第24話
4月16日、水曜日。
世界の崩壊まで、あと15日。
昨日の買い出しで持ち帰った荷物の整理に、午前中をまるまる使った。
医療品は医療室の棚へ。食料は地下シェルターの備蓄庫へ。燃料は専用のコンテナへ。蒼の弾薬は——蒼が「自分で管理する」と言い張ったので、蒼の部屋の前に積まれた大量の木箱がそのまま廊下を塞いでいる。
「蒼、廊下が通れない」
「今日中に片付ける」
「本当に?」
「……今日中に片付ける」
「じゃあ先に朝食ね」
研修棟のホールに全員が揃った頃、ネロが珍しく先に口を開いた。
「報告がある」
「どうぞ」
「昨夜、カイトのSNSアカウントを特定した」
テーブルの空気が、わずかに変わった。
誰も何も言わなかった。ゲンタが箸を置く。シノが眼鏡を直す。私はコーヒーカップをゆっくりとテーブルに置いた。
「どんな動きをしてる?」
「この一週間で、特定のキーワードを繰り返し検索している。『山奥 安全地帯』、『聖域 キャンプ場』、『ダンジョン 発生前』。検索頻度が三日で五倍になってる」
「嗅ぎ回ってる、ということね」
「ああ。ただ、星降る森の地図データはすでに消してある。ネットには一切の痕跡がない。物理的にここへの道を知っている人間でもなければ、辿り着けない」
「そこに辿り着ける人間は?」
ネロが少し間を置いた。
「今のところ、ゼロだ。ただし——」
「ただし?」
「今朝、新しい検索があった。『星降る森キャンプ場』で直接検索している」
私の手が、止まった。
「……名前を知ってる」
「ああ。それだけじゃない」ネロがタブレットを操作して、画面をこちらに向けた。「投稿も見つけた」
画面には、鍵のかかっていないアカウントの書き込みが映っていた。
——『おい、誰かあの女の居場所を知らないか。マナって名前だ。絶対に何か隠してやがった』
——『あいつだけ知ってるんだ。俺には教えてくれなかったけど、絶対そうだ』
投稿時刻は、昨夜の午前二時だった。
私は画面を見ながら、コーヒーを一口飲んだ。
「……必死ね」
自分でも驚くくらい、冷めた声が出た。
焦りが滲み出た文章だった。余裕をなくした人間の書き込みだった。かつてあれほど自信満々だったカイトが、今は深夜に名前も出してSNSに縋っている。
懐かしい名前を見ても、何も感じなかった。
胸が痛いわけでも、腹が立つわけでもない。ただ——遠い、と思った。もう別の世界の話みたいだ、と。
「あいつがどうやってこの山の名前を知ったかは不明だが……」
ネロが画面を消して、冷静な声で話を戻した。
「知っている人間がいる、ということだ。マナが土地を買った時の不動産屋、タクシーの運転手、現地に来たことのある人間——そのどれかから漏れた可能性がある」
「でも地図は消してある」
「名前を知っていても、地図がなければここには来られない。ルートは完全に消した。ただ」ネロが画面を操作しながら続ける。「念のため、不動産屋と当時のタクシー会社の記録にも手を入れておく。今夜中に」
「ありがとう」
「必要なことだ」
短い沈黙の後、ゲンタが口を開いた。
「そいつが来たとして、どのみち堀を越えられない」
「越えられない」
「なら問題ないだろ」
「問題ない。情報として共有しておきたかっただけだ」
ネロが箸を手に取り、「食べる」と言った。
それで、その話は終わった。
私はコーヒーを一口飲んで、窓の外を見た。
山は今日も静かだ。カイトがどれだけ検索しても、ここには辿り着けない。わかっている。でも——名前を知っていた、という事実が、小石のように頭の隅に引っかかった。
まあいい。来られない場所は、来られない。
「今日はユリの護身術の特訓だったわよね、蒼」
私が話題を変えると、蒼がわずかに眉を動かした。
「……そうだったな」
「よろしく」
「わかった」
ユリが「やったー!」と声を上げた。
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午後一時。
拠点の南側、開けた芝生の広場で特訓が始まった。
蒼が腕を組んで立っている。ユリが向かいに立って、背筋を伸ばしている。二人の身長差は三十センチ以上ある。
「基本の姿勢から」
「はい!」
「力を入れすぎるな。肩の力を抜け」
「こう?」
「まだ入ってる」
「え、抜いてるつもりなんですけど」
「肩が耳に近い。下げろ」
ユリがぐっと肩を落とした。
「……これ?」
「まあそうだ。次、重心。足を肩幅に開いて——そうじゃない、もう少し広く」
「難しい……」
私は研修棟の縁側に腰かけて、お茶を飲みながら眺めていた。
蒼の指導は、意外と丁寧だ。口数は少ないが、ユリが間違えるたびに正確に何が違うのかを指摘する。怒らない。ため息もつかない。ただ淡々と、正しい形になるまで繰り返す。
「蒼って教えるの上手いね」
隣に座ったシノが言った。
「前にも思ったけど」
「SATにいた頃、後輩を鍛えてたんじゃないかしら」
「どうだろう。本人は何も言わないから」
