第23話
4月15日、火曜日。
世界の崩壊まで、あと16日。
「で、現金はいくら残ってる?」
朝食の後、私はテーブルに財布を出した。
ゲンタが作業着のポケットを探る。蒼が無言で封筒を出す。シノが「財布がどこか……」と白衣のポケットを漁る。ネロがタブレットを開く。
全員の手持ちを合わせた。
「……四十二万三千円」
ユリが数えながら言った。
「少ないな」
ゲンタが腕を組む。
「少なくはないけど、足りない」
シノが眼鏡を押し上げた。「医薬品だけで二十万以上。燃料の追加在庫、種、工具——全部買い揃えたら余裕で百万を超えるわ。崩壊後は外との物流が完全に止まるんだから、今のうちに限界まで買い込みたい」
「クレジットカードは?」
「四枚ある」ネロがタブレットを操作しながら答えた。「合計の利用可能枠は現時点で約二百万。ただし——」
「ただし?」
「高額決済が続くとカード会社のAIが不審取引と判定して止める。一枚あたり一回の上限が三十万から五十万が安全ラインだ」
「つまり、全部合わせても三百万いかない」
「ああ。備蓄を本気で組むなら、足りない」
テーブルが静まり返った。
私は「修復魔法で廃材を直して売りに行くか」と言いかけた。そのとき——
「マナ」
ネロが私を見た。珍しく、先に話しかけてくる。
「その必要はない」
「え?」
「座っていてくれ。五分もかからない」
ネロがタブレットのキーボードを打ち始めた。
画面には、私には理解できないコードが流れている。英数字と記号が滝のように落ちていく。ネロの指が止まることなく動く。
一分。
二分。
「……何してるの?」
私が尋ねると、ネロは目を画面から離さずに答えた。
「カード会社の与信管理サーバーに入っている」
「……入って、いい?」
「良くはない。でも必要だ」
三分が経った頃、ネロの手が止まった。
「終わった」
「何が?」
ネロがタブレットをテーブルに置いて、私たちのクレジットカードを四枚並べた。
「これを見て」
私が恐る恐るカードを確認すると——
利用可能額が変わっていた。
「……ごせん、まん?」
ユリが画面を指でなぞりながら言った。
「一枚につき五千万。四枚合わせて二億円の利用枠だ」
全員が黙った。
「さらに」ネロが続ける。「不審な高額決済でカードが止まらないよう、各社のAI監視システムに例外コードを埋め込んだ。どんな金額を使っても、アラートが上がらない。請求書はすべて、世界崩壊後の来月以降に届くように遅延処理させてある」
「……つまり」
「世界が終われば、請求書もサーバーごと燃える。遠慮なく使い切ってきてくれ」
また沈黙が落ちた。
今度は、違う種類の沈黙だ。
ゲンタが口を開いた。
「お前、本当に何でもできるんだな」
「入れないところはない、と最初から言った」
「言ってたな」
私は四枚のカードを手に取って、順番に眺めた。
二億円。
使い切れる気がしない。でも——使わない手もない。どうせ世界が終わる。金融システムも、債権者も、請求書も、あと十六日で全部終わる。
「わかった」
私はカードをポケットに入れた。
「今日は遠慮なく買い込む。ゲンタ、ブラックアークを出して」
「ああ」
「シノ、リストを全部出して。今日一日で全部揃える」
「わかったわ。ちなみに、私の研究用の特殊機材も頼んでいい?」
「どうぞ」
「……リスト、長くなるわよ」
「構わない」
「それから」蒼がぼそりと言った。「弾薬も買いたい」
「どのくらい?」
「できるだけ多く」
「できるだけ多く、ね」
私は立ち上がり、伸びをした。
今日は買い出しだ。お金の心配は、もうない。
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山道を一時間以上かけて下り、国道に出た。
ブラックアークの中から見える景色は一週間前と少し違っていた。コンビニの駐車場に列ができている。ドラッグストアの入り口に「在庫限り」という張り紙がある。マスク姿の人の割合が明らかに増えた。
「変わってきてるな」
ゲンタがハンドルを握りながら言う。
「うん。でも今日がまだ動ける最後のチャンスかもしれない。来週になったら、もっとひどくなってる」
「なぜわかる?」
「……なんとなく」
それ以上は答えなかった。
