第22話
4月13日、月曜日。
世界の崩壊まで、あと18日。
朝の八時。
山の上は今日もよく晴れていた。
この場所に来てから気づいたことがある。山奥というのは、天気の変わりが早い。昨日の午後は雲がどこからか湧いてきて、夕立が来るかと思ったら何事もなく晴れた。山の天気に振り回されることにも、少しずつ慣れてきた。
町まで下れば一時間以上かかる。舗装されていない山道をブラックアークで降りて、さらに国道に出て初めて「外の世界」に繋がる。この距離が、今は最大の武器だ。騒ぎになっても、すぐには人が来られない。
その代わり、何かが足りなくなってもすぐには補充できない。
だから今日やることは、自給だ。
「ゲンタ、地下の掘削を始めたい。今日から動ける?」
朝食の片付けをしながら聞くと、ゲンタはすでに図面を広げていた。
「動ける。モグと打ち合わせも済んでる」
「早いね」
「昨夜、寝られなかった」
「なんで?」
「地下のことを考えてたら、面白くなってきた」
要塞建築士というのは、どうやら設計を考えている間が一番楽しい人種らしい。
「モグ、準備できてる?」
「できてる! 昨日から土の感触を確かめてたよ。この山の地盤、すごく固い。それに岩盤の層が深いから、十メートルは余裕!」
「二十メートルいける?」
モグが少し考えるような顔をした。
「……二十メートルは、途中で地下水の層があるかも。まずは十メートル掘ってから確かめる」
「わかった。無理しないで」
「無理じゃないよ! でもゆっくりやる!」
モグが元気よく外に駆け出していく。ゲンタが図面を丸めて立ち上がった。
「場所は研修棟の地下を使う。既存の建物の基礎があるから、そこを起点に掘れる。出入り口は建物の中から。外からは見えない構造にする」
「食料庫と医療品の非常用保管場所にしたい。あと、万が一城壁が突破された時の最終避難場所も兼ねて」
「そのつもりだ。天井の厚みを三メートル以上取れば、上で何があっても崩れない」
「頼んだ」
ゲンタが無言で頷いて、外に出た。
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地下の掘削が始まると、研修棟の床がじわじわと揺れた。
モグが地中で土を動かしているためだ。その振動は激しいものではなく、むしろ静かで規則的な、深いところで何かが動いているような感覚だった。
「すごいわね。地面の下でモグが働いてるって思うと、なんとなく不思議な気分」
シノが研究室のドアを開けながら言った。
「精霊って本来、自然の一部なんだよ。土の中が一番落ち着くって言ってた」
「そうなの。それで拠点に残ってくれてるのは、マナのことが好きだからかしら」
「そう言ってた」
「かわいいわね」
シノが珍しく柔らかい顔をした。すぐに研究者の顔に戻ったが。
「私は今日、研究室の拡張をするわ。サンプル保管庫が手狭になってきたから、ゲンタに棚を増やしてもらう予定。あと、培養装置をもう一台稼働させたい」
「ウイルスのサンプル、集まってきてる?」
「そこそこ。ネロが手配してくれたものと、私が研究所から脱出する前に確保しておいたものを合わせると、主要な変異株は十三種類押さえてある」
「十三種類……」
「多いように聞こえるかもしれないけど、崩壊後に出てくるものの全体像を考えたら全然足りないわ。まあ、今できる範囲でやるしかない」
シノが眼鏡を押し上げた。
「対抗手段の研究もしてる。今のところ、三種類に対して有効な物質の目処がついた。あと少し」
「信じてる」
私がそう言うと、シノが少し黙った。
「……マナって、時々そういうこと言うのね」
「え?」
「『信じてる』って。さらっと。慣れないわ」
「慣れて。本当のことだから」
シノが視線を外して、「そう」と短く答えた。耳が少し赤かった。
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午前の半ば。
今日の大仕事がもうひとつある。電力の自給化だ。
今の拠点はガソリン発電機と井戸ポンプで動いている。電力はある。水もある。だが燃料は有限だ。崩壊後、外からの補充が完全に絶たれた時に、燃料が切れたら詰む。
「ネロ、昨日頼んでた電力の試算、できてる?」
情報処理室に顔を出すと、ネロが複数の画面を見比べていた。
「できてる。二種類の方法を提案する」
「聞かせて」
ネロがタブレットを差し出した。
「まず太陽光。この山の南斜面は日照時間が長い。研修棟の屋上にパネルを設置すれば、晴天時に拠点全体の消費電力の七割を賄える。問題は曇りと雨の日だ」
「それを補うのが?」
「水力。拠点の東側を流れる沢——あの小川だ。標高差を使えば小型の水力発電が設置できる。出力は大きくないが、安定して稼働する。太陽光と組み合わせれば、晴雨問わず電力を確保できる」
「設備はどこから?」
「ソーラーパネルは在庫がある。崩壊前に送料無料でまとめ買いした」
「……いつの間に」
「大手運送会社の物流AIに侵入して、配送ルートと伝票データを書き換えた。システム上は『正規の企業間取引』として処理されてる。トラックの運転手は何も疑わず、山の麓の旧集落跡にパレットごと降ろしていった。あとはゲンタがブラックアークで回収してきた」
私は少し考えた。
運転手は普通の仕事をしただけだ。ナビが示したルートを走って、指定された場所に荷物を置いて帰った。記録上は完璧な正規取引。誰も疑わない。これがゴーストのやり方だ。
「水力発電の部品は?」
「こちらも手配済みだ。発電機本体の加工はゲンタに頼む」
「抜かりないね」
「当然だ」
ネロが短く答えて、画面に視線を戻した。
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昼過ぎ。
