大気の壁
前を行く漆原凛子に、猛追する本田千晶が襲い掛かる。
それに対して、本性を顕わとした凛子が迎え撃つ。
眼前に迫るバックストレートを前に、2人の攻防が火花を散らす。
マシンが、まるで意思を持つ生き物のように接するライダーは、少なくない頻度で存在する。
そのような態度を示された訳では無いだろうに、「まるでマシンが喜んでいるようだ」や、「マシンと一心同体になったみたいに」と言った、擬人化表現を用いてその時の気持ちを表す者は、意外に多いだろう。
無論それは、何もモーターサイクルに限った事ではないのだが。
そういったケースとは別に、操者の集中力が高まれば、マシンをまるで手足のように操れる……そういった感覚に囚われるケースが確かにある。
それこそ集中力の極致である「ゾーン」に入り込めば、何でも出来るような錯覚に陥る事も、レースの世界で生きる者には珍しくない現象だ。
そしてそういった体験をした者たちは殆ど一様に「楽しい」という言葉で言い表している場合が多い。
(こ……これならっ!)
だが現在本田千晶が行っている……試みているのは、自分が主導での「楽しみ」ではない。
本田千晶は、如何に「愛機」が楽しんで走れるか。この事を最大限の優先事項として、ただただサーキットを睨みつけて全神経を研ぎ澄まし、持てる力の全てを注いでいたのだった。
おかしな話である。
主であるライダーではなく、従とする機体の方を、しかも無機物であるはずのマシンを楽しませようと、ライダーが四苦八苦するのだから。
おおよそ理解に苦しむ発想、そんな無茶苦茶を実現しようとしている千晶だが、無論これには理由がある。
仮に、モーターサイクルが人を乗せずに走ったとすれば、現在のサーキットに記録されているコースレコードは、軒並み書き換えられる結果となるだろう。
それも当然の話で、バイクが持てるポテンシャルの全てを発揮すれば、どのコーナーやストレートでも最速で走らせる事が出来るのだから。
しかしやはりこれも自明の理で、そんな事は……不可能だ。
バイクは、ライダーを乗せて走らなければ前に進まない。少なくとも現在は、そのように作られている。
ライダーと言う「人」をその背に乗せる以上、バイクはその「人」が許容できる範囲でのみ、スピードを出す事が出来る。
逆に言えば、ライダーの御しえないスピードでは、どれほどの高性能なマシンであっても、その速度をあげる事は出来ないのだった。
(くく……くっ!)
ヘアピンカーブを曲がり切ると同時に、千晶はスロットを全開にする。その先に待ち受けるのは、スプーンカーブへと臨む、大きく緩やかに右曲がりしている「200R」だ。
ここでは目の前のスプーンカーブと言う、60Rのコーナーが連続する複合コーナーのその先、鈴鹿サーキットで最も長く、最もスピードの乗る「バックストレート」に備え、可能な限りスムーズに対応する事が望まれる。
スプーンカーブの脱出速度が遅くなってしまえば、バックストレートでの最高速度に影響するのだから、慎重になるのは当然だろう。
だが千晶のマシンは、そんな事などお構いなしとでも言わんばかりに、テールスライドを起こしながらも後輪にパワーを伝えて加速してゆく。
(……何? 何かが……近づいて……?)
