11-18
18時半。
アレクと保木君を見送った後、私はしばらく玄関に立っていた。ドアの向こうから二人の話し声が聞こえる。保木君が何か言い、アレクが楽しそうに笑っていた。その声もやがて遠ざかっていく。私はゆっくりとドアを閉めた。
「帰ったね」
ルークが後ろから言う。
「帰ったわね」
私は頷く。なんだか嵐が通り過ぎた後のような気分だった。リビングへ戻る。テーブルの上には湯呑みが並んでいる。そして、アレクからもらった小皿の箱もあった。私はそれを手に取る。やはり綺麗だった。
「満足?」
ルークが聞く。
「なにが?」
「小皿」
「そうね」
私は笑った。
「綺麗だもの」
すると、ルークも頷く。私は時計を見る。18時半だった。気が付けば随分時間が経っている。夕食にはまだ少し早い。鉄火巻と土佐巻を食べるには、あと30分ほど欲しかった。私はソファーに腰を下ろす。
そして、ふと思った。
「連絡しておこうかしら」
「凰李に?」
ルークが聞く。
「そう」
私は頷いた。明日帰ってくるとはいえ、先に話だけはしておきたい。私はスマートフォンを取り出した。兄とのトーク画面を開く。少し考えてから文章を打ち始めた。今日の出来事。ベガ中央百貨店の営業担当者が来たこと。死亡後サービスを勧められたこと。体験共有プログラムというものがあること。そして、100万円という金額を払う代わりに、体験を提供することで契約できるらしいこと。そこまで入力して送信する。数秒後、既読がついた。
「早いわね」
私は苦笑した。すると、そのまま返信が来る。
『電話できるか?』
私は思わず笑った。予想通りだった。兄は文章だけでは済ませない。こういう時は必ず直接確認する。
『できるわ』
そう返事を送る。すると、スマートフォンが震える。画面に表示された名前を見る。兄からだ。私は苦笑しながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
『紫乙』
聞き慣れた声だった。落ち着く声だ。それだけで少し安心する。
『大丈夫か?』
開口一番、それだった。私は思わず笑う。
「そこからなの?」
『そこからだ』
兄は真面目だった。
『死亡後サービスとは何だ』
「私も今日初めて聞いたわよ」
『営業か?』
「営業だったわ」
『また変なものを勧められているな』
そこで、私は吹き出した。
「私もそう思った」
『しかも、100万円だろう?』
「そう」
『高いな』
「高いわね」
二人同時にため息をつく。すると、兄が言った。
『それで』
「うん」
『お前はどう思っているんだ?』
私は少し黙った。正直に言うべきだろう。
「興味はあるわ」
『そうか』
兄の声は静かだった。
「でも、まだ決めていないの」
『バンジージャンプをするのか?』
「どうして知ってるのよ!」
私は思わず叫んだ。すると、兄が笑った。
『今、ルークが映像を送ってきた。代金の支払いの代わりだと』
「本当に便利よね。お兄ちゃんとルークって。私、飛びたくない」
『だろうな』
電話の向こうで兄が笑う。私はむくれる。
「でも、サービスの内容は気になったの」
兄は何も言わない。ただ聞いている。
「それに」
私は窓の外を見る。夜の街が広がっている。
「お兄ちゃんのことを考えたら、入った方がいいのかなって思ったの」
沈黙が落ちた。ほんの数秒だ。でも、長く感じた。
『そうか』
兄の声は優しかった。
「だからね、相談じゃないの」
『ああ』
「報告になったわ。入ろうと思っているの」
兄が小さく笑う気配がした。
『分かっている。相談なら、最初にそう言う』
その通りだった。私は思わず笑う。
『つまり、自分で決めたいんだな』
「そう」
私は頷く。
「今回は自分で決めたい」
また少し沈黙が落ちる。
そして。
『分かった』
兄はそう言った。
『それなら止めない』
私は目を瞬く。もっと反対されると思っていた。
『ただし』
兄の声が続く。
『契約する前に資料は見せろ』
「え?」
『営業の話を鵜呑みにするな』
それは正論だった。
『内容を確認する』
「仕事みたいね」
『仕事みたいなものだ』
兄が笑う。
『お前が変な契約を結ばないようにするのが、僕の役目だ』
私は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。やっぱり敵わない。昔からそうだ。私のことを助ける。でも、決めるのは私。兄はいつも、その距離を守ってくれる。
「ありがとう」
私は小さく言った。すると兄は少し照れたような声になった。
『礼を言うのはまだ早い』
「どうして?」
『バンジージャンプの件を詳しく聞いてないからな』
私は固まった。
『面白そうじゃないか』
「お兄ちゃん!?」
思わず叫ぶ。電話の向こうで兄が笑っていた。どうやら、私の味方は、思っていたより少ないらしかった。でも、兄が笑うのをやめて、真面目な声で私を呼んだ。
『お前は椎間板ヘルニアを患っている。バンジージャンプは無理だ。マカオタワーの参加条件にも、脊椎や椎間板に問題がある人は参加できないと書かれていた。腰や首に大きな負荷がかかる』
「そっか……、それはそうよねぇ……」
私はほっとした。それなら別の方法を考えればいい。旅行でも、お祭りでもいいのだ。アレクは私の持病を知らない。だから、盛り上がっていただけなのだろう。これで方針転換ができる。
『旅行なら高知に行ったらどうだ?ルークが土佐巻にハマっているんだろう。カツオのたたきも食べてくるといい』
「そうよねぇ。それが正解よねぇ」
私は頷いた。
「夏に行って、よさこい祭りを見てこようかしら。踊りには参加できないけれど」
『今から申し込めば、いい宿も取れるだろう』
「そうね。相談してみるわ」
『まずは説明を聞きたい。僕が帰った後、家に来てもらってくれ』
「分かったわ」
私は微笑んだ。
「じゃあ、お兄ちゃん。気を付けて帰ってきてね」
『ああ』
そこで兄が思い出したように言う。
『それと、報告が遅くなった』
「なに?」
『ユリウス君と付き合い始めた』
私は思わず目を見開いた。
『3日前に返事をもらった。その翌日からこっちへ来ていたから、まだゆっくり話せていないんだ』
「あら、おめでとう!」
思いがけない報告だった。胸の中がじんわりと温かくなる。兄の長い片思いを知っていたからこそ、なおさら嬉しかった。
『お前とも改めて話がしたい』
「もちろん」
私は笑う。
「ユリウスさんへのお祝いも考えないとね」
来月14日はユリウスさんの誕生日だ。ちょうどいい機会かもしれない。兄の想いが叶ったことが、まるで自分のことのように嬉しかった。
その後も少しだけ近況を話し合い、やがて夕食の時間になった。私たちは、お互いに、またねと言って電話を切った。静かになったリビングで、私はスマートフォンを置いた。そしてテーブルの上の小皿を見つめる。今日は本当に不思議な一日だった。けれど、悪くない一日だった。




