三つ巴からの
傍から見れば、千晶の走りは乗りに乗っているものであり、その勢いで凛子を躱したように見える。
しかし実際は、その走りは千晶の心を蝕み、恐怖を植え付けていた。
そんな恐れを精神力でねじ込み、千晶はアクセルを開けて前を睨みつける。
俗に「リズムに乗る」という言葉がある。選手が調子に乗っている時は、信じられないようなパフォーマンスを見せるという意味だ。「調子に乗る」とも言い換える事が出来る。
130Rコーナーで凛子を抜き去った千晶のライディングと速度は、周囲からは「リズムに乗っている」と思われても仕方がないのだろうが、実際は全く違う。
「……はぁ……はぁ」
見事に凛子を抜き去った千晶だが、その表情は優れないどころか、もはや蒼褪めていると言って良かった。それどころか全身は戦慄き、歯はカチカチと震えて音を出す程だった。
……そう、千晶は今、恐怖に憑りつかれていたのだった。
しかし、それもそうだろう。
つい先ほど行った大追走劇は、見ているだけの者たちには非常に爽快だっただろうが、当の千晶にとっては正しく、生死を分けるような体験だったのだから。
トップスピード……前を行く凛子に並びかける事の出来た千晶のNFR250Ⅱ改は、間違いなく凛子の駆るZXR-10RRのそれを凌駕していた。その時速は250Km/hを超え、300Km/hに迫っていただろうか。
そんな速度で、減速もせずに、マシンもタイヤも消耗しているこの後半で、130Rコーナーを回り切ったのだ。
例えそれをマシンが望んでいたとはいえ、そのマシンを操る千晶の脳裏には、何度も転倒やクラッシュのイメージが浮かんでは消えていた。
結果として無事に回り切ったのだが、彼女にしてみれば、それは運が良かっただけだという考えが拭い去れなかったのだった。
ただ幸いと言おうか、千晶がその恐怖に身を委ねる時間はそれほど残されていなかった。……何せ。
『さああぁぁっ! 残りは3周となろうとしているこの最終コーナーでええぇぇっ! 本田選手、前を行く3台の背中を見据えたあああぁぁっ!』
場内実況がこの状況に絶叫している通り、千晶の眼前には3台のマシンが映っており、すでに射程距離と言って良いところまで迫っていたのだった。
それも当然の話、先頭グループは4台で形成されていたのだから、凛子がやや遅れた位置だったとはいえ、それほどバラバラに走っていた訳では無いのだ。
2人のバトルがクローズアップされていたとはいえ、千晶が猛追している時を同じくして、先頭グループは目まぐるしく順位を変えながらデッドヒートを繰り返していたのだった。
現在の順位は、1位がSRCの岸本美沙、2位はHRTの勲矢那美、3位はYRFの間宮乃彩である。
後方に漆原凛子を従えて、本田千晶が最終コーナーを立ち上がり、そのままホームストレートを通過する。大歓声に背を押されながら、千晶のマシンは前を行く3台に続いて第1コーナーへと消えていった。
『残り3周うううぅっ! トップを死守するのか、岸本選手うぅっ! それとも、1位を奪うのか勲矢選手、間宮選手ううぅっ! はたまた、前を行く3台をも食らうのか、本田選手うううぅっ!』
ヒートアップした場内実況で、観客も大騒ぎとなって怒号は地鳴りをも引き起こした。それほどまでの追走劇に、観客はみんな酔いしれている様子だ。
そんな観客の期待に応えるつもりもないのだろうが、千晶の接近で先頭争いの3台にも明確な動きが見て取れた。
(……ええっ⁉ ここからラストスパートするつもりなのぉ⁉ ちょおっっと、早くないぃ⁉)
前を行く美沙と那美の雰囲気、そして速度の違いを敏感に感じ取り、乃彩は声に出さずに驚いていた。言うなればこれはロングスパートなのだが、作戦上明確な勝算が無ければ、あまり多用しない戦法かも知れない。
乃彩から見ればこれは、後方より迫る千晶に押し出された結果のようにも伺えたのだった。
(ううぅぅん……。合わせて速度を上げても良いんだけどぉ……。なんだか釣られたみたいで、面白くないよぉ)
成人間近であるにも関わらず、一見すれば華奢に見える小柄な身体は、見ようによっては小中学生に見える。それに釣られてなのだろうか、喋り方まで子供の風な乃彩なのだが、その考え方は達観しており、実に現実的で正確な思考をしていた。
その言動のギャップに周囲は困惑させられるのだが、彼女の実力は間違いのないものである。
そんな乃彩は今、誰よりも冷静に状況を判断していた。いや、しようとしていた。
(……うん、やぁめたっと。ここで勝算もなく追従しても、ジリ貧のイメージしか湧かないしぃ。ムキになってる2人と張り合っても、面白くないしぃ。……それにぃ)
そして出した結論は、3台に張り合わないと言うものだった。
猛襲する千晶は、ほどなくして乃彩のマシンに並びかけ、巧みにインを突いて抜き去った。そしてすぐ目の前には、競い合うように前を塞ぐ2台のマシン。
(来たな、千晶っ! ここは、何があっても譲らんっ! ……勝負だっ!)