千晶の前を走る漆原凛子は、既にスプーンコーナーへと差し掛かっていた。大きく減速し丁寧にコーナーを攻略する凛子の視野、その端に、後方より迫りくる千晶の影が捉えられたのだ。
ほんの僅かに映り込んだマシン。しかしその姿はインパクト……プレッシャーとなって、凛子には無視出来ないほどの存在感を醸し出していたのだった。
「ハ……ハハハ! ギャハハハハッ! 面白れぇっ! 面白れぇよっ!」
千晶の姿を認めた瞬間、凛子の心に火が付いた。
それまでの、どこか物静かで考えの読めない表情を湛えた女性は鳴りを潜め、闘争心をむき出しにした、言動の荒い女性が出現したのだった。印象としては、剋越高校の西島喜久李に近いだろうか。
もっともその圧力は、喜久李よりも数段強く発せられていたのだが。
漆原凛子は、普段は非常に内向的だと捉えられている。他者とのコミュニケーションも不足するくらいに会話をする事は無く、自分一人でブツブツとなにやら呟き、誰にも相談せずに自己完結する嫌いがあった。
無論彼女も成人であり、全く他者との接触を断っている訳では無い。ただそれが、極端に少ないのは事実だった。
しかしそれも、彼女の一側面にしか過ぎなかった。
彼女は興奮度合いが限度を超えると、全く別の、正反対の性格となるのだ。二重人格というよりも、二重性格とでも言おうか。
普段は気弱だが、切れると止めようもなく攻撃的となる……これに近しい。
出現した性格は粗暴で口悪く、理知的とは程遠い行動を選択する。その反面、思い切りが良く無鉄砲で大胆な行動を採るので、それまでのどこか消極的な性格では行えなかった戦法が選べるのだ。
しかし、それだけでは日本のTOPライダーを体現できない。彼女の中でこの状態となると、動と静の性格が絶妙に混在していると言って良いかも知れない。
「良いぜぇっ! 掛かって来いよぉっ! 勝負だ、本田千晶ぃっ!」
口に出しヘルメットの中で叫ぶ凛子の言葉は、後方に張り付いた千晶には聞こえない。どれだけ大声を発しても、それを上回る爆音が搔き消すからだ。
車体1つ分後方に位置し、凛子がイン、千晶がアウト側からスプーンカーブを脱出する。凛子の後輪と千晶の前輪が触れるのではと錯覚するほど接近した2台の眼前に迫るは、およそ1200mからなる〝バックストレート〟だ。
その先にある超高速コーナー〝130R〟を超えて〝シケイン〟までの距離を考えれば、その長さはおよそ1600mに及ぶ。
マシンのパワーを最大に発揮でき、そのスピードは最高速度を引き出す事が可能だ。このサーキットでの、今レース中最大の見どころの1つだろうか。
「ぐ……ぐぐ……くっそぉっ!」
だが、ライダーはそんな単純な想いでアクセルを開けられる訳ではない。すぐ目の前には、目視出来ない大気が沈殿しており、加速しようとするマシンとライダーを妨害し続ける。
ライダーはその風圧で飛ばされないように目一杯カウルに伏せ、可能な限り空気抵抗から逃れようとする。
凛子が悪態をつくのも、そんな障害物に苦心してのもの……であるのだが、それだけでは無い。
このストレートで最大の難敵は……恐怖心だ。
最高速度を発揮させれば、マシンは簡単に250Km/hを突破する。
速度だけを見ればもっと速く走るマシンはあるのだが、速度を出せるマシンにはそれだけスピードを出せる理由があり、250ccのマシンでは現在、250Km/h前後が限界だった。
排気量やそもそものパワーも然る事ながら、その車体の軽さが制限を掛けているのだが、それでも250Km/hで走れるというのは、ライダーにとっては脅威だろう。
何せ、それほどの速度から振り落とされれば、間違いなく大怪我では済まされないのだから。
最高速度で走るようにアクセルを全開としながら、そのライダー本人は恐怖に憑かれてアクセルを緩めたい衝動に駆られるのだ。
(く……うう……くぅ)
すべてのライダーが毎周回、その恐怖心と戦っている。
モンスターマシンを駆ってレースを走る以上、それだけで怖い思いをしているのだが、このバックストレートで最高速度を引き出す行いは、どんなコーナーを回るよりも肝を冷やす行為であった。
そしてそれは、じりじりと凛子に並ぼうとする千晶も同様だった。
彼女は、マシンの負担が掛からないよう、マシンが最も気楽に走れるように、マシンに合わせた走りをしてきた。その中には、自分で制御するには明らかに無理がある操作もあっただろう。
そして今回のこのストレートでは、一切の減速を許さない要望をマシンから感じ取っていた。本当にNFR250Ⅱ改からそんな指示があった訳では無いのだが、千晶は間違いなくそのように感じ取っていたのだった。
重く、どこまでも続く大気の壁。その中を、切り裂くようにマシンは加速し続ける。これがどれほどの恐怖であるのか、観客には一切理解出来ないのではないだろうか。
ほんの僅か、たった数ミリ車体の挙動を把握し損ねるだけで、体感としてあっという間に減速、下手をするとバランスを崩して、瞬く間に転倒してしまうのだ。
その速度でのクラッシュは、如何にライダースーツなどの性能が向上しているとはいえ、死を予見させるには十分だった。
そんな、死と隣り合わせとなる……特に死を意識させられるような状況となれば、恐怖にアクセルを緩めてしまおうとする気持ちが働かない訳では無く、無意識にアクセルを掴む手が力を抜いてしまう事も少なくはない。
「な……なんだとぉっ⁉」
そのような状況下でのバックストレート中間点。千晶のマシンは、特に凛子のスリップストリームに付く事も無く、アウト側から彼女を抜きに掛かったのだった。
凛子の驚愕。だがそれも、仕方のない事であった。
定石の一切利かない千晶の走りは、凛子に混乱しか与えなかったのだった。
そして目の前には難関である「130R」が迫りくる。




