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魔の女王  作者: 香穂
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第三四話

 鬨の声があがる。

 開戦の場所は王都の西に広がる平野だった。王の配下と西からやって来た反逆者。荒涼とした地で睨み合うこと数刻、ついに始まった戦であった。

 その時だった。

 雨が、降ったのは。

 隊の後方で指揮を執っていたユクサの頬にも雨粒が落ちる。長く続く旱の果てに、ようやく降った雨であるにも関わらず、彼は残念そうに肩を落とした。

「雨が降ったってことは、我が君の即位式は今まさに執り行われている頃なんだろうな」

「さようにございますな。王の即位を喜ぶ神々からの言祝ぎの雨でございましょうから。さすがは稀代の月神女でいらっしゃる」

「さっさと片をつけて、私も宴に参列したかったな。我らの王はきっと目が眩むほどのお美しさだったに違いないのに。ああ、無念だ」

 しかし、とユクサの傍らに立つ隊士は言葉を濁す。

 その理由をユクサも知っている。

「どうして男装などなさるのか。ああ、あの頑なな腰帯を、私がほどいてさしあげたかったな」

 不謹慎な発言をたしなめる者はいない。ユクサが女王の愛人であるという噂は、もう随分前から実しやかに囁かれていることなので、誰もが聞かなかったふりをする。

 雨が降る。

 リウ王国史上初の女王ティーラの誕生を祝うかのように。



 新王の即位を祝う宴は、前庭で盛大に行われていた。中央に設けられた舞台では踊り子や楽師が絶え間なく芸を披露し、その舞台を囲うようにして机が並び、次々に料理や酒が運び込まれる。

 宴が始まってからすでに二日が経過していた。

 集う者の多くが酒に酔い、時を追うごとに賑わいが増してゆく。

 そんな折、突然新王が即位式を執り行うと宣言した。

 舞台から演者たちが退けられる。

 まずは王が舞台に上がる。続いて新王が並び立ち、跪いた。

 新王の装いは王のそれと変わりない。いわゆる男装だ。髪も男のように結い上げ、普段の華美な装いはどこへやら、頬に刻まれた月神女の紋様のほかは唇に紅さえさしていないという質素ぶりだった。

 王は自らの髪に指していた簪を抜くと、わずかな躊躇いを見せた後、そっと新王の髪にその簪を指した。

 月明かりを受けると白銀に輝くその簪は王たる証だ。

 雲行きが怪しくなる。

 そしてついに、雨は降った。

 歓喜の渦が湧き起こる。人も、大地も、この地に生きる誰もが恋い焦がれた雨だった。

 誰かが言った。

 これは新王の即位を喜ぶ祝福の雨だと。

「新王ティダヌカンの御代に栄光あれ!」



 ――けれど、平穏な時は長くは続かなかった。


   *


 数年ぶりに王都に降り注いだ雨は人々を大いに喜ばせ、しかし一刻もしないうちに止んだ。

 新王――女王ティーラが呼んだ雨だ。いずれ遠からず降るのであろう。誰もがそう信じていたが、その気持ちを打ち消すかのように冷たい風が吹く。

 そう。寒いのだ。

 常夏のリウ王国に住まう者とって、寒いという感覚は恐怖心を煽るものでしかない。

 だが雨が降る様子もない。雨雲は霧散し、見渡す限り雲一つない快晴だ。それなのにどこからともなく押し寄せる寒気。奇妙としか言いようがない。

 寒さは不安をおびき寄せる。

 城では夜が更けてもなお新王即位を祝う宴が続いていた。もとより七日七晩続けられるというお達しであったので、出席者は客室を借りて仮眠を取ったり、顔見知りの者がいる席へあいさつに回ったりと、各々思い思いに過ごしている。

 そのようにして一所に集うからこそ不安が伝播するのは早かった。

「即位式にだけ雨が降るのは妙ではないか」

 騒々しさの陰で、誰からともなく囁かれる疑念。

 体を温めるには酒を呑むのが手っ取り早い。幸いここは酒が次々と供給される宴の席だ。自然と酒が進む。

 それなのに頭の芯が冴えているのは、この異常な気配のせいに違いなかった。

 水平線に太陽が沈むと冷気はさらに強さを増し、不安を助長した。

「もしやあの御方は雨を自在に操ることができるのではないか?」

「何を言う。先々代の頃より国を挙げて雨乞いを行ってきたではないか。東の神女アガリエであらせられた頃より、女王も儀式に参加していたはずだ」

「降らせることができたのに、あえて降らせなかったのでは」

「月神女でありながら王位に就くために」

「雨を人質に我らを脅すのか。ではこの寒さも、女王の仕業なのか」

「神々が怒っておられるのだ。神に仕えるべき月神女が王位に就き、神の威に背こうとしていることを。近頃出現する魔物ももしや……」

「魔の女王チマジムとはよく言ったものだ。我らは王家に巣食う魔物にかどわかされたのやもしれぬ」

 一度口から出てしまった言葉を消すことはできない。

 曖昧だったものに輪郭を与えるように、不安を告げることで同調する者が現れ、誰もが皆同じ気持ちでいると確認することができてしまう。己の思い違いではないのだ。皆が不安に思っている。それに女王には後ろ暗い噂がいくつもあるではないか。あれはもしや真実なのだろうか。

