尋ねてきた。
「ううん……」
私は小さく首を振る。
「少し胸が痛くなっただけ」
痛む場所は胃ではない。もっと上、胸の中央付近だった。ズキズキと激しく痛むわけではないが、重苦しさを伴うような違和感がある。そういえば、この間も同じような痛みがあった。夜中には息切れのような症状で目が覚めたこともある。けれど、その後は何事もなく治まり、旅行へ出発する頃にはすっかり気にならなくなっていた。だから、もう大丈夫だと思っていた。高知へ来てからも一度も症状は出なかった。それなのに、どうして、今になって。私は誰にも気づかれないよう、そっと胸へ手を添えたまま、小さく息を整えた。
私は胸へ添えた手を、ゆっくりと下ろした。今はもう痛みはない。本当に一瞬だけだった。
「大丈夫?」
隣にいたルークが、もう一度小さな声で尋ねる。
「ええ。もう治まったわ」
「顔色は悪くないけど……」
「心配しすぎよ」
私は微笑んで見せた。できるだけ自然に。ルークを安心させたかった。実際、苦しくて動けないほどではない。胸を針で突かれたような痛みが一瞬走っただけだ。それに、せっかくみんながライブ前の穏やかな時間を過ごしている。こんなことで空気を変えたくはなかった。ルークは少しだけ納得していないようだったが、それ以上は何も言わなかった。
その頃、聖河さんは聡太郎の方へ歩いていた。
「今日は右手の調子はどう?」
「昨日よりいいです」
聡太郎は右手を軽く握ったり開いたりして見せる。
「朝もストレッチをしてきました」
「痛みは?」
「演奏を続けると少し張る感じがあります。でも、鋭い痛みはありません」
「それなら悪くはないね」
聖河さんは頷き、聡太郎の右手首へそっと触れた。
「少し動かしてみよう」
「はい」
手首を回し、指を一本ずつ動かす。聖河さんはその様子を注意深く見ながら、腱の動きを確認していた。
「炎症は落ち着いてきているね。でも、油断は禁物だ」
「分かっています」
「ライブが終わったら、今日もアイシングをしよう」
「お願いします」
そのやり取りを聞いていたみんながホッとした顔になった。そう思っていた、その時だった。
「紫乙さん」
穏やかな声が聞こえた。顔を上げると、聖河さんが私を見つめていた。
「今、胸を押さえていたね」
「えっ……」
見られていた。
「少し痛みがあっただけです。もう治まりました」
「どの辺が痛んだ?」
「この辺です」
私は胸の中央付近を指差した。
「針で刺されるような痛みが、一瞬だけありました」
「息苦しさは?」
「今はありません」
「動悸は?」
「今はないです」
聖河さんは静かに頷いた。
「少し診せてもらってもいいかな」
「はい」
私は素直に返事をした。聖河さんは椅子を勧め、バッグから聴診器を取り出す。
「失礼するね」
私はジャケットの前を少し開き、ブラウス越しに聴診器を当ててもらった。
「深呼吸して」
ゆっくり息を吸い、静かに吐く。控室は自然と静まり返った。夏樹君たちも会話を止め、こちらを見守っている。聖河さんは胸の数か所、背中へと丁寧に聴診器を当てながら、呼吸音と心音を確認していく。
「もう一度、大きく吸って」
私は指示どおりに呼吸を繰り返した。しばらく聴診を続けていた聖河さんの表情が、ほんのわずかに変わる。真剣な眼差しになり、もう一度、胸の同じ場所へ聴診器を当てた。私はその様子を見て、少しだけ不安になる。数秒後、聖河さんはゆっくり聴診器を外した。
「呼吸音は問題ない」
そこまで言うと、一度言葉を切る。
「ただ……、心音に少し雑音があるね」
「雑音……?」
思わず聞き返した。兄も表情を曇らせる。
「大丈夫なのか?」
聖河さんは落ち着いた口調で答えた。
「今すぐ命に関わるような状態とは思わない。でも、正常な心音だけではないことは確かだ」
ルークの表情が一気に引き締まる。
「原因は何でしょうか」
「現時点では分からない。聴診だけで診断はできないからね」
聖河さんは私へ向き直った。
「紫乙さん。こういう胸の痛みは初めてではないね?」
私は少し迷ってから頷いた。
「……この前にも一度ありました」
「ほかには?」
「夜中に息切れがして目が覚めたことがあります。でも、その後は何ともなくなりました」
「なるほど」
聖河さんは静かに考え込んだ。
「胸の痛みと心雑音が関係している可能性もあるし、まったく別の原因かもしれない。それを判断するには、心電図や心エコーなどの検査が必要だ」
私は無意識に膝の上で手を握り締めた。
「そんなに悪いんでしょうか」
「今の段階では、悪いとは言えない」
聖河さんは優しく微笑む。
「だからこそ、きちんと調べようということだ。原因が分からないまま放っておく方が心配だからね」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「旅行が終わったら、一度循環器内科を受診してほしい」
「分かりました」
「それまでは無理をしないこと。もし胸の痛みが長く続いたり、息苦しさや強い動悸、冷や汗などが出たら、その場で我慢せず必ず知らせてほしい」
「はい」
すると、夏樹君が心配そうに私を見つめた。
「紫乙さん、本当に無理しないでね」
「ありがとう」
夏樹君の優しい声に、私は微笑み返した。ルークは私の隣へ静かに立ち、心配そうな眼差しを向けている。聖河さんはその様子を見て、小さく頷いた。
「ルー君ん、今日は紫乙さんの様子を少し気に掛けてあげてください」
「もちろんだよ」
ルークは迷うことなく答えた。
「少しでも変わった様子があれば、すぐに先生へ伝えるよ」
「お願いします」
控室には再び穏やかな空気が戻った。けれど私の胸には、先ほど聖河さんが口にした、心雑音という言葉だけが、小さく残り続けていた。




