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遥かなるチェッカーの先へ LAP2  作者: 綾部 響
8.エピローグ
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98/99

独壇場の千晶

凛子に襲い掛かる千晶。そして、それを阻止しようと画策する凛子。

2人の意思と意地が大きく火花を散らし、長いストレートを駆けてゆく。


しかし決着は、思いのほかあっさりと訪れる事になる。

 当然の事ながら、長いストレートではスピードが乗る。各マシンは惜しみもなく最高速度をマークすべく、その持てるパワーを如何なく発揮するのだから当然だろう。

 そこで最大の障害となるのは、競争相手ではなく……沈殿する大気。

 行く手を阻むように壁となる大気は、高速で疾駆するライダーにとって邪魔でしかない。

 そして、そこで有用となるのは「スリップストリーム」であろう。

 前走者を防壁とするように、そのマシンの後方へとピッタリ追走する。前輪と後輪が擦れるのではないかと言うほどに近付く事で、気流の関係で気圧が変化し、後者はより少ない力で前走者を追従でき、またその特性を活かして、ストレート後半では苦も無く前へと出る事も可能だ。

 多くのライダーがこのテクニックを重用し、特にロングストレートでは必須、常識と言っても良いテクニックだろうか。


「こ……こいつっ⁉ トップスピードで上回るつもりかっ⁉」


 だが本田千晶はその利点を有効活用せずに、バックストレートも半分を残した時点で、前走する漆原凛子の前へと出ようと動き出したのだ。これには、凛子は意表を突かれた形となり、驚きの声を上げるのも当然だと言えた。


 定石で考えれば、凛子の後ろに付いた千晶が仕掛けてくるのは、バックストレート終盤に控える130Rコーナーか、もしくはその先にあるシケインだろう。凛子は当然にそう考え、どのように千晶のトライを防ぐのか思案していた。

 性格が豹変し粗暴な印象のある今の凛子だが、何も思考まで変容してしまった訳ではない。行動が大胆になると言っても積極性が増しただけであり、思案し躊躇する時間が激減しただけなのだ。

 故に彼女は、守るべきところは守りに入る。定石通りイン側を抑える事で千晶には不利となり、シケインの入り口で完全に頭を抑える事が出来れば、少なくともこの周回で前を取られる事は無いと踏んでいたのだ。

 それが、前提から覆されようとしていた。


『おおおぉぉっとおおぉっ! 残り4周うぅっ! いや、残り周回3周と1/4となったバックストレートでええぇぇぇっ! 本田選手が仕掛けたああぁぁっ!』


 先ほどから、千晶の快進撃は留まるところを知らない。会場の実況も、これまでの経験から考えられるであろうポイントなどお構いなしに仕掛ける千晶に、気を抜く暇もないというのが本当だった。だから千晶が仕掛けだしても、比較的早く反応できたのかも知れない。


 場内実況の絶叫につられたのか、もしくはその逆に実況が引っ張られたのだろうか、大型モニターには前を行く凛子に向けて、まるで見えない糸に引かれるかのように、スルスルと前に出る千晶の姿が映し出されていた。


「ぬ……抜かれるっ! お……追いつけねぇっ⁉」


 バックストレートを行く2台の速度差は、それほど大きくはない。せいぜい、10Km/h前後だろうか。

 それでも、明確に速度差があるのであれば、速い方が遅い方を抜いてゆくのは当然の話だった。

 それでもこの現象には、はっきりとした理由がある。しかもそれは、そんなに難しい話ではない。


 単純に、コーナー脱出速度に違いがあったのだ。


 スプーンカーブ脱出時、千晶は凛子より半車体後方にいた。猛追している千晶が凛子へと襲い掛かった結果なのだが、これだけでは千晶が凛子よりも速くスプーンカーブを抜け出したとは判断できない。

 何故なら一般的に、コーナーで前走者に並びかけるという事は、それだけコーナー進入時のスピードが出ていた事を指す。それはもう、前を行く凛子よりも……だ。

 だがここで、1つの疑問が生じるだろう。

 そのような速度でコーナーへと突入し、そのまま脱出できるのであれば、全員……少なくとも、前を行く凛子も同じようにすれば良いのではないか、と言うものだ。

 そしてやはりと言おうか、そんな単純な話ではないという事も、少し考えれば理解できるのだった。


 ゆっくりと、ジリジリと前に出る千晶のマシンは、彼女の左側を走る凛子と既に並びかけており、そして。


『こ……ここでええぇぇぇっ! 130R手前でええぇぇっ! 本田選手が漆原選手と並んだああぁぁっ! 何というっ! 何という事だああぁっ!』


 実況の叫び声通り、千晶のマシンは、横を走る凛子とゆっくり、だが確実にカウルを並べたのだ。

 そしてそんな状況下であっても、当の凛子には正しく……成す術がない。


「くそっ! くっそおおぉっ!」


 歯噛みしながらも、ヘルメットの下では凛子が悔しさに声を荒げていた。そんな凛子が今できるのは、必死でカウルに伏せて少しでも空気抵抗から逃れ、アクセルを僅かでも緩めるような事はしないだけだった。

