第三三話
破魔の色である赤が多用された天井や柱はもちろんのこと、調度品にまで豪華絢爛な細工が施されている。広々とした板間。一段上がった上座には、王だけが座すことを許された畳が一枚。その淵にある紋様は神女たちの腕にあるそれと酷似していた。
まるで技術の粋を集めたかのような部屋。
王の間。
その名の通り、部屋の主は王だ。
――王であるべきなのだが、今その部屋に腰を下ろし、螺鈿細工がまぶしい文机で文をしたためているのはアガリエ――名実ともに月神女カーヤカーナとなった娘だった。
文を書く手を止めた彼女は、ふう、と嘆息した。
結い上げた髪に指す簪には珊瑚や宝玉が幾重にも連なる。そのひとつひとつが希少なものゆえ、随分と値が張る代物だったが、彼女は一度身に着けたものを二度は使わない。
着物にしてもそうだ。袖を通した着物は必ず焼き捨てるよう指示し、毎日のように新しいものを誂えさせている。おかげでお針子は寝る間もない。
そんな彼女がまとうのは神女装束ではなく、生前の王母を思わせるような煌びやかな衣装だった。
生地の色は紫なれど、大輪の赤い花が全面に咲き誇るそれは、遠目には赤い着物のように見える。
この城において赤は王の色だ。
王母の死後、王は退位を望んだ。
無論、臣下は引き止めた。
王母により王位継承権を持つ王子はことごとく城から排除されており、くわえて王にはまだ子がない。そうした現状の中で王位継承権第二位にあるのは、先王の妃のひとりが産んだ齢一歳の幼子であった。次代の王として力不足なのは火を見るよりも明らかだ。
何より問題は王位継承権だけではない。
長く続く旱に、王母により高められた臣下や民衆の不満。
この荒れた国を導こうと意気込む者は、誰一人としていなかった。
「誰もいないのであれば致し方なかろう。わたくしが王位を継ぐ」
「なれどカーヤカーナ様。女王というのは前例がなく……」
「よかろう。では、そなたが王となるべき者を、わたくしの前に連れて来るが良い。わたくしがこの目でしかと見極めてやる」
いるわけがない。
王母は我が子の邪魔になるものは徹底的に排除した。くだんの一歳児をのぞけば、可能性があるとすれば先王の第四子あたりだが、彼とてとうの昔に王位継承権を剝奪されている。
継承権を取り戻すにあたり、まず必要になるのは王や月神女の許しとなる。
それが唯々諾々と認められるはずがないことは、誰しも承知しているところだろう。そもそも認めるつもりがないから己が王になると月神女が言い出したのであろうことは想像に難くなかった。
混沌の時代、王国は抱くべき新たな王を見失っていた。
そして月神女には王命に匹敵する切り札がある。
「皆、心して聞け。これは神のお告げによるものである。新たな王は女であるべしと、神々も望んでおられるのだ」
神託には誰も逆らえない。
こうしてアガリエは月神女の座を取り戻したばかりか、王座に最も近い場所を手に入れた。
残すところは継承の儀だ。この継承の儀で王から王位を賜れば、晴れてリウ王国史上初の女王が誕生することになる。
思えば遠いところまで来たものだ。
今よりもっと幼かった時分、波に漂うような夢うつつの合間に神の声が聴こえた。
そなたの弟はいずれ王になる、と。
当時、すでに同母の兄である第二王子が世継ぎとされていた。
それなのに弟が王になる。
それがいつのことか、そこまでは分からない。
兄王子が年老いて、何らかの理由で弟に王位を譲るのか、それとも弟が兄に対して謀反を起こすのか。
分からない。
分からないけれど、それは明確な、いつの日か必ず訪れる事実であった。
弟が王になる。
それはつまりこの腐りきった王国の頂点に君臨するということだ。
なんと哀れな。
腹違いの弟だ。後ろ盾とする家も違う。そもそもアガリエ自身、その生まれゆえに人前に出ることがほとんどなかったため、顔すらろくに合わせたことがない弟だった。血のつながりがあるとはいえ、もはや他人にも等しい。
けれどそんなアガリエに、イリは会いに来てくれた。