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最初に向かったのは、業務用医療機器の専門店だ。
私たちの姿を見た店員が、近づいてきた。
「いらっしゃいませ。本日はどのような——」
「全部ください」
「……は?」
「抗生物質、解熱剤、縫合セット、点滴パック、注射器、酸素ボンベ、AED、超音波診断装置——シノ、リストを」
「どうぞ」シノが丁寧に印刷したA4三枚のリストを差し出した。
店員が目を通して、顔が青くなった。
「こ、これ全部ですか……?」
「はい。在庫があるものは全部。ないものはバックヤードに入っているものも含めて」
「お支払いは……」
「カードで」
私がカードを一枚出すと、店員が端末に通した。金額が出た。
三百四十七万円。
「通りました」
シノが小さくガッツポーズした。
次は大型ホームセンター。
燃料の携行缶を三十本、工具類、木材、金属パイプ、防水シート、発電機のスペア部品——カートが五台になった。
「全部積める?」
「積む」ゲンタが腕まくりをした。「俺に任せろ」
ゲンタの「職人の積み込み」によって、ブラックアークの荷台は信じられない密度で埋まっていく。これは魔法ではなく純粋な技術だ。
次は会員制の大型スーパー。
米を五百キロ。缶詰を三百個。パスタを百袋。調味料を全種類。油、塩、砂糖——棚の端から端まで、カゴに放り込んでいく。
「お姉さん、これ全部入る?」
ユリが心配そうに言った。
「入らなかったら二往復する」
「二往復……」
「世界が終わる前に全部持ち帰るのが条件よ」
「……はい」
種のコーナーでは、モグのことを思い出しながら選んだ。トマト、きゅうり、ナス、ピーマン、カボチャ、大根、人参、ジャガイモ、サツマイモ、白菜、キャベツ——農業コーナーにある種は全種類カゴに入れた。
「モグが喜ぶ」
「きっとね」
最後に、蒼の要望で銃砲店に寄った。
「ここも、カードで?」
「カードで」
蒼が店内を三十分かけて回り、選んだ弾薬と狙撃用の装備品を会計に持ってきた。金額が出た。
二百十八万円。
蒼が少しだけ表情を変えた。
「……これだけあれば」
「足りる?」
「当分は戦える」
「いや、戦うってレベルの量じゃねえだろ……」重い木箱を担いだゲンタが、呆れ顔で突っ込んだ。
「じゃあそれで」
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帰り際、大型スーパーの駐車場でゲンタが荷物を積み直しながら言った。
「そういえば、さっきスーパーの中で聞こえたんだが」
「何を?」
「レジの近くで話してた客が、『有名な冒険者パーティが解散したらしい』って。リーダーが仲間を切って逃げたとかで、内部が崩壊したとか」
「……そう」
「知り合いか?」
「さあ」
私は荷台のシートを引っ張りながら答えた。知り合いかどうか、なんて今さら関係ない。
ブラックアークのドアを閉めて、エンジンが動き出す。
国道から山道へ。舗装が途切れ、木が深くなり、外の世界の音が遠くなっていく。
一時間以上かけて山を上がる間、私はずっと窓の外を見ていた。
街の灯りが遠ざかるにつれて、少しずつ息ができるようになる気がした。
外は騒がしい。外は怖い。外は、もうすぐ終わる。
「マナー! おかえり! たくさん買ってきた!?」
正門でモグが飛び跳ねていた。
「たくさん買ってきた」
「やった! 種はある!?」
「全種類ある」
「ぜんぶ!? うわあ!」
モグが地面をぐるぐる走り回った。
ユリが笑いながら「種、一緒に植えよう!」と後を追う。
ゲンタが「荷物の整理を先にしろ」と言い、蒼が無言でコンテナを担ぎ上げ、シノが「私の機材は丁寧に扱ってちょうだい」と口うるさく言う。
私は荷台の端に腰掛けて、夕暮れの山を見た。
今日使ったのは——合計で一千万を少し超えたくらいだろうか。
残りの枠は、まだ一億九千万以上ある。
使いきれないかもしれない。でもそれで良かった。
世界が終わるまでの十六日間、ここには何も足りないものがなくなった。
「マナ、降りてこないのか」
ゲンタが声をかけた。
「もう少しだけ」
「夕飯が冷める」
「すぐ行く」
山の夜風が、頬に当たった。
世界の崩壊まで、あと十六日。
今日の私たちは、お金の心配がひとつもない。
それだけで、なんだかとても、気持ちが軽かった。




