第三一話
庭先で星を眺めるアガリエの足元には、ひとりの男が平伏していた。
かれこれ半刻ほどそうしているだろうか。
男は以前から面識のある高官だった。元々は西の出で、その能力を買われて先王の代から王家に仕えている。
曰く、王母の行いが目に余るそうだ。
「カーヤカーナ様、正統なる月神女はあなた様にございます。どうかお頼み申し上げます。王母様をお諫めください。このままでは王家の威信は地に落ち、国は滅びてしまいます」
「言いたいことはそれだけか。……ではセイシュ、この者を牢へ」
縁側に腰を下ろしていた老人が目配せすると、庭の隅に控えていた隊士たちが男を後ろ手に縛りあげた。引きずられるようにして連行されてもなお男は何事かを訴えていたが、やがてそれも聞こえなくなった。
残されたのはアガリエと老人のみ。
老人はセイシュという。長く西の城を任されていた男だ。
イリと入れ替わるようにして王城に嘆願に訪れたものの、疫病や反乱により西の城に戻ることも叶わなくなり、紆余曲折を経て、今はアガリエの傍に仕えている。
とはいえその真意は定かではない。
王と月神女のように、地方の城にはその地の統治を王から任された城主と神女がいる。西で言えばセイシュとイリだ。このふたりが同時期に城を空けることなどあってはならないはずなのだが、イリが王城を出ると、まるでどこかでそれを見ていたかのようにこの老人は現れた。
王母にイリの無作法を詫び、あるいは嘆き、あれよあれよと言う間に取り入ったところからして、なかなか食えない老人であるとアガリエは判断している。
「そなた、どう思う? わたくしが王母を諫めるべきだと思うか?」
「民が苦しんでおるので、今すぐ宴を取りやめ、月神女の権力を振りかざしすのはおやめなさい、とでも直言なさいますか。大層お怒りになられましょうなあ。今や己が月神女であると信じて疑わぬようでございますし。さて、麗しの我が君は聞き及んでおられますでしょうか。今宵もまた、焚き火に枝をくべるようにして、刑が執行されておりますことを」
知っている。
ゼンの正体が神を騙った偽物であると公になり、彼が城を追われてからこちら、まるで日々こなすべき責務であるかのように行われる処刑。火炙りにされた者の断末魔は途絶えることなく、今や城下の広場という広場は煤に汚れ、骸が積み上げられている。
だからこそ夜空は炎に照らしだされ、星が薄れてしまっているのだ。
今夜だけではない。
もうずっと、星を読むことに慣れたアガリエでさえ、目を凝らしても見えない星がある。そこにはたしかに満天の星が広がっているはずなのに、見えないのだ。
「王母がわたくしを火炙りにするとでも言うつもりか」
「御意」
「そなたは……」
視界が揺らぐ。
突如として眩暈に襲われたアガリエは、口元を抑えようとしていた手が震えていることに気づいた。何事かと立ち上がろうとするセイシュを制し、その場に踏みとどまる。
月神女の肩書きを奪い、斎場の奥に幽閉してなお、王母はアガリエのことを放っておいてはくれない。
日々運ばれる食事に盛られている毒の量が、少しずつ、少しずつ増えてきている。体の不調は毒によるものだ。
セイシュの読みは甘い。我が子が王位に就くという天命を信じ、長年耐えてきた王母のこと、神に通じる力を持つアガリエを殺すほどの度胸はないだろう。
ゼンのことを邪魔だと感じながら、アガリエが彼は神ではないと公言するまで手を出さずにいたことからも、彼女が神への畏怖を忘れていないことは明らかだ。
ゆえに、こうしてアガリエを軟禁し、与える食事に毒を盛る。自然死ならば神も怒るまいと考えているのか。
王母自身は神女としての素養がない。己には見えず、感じることもできない偉大な力。だからこそ彼女は神を畏れている。それはいっそ健気なほどに。
眩暈が納まるのを待って、アガリエは部屋に下がった。
外から持ち込んだ手燭を文机に置く。ささやかな光源はあまりにも頼りなく、部屋の隅にさえ行き届かない。