 それでも、ライダーが今この場で出来る事は……ただそれだけ。

 ゆっくりとスローモーションのように前へ出てゆく千晶のマシンを、ただ見ているだけしか出来なかったのだった。


 10Km/h凛子のマシンが速度を上げれば、千晶のマシンも同じだけスピードを上げる。最高速度に至るまで、この均衡が続く訳だが、速度まで同じとは言えない。

 コーナー脱出時の速度が、方や時速80Km/hだったとして、方や85Km/hであったならば、その差は5Km/hとなり、これが減速時まで、縮まらない差として残り続けるのだ。

 しかも、85Km/hと125Km/hの時点では、0.1秒間に進む距離が違ってくる。僅か5Km/hの差であったとしても、トップスピードに至る時間はそれぞれに違いが表れ、今現在、それが如実に表面化していたのだった。


 このまま直線が続くのならば、しばらくの後に千晶のマシンは、凛子を完全に抜き去るだろう。

 しかしサーキットとはレースを行う場所であり、基本的にはストレートとコーナーの組み合わせで出来ている。どれほど長い直線であっても、いずれは終わりがやって来るのだ。

 この鈴鹿サーキットでのそれは、バックストレート終わりでの「130R」にあたる。


『両車ならんだままああぁっ! 130Rに突入するううぅっ! どうなってしまうんだああぁっ!』


 そして千晶と凛子のマシンは、並走したまま超高速コーナーである130Rに進入した。


「左回りの130Rだっ! ここは、私が有利なんだよっ!」


 千晶のマシンは凛子の右側に付けている。つまりこの130Rコーナーにおいては、アウト側を走らされる事になる。

 外回りとなり距離を走らされる千晶に、定石ならばこのコーナーで抜かれる事は無いのだが、凛子にとって問題はその先にある「シケインコーナー」だろうか。

 きつい右コーナー、即座に左、また左、そしてきつい右曲がりの後、最終コーナーが右回りとなる。

 この130Rで千晶の頭を抑える事が出来なければ、凛子がジリ貧となるのは明白であり、既に彼女の思考はそちらへ向こうとしていたのだが。


「な……何ぃっ⁉」


『本田選手ぅっ! 本田選手がジリジリとおぉっ! 前に出るううぅっ!』


 外側から凛子のマシンに自分のマシンを被せる様に、千晶は減速する素振りさえ見せずに抜きに掛かり、凛子は驚きを隠せなかったのだった。


 超高速コーナー「130Rコーナー」。バックストレートで十分にスピードの乗ったマシンは、このコースのどこよりも速い速度でこのコーナーを抜ける事になる。

 だがしかし、そこには大きな落とし穴があった。そのスピードこそが、ライダーをその罠へと陥れるのだ。

 思わず、トップスピードで回れそうな、それほどきつくないと思わせるコーナーは、ライダーの減速感覚を鈍らせる。その結果、回り切れずにコースアウトしてしまう選手は数知れなかった。

 コーナーである以上、ストレートと同様の速度では回れない。しかし高速コーナーである以上、速度を大きく落とす必要もない。この微妙な加減が、ライダーの技量を求めるのだ。


 だがそれも、マシンが万全であればこその悩みだろうか。


 レースも終盤となり、マシンもタイヤも大きく疲弊している状態では、意図的に減速幅を大きくする必要がある。と言っても、それはほんの数Km/hなのだろうが、その減速はその先のシケイン入り口まで影響する。

 それでも、130Rを回り切れないリスクを考えれば、やはりライダーはある程度のスピードダウンを余儀なくされるのだ。


 そして凛子も、マシンが許す限り、タイヤが食いつく限りの、ギリギリのラインを狙って減速を行った。この行為は、決して誤りではないだろう。


『前っ! 前っ! 前だああぁぁっ! 本田選手ぅっ、ここで漆原選手の頭を抑えたああぁぁっ!』


 しかし千晶のマシンは、そんな素振りを一切見せる事無く、凛子のマシンを外側から抜き去ったのだ。

 瞬間、凛子は千晶のマシンがタイヤを滑らせてコースアウトすると思った。それほどの速度差を、凛子は瞬時に感じ取ったのだ。

 だが実際は、千晶のマシンは転倒する事もコースアウトもせず、凛子を従える形で130Rを抜け、シケインへと向かったのだった。


凛子の頭を抑えて130Rコーナーを抜けた千晶。

一見すると華麗に、マシンのポテンシャルを活かしての疾走に見えるが、実際はそうではなかった。


苦戦する千晶は、それでも前を追いかけてアクセルを緩めない……。

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