第27話
4月28日、月曜日。
世界の崩壊まで、あと3日。
あの焚き火の夜から、一週間が経った。
拠点の中の時間は、静かで穏やかだった。モグの畑では毎朝新しい野菜が実り、ユリは蒼の特訓で少しずつ受け身が上手くなり、シノは昼夜を問わず研究室に籠もり、ゲンタは「気になる箇所がある」と言っては城壁のどこかを補修し続けた。完璧な日常だった。
だが、結界の外側——ネロのモニターの中の世界は、この一週間で静かに、しかし確実に狂い始めていた。
最初に止まったのは物流だった。大手の配送センターが相次いで「業務縮小」を発表し、コンビニの棚から特定の商品が消えた。次に医療が逼迫した。感染者の急増で救急車のたらい回しが始まり、ネロの画面には「搬送先なし」という文字が増えていった。計画停電が始まったのは四日前だ。都市部の一部が交互に暗くなり、SNSには「電気が来ない」「水が出ない」という投稿が溢れた。
それでもテレビは「落ち着いた状況が続いています」と言い続けた。
私たちはその全てを、結界の内側から眺めていた。
朝の六時。
情報処理室のドアが開いていた。
ネロが昨夜からずっと座っている。コーヒーのカップが三つ、空になって並んでいた。
「眠れなかったの?」
「眠る状況じゃなかった」
「何があった?」
ネロが画面を私の方に向けた。
「昨夜から、外が急に動き始めた」
画面には複数のウィンドウが開いていた。国内外のニュースサイト、SNSのトレンド、政府の内部サーバーのログ。
「まず感染者数。昨日の時点で全国の重症者が病床定員を超えた。一部の病院が受け入れ停止を始めている」
「一週間前より早い」
「ああ。変異株の感染力が想定より高かったようだ。今朝五時に政府が緊急声明を出した」
ネロが別のウィンドウを開いた。政府の公式発表のページだ。
——『感染症拡大防止のため、不要不急の外出を自粛するよう強く要請します。食料品・医薬品の購入は最小限にとどめ、不安を煽る情報の拡散はお控えください』
「最小限に、ね」
私は文字を読みながら言った。
「パニックを抑えようとしてる。でも遅い」
「遅い。SNSはすでに制御不能だ。『ダンジョンが出る』『魔物が来る』という投稿が昨夜から急増した。眉唾扱いされていたものが、突然リアルとして受け止められ始めている」
「それだけじゃないんでしょう、顔を見ればわかる」
ネロが少し間を置いた。
「箱舟の稼働を確認した。昨夜、政府の上層部が指定シェルターへの移動を完了した。大臣クラスが公務を『健康上の理由』で休んでいる。実態は避難だ」
「……逃げた」
「逃げた。国民には外出自粛を要請して、自分たちは山に籠もった」
「最後まで最低ね」
私は静かに言って、椅子を引いて座った。
外が、本格的に動き始めた。
残り三日——のはずが、体感的にはもっと短く感じた。
「今日から、外への移動は完全に禁止する」
「了解」
「拠点の全門を閉める。ブラックアークはガレージに格納。外から来るものは、すべて無視する」
「一点だけ」ネロが言った。「電波塔が数日以内に機能停止する可能性がある。携帯の電波が途絶える前に、ネット経由の情報収集体制を独立型に切り替えておく」
「できる?」
「すでに準備してある。衛星通信のアクセスを確保した。電波塔が落ちても、俺の端末は動く」
「さすが」
「当然だ」
ネロが少し間を置いてから、付け加えた。
「それと——面白いものが見える。全員で見るか」
「面白いもの?」
「昨夜から入り続けてる。政府の極秘映像だ」
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七時。
情報処理室に全員が集まった。八台のモニターのうち、二台に同じ映像が映し出されている。
暗い部屋だった。地下のどこかだろう、窓がない。長方形の会議テーブルを囲んで、スーツ姿の男女が十数名座っている。上座には、テレビで何度も見た顔があった。
「……首相だ」ユリが小声で言った。
「その隣が官房長官。右端が防衛大臣。左が厚生労働大臣」ネロが淡々と解説する。「昨夜から断続的に開かれている極秘会議だ。音声も抜いてある」
映像に、字幕のように音声の文字起こしが流れていた。ネロが自動で文字化しているのだろう。
画面の中で、防衛大臣が立ち上がって声を荒げていた。
——『箱舟の収容定員について、再度確認したい。当初の計画では三千名だったはずだ。なぜ今になって千五百名に変更されているのか』
——『資材の搬入が間に合わなかった。食料備蓄も燃料も、想定の六割しか確保できていない』