「そういう人に限って、昔は誰かにちゃんと教わってたりするのよ」シノがお茶を一口飲んだ。「だから教え方が身についてる」
「シノは誰かに教わった?」
「研究のことは全部、恩師に。国立感染症研究所の元所長よ。今はどこにいるか……」
シノが少し黙った。
「箱舟にいるかもしれないわ。名簿に名前があってもおかしくない人だから」
「会いたい?」
「会えるなら会いたいわね。でも——」シノが視線を正面に戻した。「私の研究はここで続けられる。それで十分よ」
広場ではユリが初めて蒼の腕を掴んで投げを試み、見事に失敗して尻もちをついた。
「いたっ……!」
「重心が前に偏った。もう一回」
「もう一回って、先生、もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないですか!」
「崩壊後に魔物が優しくしてくれるか?」
「……もう一回です」
ユリが立ち上がって構え直した。私はそれを見て、小さく笑った。
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夕方、地下シェルターの作業が一段落した頃、私は情報処理室の前を通った。
ドアが少し開いていた。
ネロが画面に向かっている。いつも通りの姿だが、今日は少し違う。キーボードを打っていない。ただ、画面を見ている。
「入っていい?」
「……どうぞ」
部屋に入ると、画面に一枚の画像が映っていた。
古い写真だ。小学校の入学式のような——制服を着た男の子と、その隣に小さな女の子が並んでいる。
「ネロとユリ?」
「そうだ」
「かわいかったね」
「……今もかわいい。ユリは」
「そうね」
私は壁に背を預けた。聞こうかどうか、少し迷ってから、聞くことにした。
「なんで引きこもりになったの。前に一度だけ、そう言ってたから」
ネロが少し間を置いた。答えないかもしれないと思ったが——
「中学の頃、ハッキングがバレた」
静かな声だった。
「バレた?」
「学校のいじめグループが、クラスメイトの個人情報を使って脅迫していた。俺はそいつらのデバイスに入って、証拠データを全部抜いて教師に送った。正しいことをしたつもりだった」
「……でも?」
「逆効果だった。証拠を出した俺が『ハッカー』として問題視された。いじめグループの親が学校に乗り込んできて、俺の両親が呼び出されて、最終的に俺が転校することになった」
淡々とした話し方だった。感情を乗せないようにしているのか、それとも本当に整理がついているのか、私には判断できなかった。
「転校先でも同じだった。また何かあってハッキングで解決しようとして、また問題になった。三回繰り返して——外に出るのをやめた」
「ユリは?」
「ユリは、ずっと一緒にいてくれた。学校に行きながら、家に帰ったら俺と話してくれた。俺が外に出なくても、ユリだけは毎日話しかけてきた」
ネロが画面から視線を外さずに続ける。
「だから俺はユリを守る。ここに来たのも、ユリが生き延びられる場所があると思ったからだ」
「私の親子丼じゃなくて?」
「……親子丼も理由のひとつだ」
私は少し笑った。
「ネロ」
「なに」
「ここに来てくれてよかった。本当に」
ネロが画面を見たまま、少しだけ黙った。
「……俺も、そう思ってる」
それだけだった。でもそれで十分だった。
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夜。
夕食の後、ユリが全身筋肉痛で「動けない」とテーブルに突っ伏していた。
「痛い……お兄ちゃん、揉んで……」
「自分でやれ」
「ひどい……」
「蒼が悪い」
「俺は普通に教えた」
「普通って言いながら二時間みっちりやらせたじゃないですか!」
「崩壊後に手加減する敵はいない」
「それは昼も聞きました!」
私はシチューを温め直しながら、その会話を聞いていた。
モグが「ユリ、大丈夫? モグがあったかくしてあげる!」と言って、ユリの背中に小さな手を当てた。ユリが「モグ、ありがとう……」と言って、半泣きで笑った。
ゲンタが「明日もやるのか?」と蒼に聞いた。
「当然だ」
「……ユリ、頑張れ」
「ゲンタさんも優しくない!」
賑やかな声が、山の夜に溶けていく。
窓の外は暗い。星が出ている。こんなに星が見えるのは、周りに灯りが少ないからだ。山奥というのは、不便なだけじゃない。星降る森、という名前は伊達ではなかった。
私はシチューを食べながら、今日のネロの話を思い出した。
正しいことをして、追い出された。三回も。
それで外に出るのをやめた。
前世の私も、正しく動いていたつもりだった。仲間のために囮になって、全力で働いて——それで捨てられた。
ネロと私は、少し似ているのかもしれない。
でも今は違う。ここには、正しく動いた人間が報われる場所がある。
そう思いながら、シチューを飲み込んだ。
「マナ、おかわり」
ゲンタが茶碗を差し出した。
「はいはい」
世界の崩壊まで、あと十五日。
今夜も、星降る森は温かかった。