彼女いわく、妹が幽閉されているということを知らなかったそうだ。こちらも姉がいるとは知らなかったので驚いた。それまでは産みの母を死に追いやった穢れゆえに屋敷を出ることを禁じられているのだと聞かされていた。血濡れの姫、魔物の取り換え子という忌み名も、そのためだと。
同じ顔、同じ声で、彼女は目を輝かせて言った。
会いたかった、と。
心が震えた気がした。
だからだろう。弟に会ってみようという気持ちになったのは。
そうして幼い弟を抱く女性に告げた。まだ赤子の弟は言葉を解さなかったから、母である彼女に神のお告げを託した。
自分たちはどこで道を違えてしまったのだろう。
あの時、確かに想いは同じだった。
この幼子が王位に就くまでの茨の道を、少しでも歩きやすいように均し、少しでも憂いが晴れるように努めようと、誓ったはずだった。
それなのに。
地位や権力は人の心を狂わせる。王母も、先代であった父王も、あるいはその犠牲者だったのか。
仮にそうだとして、ならばわたくしはいつ狂うのか……。
新王への挨拶に来る者は皆、心尽くしだと言っては金子や同等の献上品を置いていく。
その品の中には人もいた。年頃の男だ。唄や舞を御覧にいれましょうと口にしながらも、あわよくば傍に召し上げてもらい、子を孕ませるのが目的であることは明白だった。
はじめて金子や男を受け取った時、王母はどう感じたのだろう。
でも結局はすべてが己の責任、か。欲に溺れず何事にも惑わされず、強い心根で王母として王を支えてくださっていれば、わたくしとて手を下す必要はなかったのに……。
しかしそのように愁う反面、実に好都合な結末になったと、合理的に判断する気持ちもある。
王母は数々に悪事に手を染めた。政に不慣れな彼女は甘言と忠告の違いすらわからなかったようだ。王母はいつしか厳しい言葉には耳を閉ざし、己に都合が良い言葉ばかりを取り入れるようになった。
そのような調子だから賄賂や不正は日常茶飯事となり、彼女はそれが悪しき慣習であることには気づきもしない。
そればかりか次第に権力を振るうことを覚えると、正義の名の下、目障りな政敵を捕らえ、処刑するようになった。
王母の暗殺未遂事件が起きたのはその頃で、おびえた彼女は処刑をやめるのではなく、刑罰を与える際は一族郎党幼子までも根絶やしにするよう命じる始末。
よくもまあ、そのように悪事の限りを尽くせるものだと、いっそ感心したほどだ。
自分で動くよりも、彼女に任せて後からその功績を奪い取った方が手間が省けて良いと考えたのは、おそらく彼女から月神女カーヤカーナの名を貸してほしいと乞われた時のことだ。
当然の結果として政は乱れ、国の礎はより一層傾いていったが、王城という狭い世界で生きてきた王母は、目前に広がる世界しか認識できていなかった。
城の外でどれだけの民が苦しんでいようとも、己の膳が山盛りに満たされていれば、他の膳もそうであろうと判断し、他者の不満に気づけなかった。――気づかせるつもりもなかったのだが。
入室の許可を求める声に応じると、ややあってセイシュが姿を見せた。
老人は今や月神女カーヤカーナの腹心の部下として政に関わるすべてを一手に引き受けている。この異例の抜擢には反対する声も多かったが、当人は意に介する様子もなく、その務めを粛々とこなしていた。
「畏れながら申し上げます。イリ様率いる西の勢力がこの王都を目指し進軍しているとの報告が上がってまいりました」
「……生きていたか」
ゼンが連れ去った彼女を、王母は生前血眼になって探していたが、結局どれほど人員を裂いても見つけることができなかった。城下に潜伏しているはずだという王母の考えに反し、早々に脱出していたのだろう。
セイシュの表情は芳しくない。
西の城主である彼にとって、イリはともに領地を治めていた相棒であると言っても過言ではない。そもそも月神女の側近とはいえ、この城において正式な肩書きのない彼は、未だに西の城主セイシュと名乗っている。そうした事情もあるので、彼の領地で謀反が起きたとなればさぞ居心地も悪かろう。