——『それは聞いていない。私のリストに入っている人間は全員収容されるという約束だったはずだ』
——『約束は約束として、物理的な限界がある』
「……」
ゲンタが腕を組んで、無言で画面を見た。
——『では誰を削るんですか。うちの党から推薦した三百名はどうなる』
——『こちらも同じ問題がある。財界からの要請を無下にはできない』
——『順位付けをするべきだ。国家の再建に必要な人材から優先する』
——『その「国家の再建に必要な人材」の定義が問題です。誰が決めるんですか』
怒号が飛び交い始めた。テーブルを叩く音が映像越しに聞こえた。上座の首相は、ずっと俯いて書類を見ている。発言しない。
「自分たちで押し込んだ人間の枠の取り合いをしてる」
シノが冷たい声で言った。
「そうよ。外の国民のことは一ミリも出てこない」
映像が切り替わった。別の部屋だ。
首相と、眼鏡をかけた男——内閣危機管理監だろうか——が二人だけで向かい合って座っている。
——『五月一日の件、本当に確定情報なのか』
——『確定です。複数の情報源から得ています。未知の空間歪曲現象が全国百二十か所以上で同時発生する。これを我々は「ダンジョン出現」と呼んでいます』
——『ダンジョン……。それは、比喩的な表現か』
——『文字通りの意味です。地面が割れ、未知の生物が地上に現れます。規模によっては市街地に直接出現する可能性がある』
首相が目を閉じた。
——『国民への発表は』
——『しません。三日前に発表すれば、確実に暴動が起きます。インフラが崩壊し、避難の混雑で死者が出る。我々の移動も妨害される。現時点での情報統制が最善です』
——『つまり——何も言わずに逃げる、ということか』
——『「移動を完了する」という表現をお使いください』
首相がまた俯いた。それきり、何も言わなかった。
「なにこれ……」
ユリが呟いた。声が震えていた。
「自分たちだけ逃げるために、みんなを騙してるの?」
「ああ。パニックが起きれば、自分たちの脱出が妨げられるからな」
ネロが淡々と言い、映像を切り替えた。今度はスタジオのような場所だ。
キャスターが原稿を読んでいる。プロンプターに流れる文字がカメラに映り込んでいた。
——『本日の感染者数は——引き続き落ち着いた状況です。政府は国民の皆様に冷静な行動を呼びかけています。なお、一部SNSで流布されているダンジョン・魔物に関する情報はすべて根拠のないデマです——』
「デマ、って言ってる……」
「今この瞬間、テレビでは『デマ』と流されている。だが同じ時間に、官邸の地下では『確定情報』として処理されているわけだ」
沈黙が落ちた。
「最低だな」
ゲンタが一言だけ言った。
「最低ね」シノが続けた。
蒼は何も言わなかった。ただ、画面を見ていた。その目が、SAT時代に「命令に従って人質を見殺しにした」あの夜と、同じ種類の光をしている気がした。
「消していい」
私は言った。
「もう十分見た」
ネロが画面を切った。静かになった。
「まあ」
私は全員を見渡した。
「予想通りよ。驚かない」
「お前は驚かないだろうが」ゲンタが言った。「俺たちには、なかなか堪えるな」
「そうね。ごめん、見せすぎたかも」
「いや」蒼が口を開いた。「見ておいてよかった」
「なんで?」
「後で、なぜ外の人間を助けないのかと自分が迷いそうになった時のためだ。これを見たから、迷わない」
場が少し静まり返った。
蒼らしい、と思った。感情ではなく、判断のために見ておく。この人はそういう人間だ。
「ユリは大丈夫?」
「……大丈夫、です。気持ち悪いけど、大丈夫」
「気持ち悪くて正常よ」シノが言った。「あれを見て平気な人間の方がおかしいわ」
「シノ先生……」
「先生はやめてって言ってるでしょ」
ユリが少し笑った。それで、空気が戻った。
「朝ごはんにしよう」
私が立ち上がると、全員が腰を上げた。
「今日のトマト、赤いよ!」
モグが廊下から顔を出した。ずっと外で待っていたらしい。映像は見ていない。
「見せなくてよかった」と私は思った。モグにあれを見せる必要はない。この拠点の中に、あの醜さを持ち込まなくていい。
「ありがとう、モグ。トマト、朝ごはんに出して」
「やった!」
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朝食の時間、全員の顔が少し違った。