研修棟の屋上では、ゲンタとユリがソーラーパネルの設置に取り掛かっていた。パネルは一枚が大人の胸ほどの大きさで、それを二十枚並べる計画だ。
「ユリ、そっちを押さえてろ」
「はーい! 重い!」
「重いのは当たり前だ。腰で支えろ、腕じゃなくて」
「こう?」
「そう。それで固定する」
ゲンタが金具をドライバーで締めていく。ユリが一所懸命支えている。
「ゲンタって、教えるの上手いね」
屋上に上がってきた私が言うと、ゲンタが手を止めた。
「そうか?」
「うん。蒼とも、最初から噛み合ってたし」
「俺は現場が長いからな。若い職人に教えるのには慣れてる」
「昔は弟子もいた?」
ゲンタが少し間を置いた。
「……まあな。今はどこにいるかも知らんが」
それ以上は話さなかった。私も聞かなかった。人にはそれぞれ、まだ話したくない話がある。
「終わったら声かけて。昼ごはん、温めておく」
「ああ」
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一方、拠点の東側では。
沢に沿って歩くと、水音が大きくなる場所がある。岩の間を縫うように水が流れていて、標高差が稼げる場所だ。
蒼がそこに立って、地形を観察していた。
「水力発電の設置場所、ここが一番良い」
「蒼も確認に来てたの?」
「暇だった」
「そんなわけない」
蒼が少し黙った。
「……発電機の保護が必要だ。雨で流されない構造にしないといけない。ゲンタに伝えておく」
「ありがとう」
「別に」
沢の水音が心地よかった。山の奥は静かだ。外の世界では今ごろ、感染症のニュースと政府の発表と、SNSの混乱が渦巻いているのだろう。ここにはその音が届かない。水音と、風が木々を揺らす音と、地下でモグが土を動かすわずかな振動だけがある。
「好きよ、この場所」
思わず口から出た。
蒼が振り向いた。
「……どこが」
「静かなところ。遠いところ。ここまで来たら、追ってこられないところ」
蒼が少し考えてから、沢の方を見た。
「……俺もだ」
それだけだった。それで十分だった。
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夕方。
モグが地下から戻ってきた。小さな体が土だらけで、でも顔だけぴかぴかに輝いている。
「ゲンタ! 深さ八メートルまで掘れた! 地下水の層まであと少し!」
「早いな。じゃあ明日、地下水を迂回するルートを掘ろう。お前の感覚を頼りにしていいか?」
「まかせて!」
「一日でそこまで掘れたのか」モグを見て私は言った。「すごいね」
「モグ、がんばった!」
「ごはん、たくさん食べていいよ」
「やった!」
夕食の時間。今日のメニューは鶏肉と根菜の煮物だ。モグが掘り出してきた山の根菜——ゴボウに似た何か——をシノが分析して「食べられる」と判定したやつを使った。
「シノ、この根菜って何?」
「正確には山ゴボウの近縁種ね。灰汁は強いけど、しっかり下茹ですれば問題ないわ」
「味は?」
「食べてみればわかるでしょ」
シノが箸を伸ばして口に入れた。
少し間があった。
「……美味しい」シノが小さく言った。「少し苦みがあるけど、それが良い味を出してるわ」
「よかった。あと、昆布で出汁取ったから」
「昆布は今日の煮物とは別に、スープも作ってあったわよね?」
「うん。昆布だし。冷蔵庫に——」
「冷蔵庫の左のやつ?」
「そう。なんで?」
シノが箸を止めた。
「……私、さっきそっちに自分のフラスコを置いたかもしれないわ」
テーブルが静まり返った。
「シノ」
「……確認してくる」
シノが足早に厨房へ向かった。しばらくして、やや青い顔で戻ってきた。
「大丈夫だった。フラスコは棚の上に置いてあったわ」
「何が入ってたの、そのフラスコ」
「毒性試験用の……言わない方がいいわね」
「言わないで」
全員が少しの間、自分の皿を見つめた。
「厨房には研究器具を持ち込まないでください」
私が静かに言うと、シノが居住まいを正して「肝に銘じるわ」と答えた。
蒼が無言で箸を動かしていたが、「今後、シノが作ったものは確認する」とぼそりと言った。
「失礼ね」
「安全管理だ」
「……一理あるわ」
シノが認めた。
笑いがこぼれた。
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夜。
拠点の電力状況がひとつ変わった。
【電力供給システム更新】
【ソーラーパネル:稼働開始(出力:最大7.2kW)】
【水力発電:設置完了。本稼働は明日以降】
【燃料依存率:現在62% → 目標10%以下】
まだ完全ではない。でも確実に、一歩ずつ前に進んでいる。
地下シェルターは深さ八メートル。電力は自給の目処が立った。食料はモグが毎日育てている。医療はシノが研究を進めている。
あとは——買い出しだ。
山奥のこの拠点には、まだ足りないものがある。
薬局でしか手に入らない医薬品、燃料の最終在庫、そして種。崩壊が近づくにつれて外の店は混乱していくから、次の買い出しは早めに動く必要がある。
「明後日、買い出しに行く」
夕食の後、私が告げると全員が頷いた。
「町まで片道一時間以上かかる。早めに出て、早めに帰る。ゲンタ、運転頼める?」
「ああ。買うものリストは?」
「明日シノとネロと一緒に作る。今日は寝よう」
ゲンタが立ち上がった。「そうだな」
モグがうとうとしている。ユリがその背中をそっと支えた。
世界の崩壊まで、あと十八日。
今日もやることをやった。
明後日は外の世界に戻る。
山を下りて、舗装道路を走って、人が大勢いる場所へ。
少しだけ気が重いが——仕方ない。準備のための買い出しだ。完璧な楽園には、完璧な備えが要る。
外がどれだけ壊れていても、今の私には帰ってくる場所がある。
それだけで十分だった。