「謀反とはいえ、あの疲弊した西の地でのこと。たいした数ではないのであろう。采配はユクサに任せる」
「……ユクサ殿に、でございますか?」
「なんだ、不満か」
「彼の者は腕には多少覚えがあるようですが、隊を率いる才覚があるかどうか、あやしいものです」
ユクサとは今は亡き王母が召し抱えた武人のことだ。
引き続き月神女の護衛として勤めているので、当然二人の会話も玉座の傍らに座して聞いている。
青年は美麗な顔をしかめた。
「我が君、どうか私にお任せください。このユクサ、必ずや我が君のお役に立ってみせましょうぞ」
「うむ。……ああ、そうだ。義母上のご実家にも力添えを願おう。わたくしの覚えも目出度くなるとあれば、あの者たちにとっても此度の戦は願ってもないことであろう。やつらのご機嫌伺いにはわたくしも飽きていたところだ」
文机の片隅にあった箱の中身を放り投げる。
膝元に散らばったそれらを、セイシュはひとつひとつ拾い上げた。そのどれもが新王へしたためられた文だ。
「知っているか、セイシュ。巷でわたくしは魔の女王チマジムと呼ばれているらしい」
「誰がそのようなことを」
「皆だ、皆がそう呼ぶそうだ。雨雲を遠ざけ、人の生き血を好む魔物のような女王。……女王などと、まだ即位式も執り行っていないというのに、気の早いことよ」
「そのように玉座に座り、国を動かしておられるのは他でもないあなた様なのですから、あながち間違いとも言えぬでしょう。そのようにせかさずとも、即位式の準備は滞りなく進んでおりますゆえ、ご安心くださいませ。我が君の為、いずれの王よりも盛大で華やかな式にいたします」
「期待している。して、王のご様子はどうだ?」
「日のほとんどを斎場で祈りを捧げてお過ごしです」
「そうか。即位式までは無事でいてもらわねば困る。周囲の警護を怠るなよ。……それはそうとセイシュ。近々雨が降るぞ」
これにはセイシュだけではなくユクサも目を見張り驚いていた。
「まことでございますか?」
「降る。そうだな、即位式に雨が降れば、皆も喜ぶであろう。この日この時と断定するのはわたくしにも難しいゆえ、即位式は継承の儀も含めて七日七晩執り行うとする。その間に雨が降れば、新王が雨を降らせたと触れ回ることもできよう」
「良いお考えでございます」
心持ち軽い足取りでセイシュは下がった。
誰しもが待ち望んだ雨の兆しだ。喜ばずにいられるはずもない。
それはユクサにしても同じらしかった。彼は周囲の目がなくなった途端、親しげに話しかけてくる。
「我が君、神女とは不思議なものですね。一体どのようにすれば雨が降るとわかるものなのです?」
「風や雲の動きから読み取るのだ。何も不思議なことはない。漁師などもそのようにして天候を読み、舟を操る」
「おや。我が君がお好きなのは、風や雲ではなく星であったと記憶しておりますが」
「……そなた、よく見ているな」
「敬愛する我が君のことですから」
「二枚舌め。誰にでもそのように調子が良いことを言うと、わたくしが知らないとでも思っているのか」
ユクサはにこりと笑って嫌味を聞き流す。己の美しい造形とその使い道を重々心得ているものの仕草だ。
「何一つとしてこの世に万能なものはない。ゆえに星から読み取れないものある。その場合は風や雲、他のもので補う」
「神のお告げは?」
「神は気まぐれだからな。あてにしていては望むものは得られない」
「いやはや。とても月神女のお言葉とは思えませんね」
「そなたらとは違い、わたくしは神を身近に感じて生きてきた。だから無用な期待は抱かない。神は恩恵を与えてくださるが、無慈悲に奪っていく存在でもある。此度の戦にしても、たとえどのようなお告げがあろうと、勝つも負けるも我ら次第だ」
「心得ておりますよ。でもせめて、我が君のために出陣するこのユクサの武運を祈ってくださいね?」
「……可笑しなことを言う。他に誰のために祈るというのか」
「だって我が君は姉君のことがお好きでしょう?」
間があった。