(……ここまでに、かなり無理をしたはず。敢えて競っても、益はない……わね。でも、勢いづかせるのも得策じゃあない……か)
S字コーナーを抜け逆バンク、そしてデグナーカーブへ。
意図して後方へと下がった乃彩の眼前では、3台のマシンが曲芸のように順位を入れ替えながら、どんどんとコーナーを攻略してゆく。
(あ……あっぶないなぁ!)
後方で冷静に前を見ていた乃彩は、ヘアピンカーブに進入する3台の挙動を見て、思わず焦りを覚えていた。それくらいに、千晶、那美、美沙のマシンの動きは危険極まりなかったのだった。そしてそれほどのデッドヒートをしていると、即座に理解できていた。
(これほど無理をしても……離せない!)
そんなバトルに、美沙は若干の焦りと苛立ちを覚えていた。
ここまでのレース展開で、美沙は那美を完全に抑えられると確信していた。
余力を残しているのは共に同じならば、残すはマシンの性能に依るだろう。そしてそのマシンの能力は、先日実践投入された美沙のRGBγ250二式改Vr.Ⅱが上回っていると確信していたのだ。
(こんな狂気じみた走りに……いつまでも付き合っていられない)
最初に根を上げたのは、誰あろう岸本美沙だった。完全にラストスパートを上回る、乾坤一擲の様なライディングが続く現状、このままそれを続ける愚に美沙が折れたのだ。
千晶と似たような、同じような走りをするだけならば、実は美沙や那美のテクニックがあれば不可能ではない。乃彩や凛子、日本のトップライダー達にも可能だろうか。無論、引き出せる速度には違いもあるのだろうが。
しかしそれも、時と場合による。
何よりも、それほど長い期間……レースを通していつまでも、という訳にはいかない。それこそ、ここ一番と言った場面でのみ、無理を通そうとチャレンジする程度だろう。
しかもそれは非常にリスキーで、往々にして転倒やクラッシュを引き起こすという結果を齎す。
そうまでもしても引くに引けない、ここ一番の勝負所で賭けに出なければならない……そんな決断に迫られる事もライダーには確かにある。
だが今美沙の周囲では、その無謀とも思えるトライを延々と繰り返し終えようとしない、2台のマシンが凌ぎを削り合っていたのだ。そんな狂気じみた行為に、美沙は早々に見切りをつけたのだった。
(どうせこのままじゃあ……最後まで持たないでしょうしね)
負け惜しみに聞こえる美沙の考えだが、どちらかと言えば当然の見解だろう。無理を続ければ、そのしわ寄せはいずれ、そしてすぐに訪れるのだから。
『抜け出したああぁっ! スプーンカーブを目前にしてええぇっ! 勲矢選手と本田選手が抜け出したああぁっ!』
車体にして1つか2つ分、2台のマシンが後方と距離を付けた。この段階で、トップ争いは本田千晶と勲矢那美の2人だと、観客の誰もが考えたのだった。
(勝負だ! 勝負だあぁっ、本田千晶いぃっ!)
そんな勲矢那美は、正しく歓喜に打ち震えていた。その喜びの前には、レース結果など二の次である風情すらある。
普段はしないような満面の笑みをヘルメットの下で浮かべ、打ち震えるような狂喜に全身には力が漲っていた。
これこそがまさに、那美の望んでいたシチュエーション。これを望んだからこそ、彼女は海外への挑戦を1年先送りにしたのだ。
正しく本懐を遂げる為、思い残しを清算する為に、勲矢那美は追随する本田千晶に勝負を仕掛けたのだった。
千晶の走りに、ただ一人歓喜する那美。
彼女の本懐は、まさにこれからの3周に集約されていると言っても良いだろう。
ともに退く素振りも見せない2台は、危険な縺れ合いを見せながら、次々とコーナーを攻略してゆく。




