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今日はもう遅い。コーヒーを飲み終えたら、帰ろう――そう思った。カップの縁に口をつけながら、ぼんやりとそんなことを考える。夜は静かで、さっきまでの光の余韻がまだ部屋の空気に残っている気がした。そのときだった。
「帰ろうか」
ルークの声が、すぐ近くで聞こえた。次の瞬間、身体の内側からふっと温度が抜けるような感覚がして、彼が姿を現す。私は思わず、少しだけ笑った。
「……今、そう思ったところよ。伝わったのね」
「うん。君が考えたことは、だいたい分かる」
当たり前のように言う。もう慣れてしまったけれど、最初は驚いたものだ。言葉にしなくても、考えが伝わってしまうというのは、少しだけ怖い。でも、嫌ではなかった。
「便利ね。言葉にしなくてもいいなんて」
「便利というより、自然なことだよ」
そう言って、ルークは肩をすくめた。
「兄さんも同じことができるだろう?」
その言葉に、私は視線を兄へ向ける。兄はコーヒーカップを手にしたまま、わずかに笑った。
「思念読み、だな」
「やっぱり分かってたの?」
「“帰ろうか”っていう言葉と、玄関のイメーが、はっきり浮かんでいた」
淡々とした口調だった。兄にとっては、それが特別なことではないのだろう。透視能力というらしい。兄は相手が思い浮かべたマークや言葉を言い当てることができる。今もイメージが浮かんできたということだ。ルークとは言葉なしで会話をすることもある。
しかし、私の場合、ルークが頭の中に話しかけてくる声は聞こえても、反対に、彼の思念を読むことはできない。私ばかり頭の中をのぞかれている状態だ。それでも、便利だと思う。
「便利すぎない?」
「全部分かるわけじゃない。強く思ったものだけだ」
そう言って、カップをテーブルに置く。その仕草ひとつが、落ち着いていて、やっぱり少し遠い。私は残っていたコーヒーを飲み干した。
「じゃあ、帰ろうかな」
「送るか?」
「ううん、すぐそこだし」
そう答えながら、ふと窓の外に目をやる。その瞬間、少し息を呑んだ。
「……雪、すごい」
さっきまでよりも、明らかに強くなっている。街灯の光の中で、白い粒が途切れることなく降り続いていた。これは、積もる。
「傘、借りていい?」
「ああ、もちろんだ」
兄はすぐに立ち上がり、玄関の方へ向かう。私はその背中を見ながら、少しだけ眉をひそめた。
「明日、積もりそうね」
「そうだな」
テレビをつけると、ちょうど天気予報が流れていた。画面には、関東一帯の雪マーク。
『明日の朝にかけて、広い範囲で積雪となる見込みです』
アナウンサーの声が、やけに現実的に響く。私はソファーに腰を下ろしたまま、ぼんやりと画面を見つめた。明日は休みだ。外に出なくてもいい。家でゆっくりできる。それだけで、少し安心する。でも――。
「お兄ちゃん、明日の出勤が大変じゃない?」
思わず口に出していた。兄は傘を持って戻ってきながら、肩をすくめる。
「タクシーが来るからな。なんとかなる」
「でも、この雪よ?」
「慣れている」
短く答える。その言い方が、少しだけ強がりに聞こえた。
「無理しないでね」
「ああ」
兄はそれ以上、何も言わなかった。でも、その一言で十分だった。私は立ち上がり、コートを着た。ルークも隣に立つ。ここに来るまでに着てきたコートとは別のコートを着ている。好きな服をデザインしてその場で具現化できる技術を持っているから、こういうことはよくある。
「そのコート、よく似合っているわよ」
そう言うと、ルークは満足そうに頷いた。そして、玄関に向かう。私は兄が差し出してくれた傘を受け取った。
「ありがとう」
「気をつけてな」
その声に、小さく頷く。ドアを開けると、冷たい空気が一気に流れ込んできた。思わず寒いねとつぶやくと、ルークが肩を抱いてくれた。ぬくもりが伝わってくる。兄は喧嘩をするなよと言って、笑っていた。