「お仕えする以前から我が君のことは存じ上げておりましたので、姉君と口論されている仲睦まじいご様子も、遠目にではありますけれど、こっそり拝見したことがあります。同じ顔のおふたりが並ぶと目の保養になりましたしね」
「呆れたものだ。口論を仲睦まじいと表現するのはそなたくらいのものではないか」
「さすがに今回の戦をそうは言えませんが、あれはただの痴話喧嘩だったでしょう。さあ、親愛なる我が君。大好きな姉君と戦えとお命じになる、その御心の内をお聞かせください。そうでなければいくら私でも後顧の憂いなく戦うことはできませんよ」
「もっともな言い分だな。だが先に歯向かってきたのは姉上の方だ。刃を抜かれたら、こちらも抜くのが自然の摂理であろう」
「我らは盤上の駒のように不老不死ではないゆえ、防御に徹することはできないということはお分かりですか? つまり敵の大将首が姉君であれば、私は姉君を仕留めるために動きますよ」
「是非もない」
躊躇いなく是とする主に、ユクサは溜息をついて立ち上がった。
「やれやれ。困った御方だ。一体誰になら御心を開くのか」
「……わたくしを疑いながら、それでもそなたは戦に赴くつもりか」
「ええ。私に好機をくださったのは我が君です。他にどのような偉人がいようとも、私をお傍に召し上げてくださらないのであれば、私にとっては価値がありません。それでは麗しき魔の女王チマジム。私は戦の支度がありますので、これで失礼いたします」
軽口とともにユクサが下がると、室内は静寂に包まれた。
書き物をしていた筆を置き、肩から力を抜く。まったく肩の凝る重い衣装だ。
「待たせたな。報告を」
誰に向かって言うでもなく告げると、背後で気配が動いた。
柱の陰からひとりの神女が姿を現す。守人クムイだ。
彼女は玉座の傍らに座すと、囁くような声で語り始めた。
「西で謀反の兆しありというセイシュ様の報告に偽りはございません。疫病を退けるために城下の一角に火を放ち、生き残った隊士を従えて城を出たようです。その中にイリ様とシシ様のお姿も確認しております」
「疫病に火が有効だという報せは受けていないが……」
「病の元を絶つためではなく、病を得たものを隊の進路から遠ざけることが目的であった様子」
「疫病をこの都に持ち込めば、ただ自滅するのを待つだけで良いというのに、心優しい姉上はそのようなこと思いつきもしないのであろうな。……いや、戯言だ。気にするな」
クムイは頬をしかめたが、追及はしなかった。
「セイシュ様が西の者と通じている様子はございません。しかし謀反の報せを受け、セイシュ様は内通者ではないかと疑っている者は少なからずいるようです。どうやら私財を蓄えるのに随分と恨みを買ったようです」
「捨て置け。ユクサはどうだ?」
「方々で浮名を流しておいでですが、反意はないかと。お二方ともまだ監視を続けますか?」
「人の気持ちは移ろうもの。いつわたくしに歯向かうかわかったものではないし、わたくしは失策を許されぬ身だ。そなたも抜かるな」
御意、と短く応じ、クムイは現れた時と同じように静かに気配を消した。相変わらず影のように物静かな密偵だ。
書き物を再開しようと筆を取ると、今度は表から声がかかった。今日も今日とて慌ただしい日だ。
目通りを願う声に応じると、珍しく姿を見せたのは女官だった。
「即位式のお召し物が仕上がりましてございます」
長方形の櫃に折りたたまれていた衣装を、女官が四人がかりで丁寧に丁寧に広げてゆく。
艶やかな赤に極彩色の刺繍が美しい着物だった。帯やそのほかの装飾具に関しても、王の身を飾るものとして申し分ない仕上がりだ。
だが女官の表情は芳しくない。恐々と言った様子で尋ねる。
「まことにこちらでよろしいのでしょうか。その、……今からでも仕立て直すことはできますが」
「それでかまわぬ」
にべもなく言い放つと女官は慌てて押し黙る。仕事熱心な様子だが、不興を買いたくはないのだろう。賢明な判断だ。
即位式まであとわずか。
積年の本懐を遂げる日も、そう遠くはない。