ネロからの情報はすでに共有されていた。ゲンタは黙って飯を食った。蒼は監視塔の方角を何度か見た。シノはコーヒーを二杯飲んだ。ユリはいつもより静かだった。
モグだけが「今日のトマト、いっぱい赤くなった!」と言って、テーブルに山盛りのトマトを置いた。
その赤が、今日は妙に鮮やかに見えた。
「モグ」
「なに?」
「ありがとう。いつも」
「えっ、急にどうしたの?」
「なんとなく」
モグがにっこり笑った。「モグも、みんなが好きだよ!」
その一言が、今日はやけに胸に刺さった。
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午後は各自が持ち場で動いた。
ゲンタが要塞の各所を一か所ずつ目視で確認して回った。城壁の継ぎ目、ドローブリッジのチェーン、堀の底のモグの罠、対空用の杭とネット——。私がついていくと、ゲンタは一か所ごとに手で触れて確かめていた。
「問題はない?」
「ない。完璧だ」
「そう」
「マナ」
「なに?」
ゲンタが城壁の上から外を見ながら言った。
「三日後に何が来ても、この壁は抜かれない」
断言だった。迷いのない声だった。
「わかってる」
「だったら、余計なことを考えるな」
「余計なこと?」
「顔に出てる。いろいろ考えすぎて、疲れた顔してる」
私は少し笑った。
「ゲンタって、たまに鋭いわね」
「たまにじゃない。ずっとそうだ」
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夕食の後、私は全員に声をかけた。
「少し、話をさせて」
全員がテーブルに集まった。
私は全員の顔を、一人ひとり見渡した。ゲンタ、蒼、シノ、ネロ、ユリ、モグ。
「三日後、世界が変わる。私はそれを知っていて、ここを作った。みんなはそれを信じてついてきてくれた」
誰も何も言わなかった。
「後悔はない? このまま、ここで生きていく覚悟はある?」
「ある」
最初に答えたのはゲンタだった。間を置かず、短く。
「ある」
蒼が続いた。
「当然あるわ」シノが言った。「この研究を続けられる場所が他にあると思う?」
「俺とユリは、最初からそのつもりだ」ネロが言った。
ユリが「もちろんです」と頷いた。
最後に、モグがぴょんと立ち上がった。
「モグはずっとここにいる! ここはモグのおうちだもん!」
私は一度、目を閉じた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「ありがとう。」
「礼はいらない」ゲンタが言った。「俺たちにとっても、ここが必要だったんだ」
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夜の十時。
全員が部屋に戻った後、私は一人で外に出た。
結界の内側、一番外縁に近い場所まで歩いた。草が足に触れる。虫の声がした。山の夜の匂いがした。
そこから、山の下を見下ろすと、遠くに街の灯りが見えた。
いつもより、少ない。
きらきらしていた光の集まりが、ところどころ暗くなっている。停電が起きているのか、外出を控えているのか——どちらでもいい。確かなのは、あの光がひとつずつ、消えていっているということだ。
三日後、あの光は全部消える。
前世で私は、あの光の中にいた。仲間だと思っていた人たちと一緒に、あの街で生きていた。そしてひとつの命として、消えた。
今は違う。
今の私は、ここから見下ろしている。
後悔はない。
本当に、一片も。
「寒くないか」
背後から声がした。
振り返ると、蒼が立っていた。上着を一枚持っている。
「見回りの途中だ。気になった」
「ありがとう」
私が上着を受け取ると、蒼は隣に立った。並んで、街の灯りを見た。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「蒼は怖くない?」
「何が」
「三日後」
蒼が少し考えた。
「怖くはない。やることはやった」
「そうね」
「お前は?」
私は、街の遠い灯りを見ながら答えた。
「私は、楽しみにしてる」
「崩壊を?」
「崩壊じゃなくて——その後を。私たちがどうなるかを」
蒼が黙った。
「前世は一人で終わった。今回は違う。それだけで、もう十分すぎる」
また沈黙が続いた。虫の声だけが聞こえた。
「行くか」
「もう少しだけ」
「わかった」
蒼はそのまま隣に立ち続けた。見回りの続きには行かなかった。
遠くで、また一つ、光が消えた。
世界の崩壊まで、あと三日。
星降る森の結界の内側は、今夜も静かに光っていた。