 周囲にはあまり知られていないが、彼らの女王は耳聡い。

 今宵の守人クムイは女官に扮して控えていた。

 彼女に陰口の内容を知らされ、玉座に座す女王は興味なさげに、ふむ、と呟いた。

「即位式を終えてからそのようなことを言い出しても、詮無いことであろうに、何もせずただ傍観しているだけだった者ほどよく吠える」

「いかがいたしましょうか」

「捨て置け。戯言を気にしていては何事も成せない」

「……ですが」

 常ならば御意と頷くクムイが、なぜかこの時は渋った。

 女官として茶器を用意する手際はあいかわらず見事だが、見慣れた横顔の硬さに女王は柳眉をひそめる。

 守人クムイは幾人もいる。女王は情報漏洩を防ぐため、その中でも選りすぐった数人を密偵や護衛として重用していた。

 しかし慣れ合うつもりはない。

 日頃から必要以上に忠誠心を集めないように心がけていたつもりだが、知らず知らずのうちに彼女たちとの距離が近くなりすぎたのかもしれない。

 目的を成すため手足として動く駒は必要だ。

 ただ駒は駒として忠実に働けばそれで良い。ユクサの軽口などは見過ごせるが、主人の身を案じて意見するなどもってのほかだ。

「思い上がるな。そなたに求めるのは意見ではなく報告だ。斯様に些細なことでわたくしの手を煩わせるな」

 クムイは端的に謝辞を述べ、頭を垂れるかわりに女王の御前に茶器を差し出した。

 何事もなかったかのように女王もそれを受け取る。

 女王は酒を好まない。白磁の茶器に注がれた茶から香るのはマツリカの匂いだ。

 女王はゆったりとしたしぐさで茶器を鼻に近づけてその香りを楽しむと、口をつけることなく卓の上に置いた。

 そればかりではない。

 女王の御前に並べられた料理には手をつけた様子がない。実際、宴が始まってからこちら、女王は一度として箸に手を伸ばしていなかった。

 そしてそれは今日だけのことではない。ここ数日はどのように趣向を凝らした膳であっても女王の食指を動かすことができず、出された膳は、出されたそのままの姿で下げられることとなっている。

 傍仕えたちは瘦せ細ってゆく彼女の身を案じ、けれどその悋気を畏れて誰も直言できずにいた。

 女王は何か気に障ることがあれば、たとえそれがどれほど些細なことであろうと、その者をすぐに牢へ入れてしまうのだ。

 さすがに役目を与えているセイシュやクムイをそのように扱うことはしないが、替えの利く傍仕えに対しては容赦がない。

 そして牢に入れられた者たちがどうなったのかは、誰も知らない。

 女王の行いが、言葉が、彼女を孤独へと追いやってゆく。

 彼女の異母弟である先王の姿もすでにこの場にはない。彼は即位式を終えるなり、気分が悪いと言って早々に退席していた。

 それでも女王の周囲は騒々しい。眼前には謁見を求める者の列が絶え間なく続く。

 その誰もが祝辞を述べてゆくが、それに応じているのは女王ではなく側近であるセイシュだ。

 彼は玉座の程近い場所を陣取り、次々と訪れる来客を相手に、時にはにこやかに時には厳しい面持ちで相対している。女王といえばその様子を上座から睥睨しているだけで、誰に対しても無表情を決め込んでおり、とても今宵の主役とは思えない態度だった。

 見かねたセイシュが苦言を呈する。政を動かすのに女王の食事量は関係ないが、容貌は重要だった。

「女王が微笑むだけで喜ぶものが大勢おりましょうに」

「興味がない」

「そのようなご様子ゆえ、戦場に赴いたユクサ殿が恋しいのであろうなどと、くだらぬことを申す輩が増えるのでございますよ。ひとりに寵を傾けるのは如何なものでございましょう」

 なるほどユクサ愛人説はこのようなところから出てくるのか。

「では、そなたが納得する子種を寄こすが良い」

「御意。……ああ、ちょうど次にご尊顔を拝しに参りますよ。年頃もつり合いますし、見目も良い。お気に召すと良いのですが」

「好きにせよ。わたくしは疲れたゆえ、もう下がる」

 お待ちください、と追いすがるセイシュの言葉を無視し、女王はクムイを伴って宴の席を立った。

 夜だというのに廊下は明るい。

 松明の数が普段よりも多いのだ。

 そうするようにと命じたのはセイシュであろう。

 彼はこの慶事に汚点を残すことを厭っている。警備を増やして侵入者を警戒するだけではなく、魔物が入り込まないよう方々で策を講じていた。

 王都には今、魔物が出る。

 初めて魔物の存在を確認したのは、王母がまだ存命の頃だ。

 明朝の処刑を控え、城下の広場に吊るされていた者や、その周辺を警備していた隊士が喰い殺された。

 血肉が飛び散る凄惨な状況に誰もが震えあがった。しかもすべては宵闇の中での出来事であり生存者がいないため、誰の仕業なのかわからず、人々は疑心暗鬼に陥った。

 当初は魔物の仕業とは考えられていなかったため、処刑では飽き足らなくなった王母の仕業ではないかという噂も出回っていた。

 しかしそのような事態が二度、三度と続くうち、ついに魔物の目撃者が現れた。

 月明かりの下、二足歩行で都を駆けまわり肉を喰らう。その姿は猫とも犬とも似つかない。けれど人ではない。その体躯は幼子のように小さく、全身を黒い毛—―羽根という証言もある――で覆われており、音もなく忍び寄る。

 それも一匹ではない。その魔物は野犬のように群れを成す。

 王母の死後、処刑は一度として行われていない。捕らえられた者たちはみな牢へ入れられ、何の沙汰もなく今日まで捨て置かれている。

 すると魔物は獲物を探して民家に押し入るようになった。

 古来より家々に受け継がれている魔除けが効果を発揮していたのではなく、どうやらそれまでは目につくものを襲っていただけらしい。魔物にしてみれば夜道に人の姿がなければ、探し出して喰うだけのことなのだろう。

 魔の女王チマジムという呼称は、この魔物の出現にも由来している。

 新たな王が都に魔物を呼び込んだというのだ。

 火のない所に煙は立たない。なにしろ女王が魔物と親しいことは、城に仕える者なら誰でも知っている。――猫のようなその魔物のことを、愛おしげにマヤーと呼び、己の寝所にまで招き入れていたことを。

 女王は廊下で足を止め、松明に灯る炎に目を細める。

 夜にしか現れないその魔物を退ける方法は未だ誰にもわからない。炎を嫌うという噂も根拠がないものだ。それでも不安の数だけ松明の数は増え続けている。処刑が行われなくなった今も、王都の夜は炎に照らしだされ、夕暮れ時のように薄暗く明るい。

「戦場にも魔物は出たのであろうか……」

 魔物の狙いが生き物の血肉であるなら、戦場は恰好の狩場だろう。

 けれど女王の疑問にクムイは否と首を振った。

「では、西には力ある魔物が味方しているのやもしれんな。もっとも魔物にも縄張り争いというものがあればの話だが」

「力ある魔物、でございますか」

「そうだ。たとえば猫のような」

 イリが西へ辿り着いたのだ。

 そして彼は未だに姿を現さない。

 だとすれば充分に可能性はある。戦場のイリの傍にマヤーを残し、単身で、あるいは相棒とともに行動しているという可能性が。

「そういえば戦況をまだ聞いていなかった。ユクサたちは今どうしているのだ?」

「敗走する敵を追って、日暮れ前にはヒララのあたりを越えたようです」

「ヒララを? 随分王都から離れたではないか。あまり離れると補給路の確保も難しくなるだろうに。敵の罠の可能性は?」

「大いにあるかと。敵方にはシシ様もおられますゆえ」

 もしもこれが陽動作戦であるならば――否、陽動だ。

 セイシュは西の謀反を抑えるため、ユクサとともに多くの隊士を出陣させた。

 西の内通者ではないかと疑われているセイシュにとっては、身の潔白を証明するためにも重要な局面だ。本来であれば総力を挙げて戦いに臨みたいところであろうが、何しろ即位式を控え、城の守りも固めなければならなかった。

 降雨に合わせた日程を不用意に変更するわけにもいかず、くわえて魔物のこともある。

 常ならば斎場や奥御殿でのみ任務にあたるはずの守人クムイが表舞台に出てきているのは、不足した武力を補うためだ。

 必然的に斎場の守りは手薄になる。

 今宵はまたとない好機の夜だ。

 動悸が激しい。

 胸を押さえてうつむいた女王に気づき、クムイが傍に寄ってくる。

 肌に触れて気づかれてはいけない。

 大事ない、とクムイの手を退けようとしたが、呼吸が苦しくて言葉にできなかった。

 女王を抱きとめたクムイはその異変を悟り、瞠目した。

「……これは」



「義姉上様、急ぎ御報せしたきことが」



 次は何だ。

 女王はいつの間にか閉じていた瞼を持ち上げる。視界が薄暗い。それがこの宵闇のせいなのかどうかさえ自分では判別できなかった。

 幸い声には聞き覚えがある。義姉上と呼びかけることからしても、相手は先王の正妃だ。

 彼女はしずしずとした足取りで近づき、女王の前で立ち止まると優雅に一礼した。急ぎと言ったわりにおっとりとしたそのしぐさが、いかにも彼女らしかった。

「いかがした」

「我が君が、先王が何者かに攫われてしまいましたの」



 困りましたわ、と彼女は溜息をついて、口元に柔和な笑みを浮かべた。


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