けれどそれを補う火を持ち込む女官は、ここにはいない。外にいるのは監視の隊士だけだ。王母の命によりそのように決められている。
蝋燭が燃える音さえここでは大きく響く。
薄暗い闇の中、ひとりで書き物を進めていると、筆を置く頃、外から声がかかった。
火急の報せだという。このような夜更けに珍しい。
「西で謀反が起きたとの由。つきましては急ぎ参内するようにとの、カーヤカーナ様の仰せにございます」
月神女カーヤカーナの名を奪い、その権威を欲しいままにしておきながら、このような局面では軟禁中のアガリエに接触してくるあたり、王母の神経もなかなかに図太くなっている。
毒に侵される体では屋敷から出るのも億劫だが、致し方ない。
案内された広間には王母、そして王や宰相などがすでにそろっていた。セイシュの顔もある。
アガリエの入室を告げる声に、皆一斉に顔をあげ、視線を向ける。
口火を切ったのは王母だった。
「イリが謀反を起こしたぞ」
「聞き及んでおり…っ…」
飛んできた酒器が頬にあたり、傍らに落ちた。
確認せずともわかる。
王母が手にしていた酒器だ。中に入っていた酒が髪や衣を濡らし、強い芳香を放つが、不調をきたすアガリエの体には不快なものでしかなかった。
ぽたりと床に落ちる滴を、無感動な目で追う。
「そなた、神よりお告げを受けておったのであろう! かように重大なことを何故に王にお報せしなかった!」
「……これは可笑しなことを仰せになられます。当代でカーヤカーナと広く知れ渡るのは義母上ではございませぬか。神託を受けるとすれば、わたくしではなく義母上でごさいましょう」
王母は目を見張り、何事かを告げようとていたが、その唇が言葉を発するより先にアガリエは告げた。
「そもそも神託とはさほどに明確なものではございません。不意に神のお告げが脳裏を過ぎり、あるいは耳のすぐ傍で囁くように聞こえたりする、とても不確かなもの。イリが謀反を起こす、などという端的な言葉で報せてくれるのは、神ではなく、人であるのが常です。此度の謀反のことだけではありません。そのようなふるまいを続けていると、遠くないいつか、寝首をかかれるやもしれぬと、誰も義母上にお伝えしませんでしたか?」
王母の隣、上座の王を見やる。
まだ幼さが残るアガリエの異母弟は、視線が合うと力なく俯いた。どうやら今宵の王は影武者ではないようだ。
ならば話は早い。
アガリエは双眸を伏せ、再び視線を上げた。
「王のお耳には届いていたご様子。義母上、苦言を呈する者を排除し、周りをお身内で固め、甘言ばかりに耳を傾けているからこのような事態に陥るのです。……神にまで背いて、一体この国をどう導くおつもりだったのでしょうか」
「神に背く、だと? 何を言う。わたくしは神に背いたことなど」
「ゼン様を射殺せとお命じになったのは、義母上でございましょう」
「ふざけるでない!」
王母は傍らに置かれていた卓を力任せに倒す。残りの酒器が割れ、破片が床の上に飛び散った。
「あの者は神ではないと申したのは、そなたじゃ!」
「ええ。神ではなく、神がわたくしの願いを叶えるために遣わしてくださった尊い御方でございます」
「願いだと? そなたの願いはすでに叶ったではないか。あの日、そなたが受けた神託のとおり、我が君がこうして玉座におわすのだから」
重要なのはゼンが神の使者であるということで、願いの中身ではないのだが、王母は気づかない。
この女性は己の興味が最優先なのだ。
だから目先のことに囚われて、辿るべき道筋を誤る。
なんと幸せな人なのか。
不遇の時代を健気に耐えしのび、王位継承権第三位と少しばかり玉座から遠くにいた息子が、あれよあれよという間に王になった。
それは偶然の産物ではない。
王母とアガリエがこの十年余り尽力した賜物でもある。喜びは一塩であったに違いない。
誰が彼女を責められるだろう。
国の最高位に近い身分。己の一挙一側に敏感に反応し、へりくだる重鎮たち。財力は充分にある。望めば何でも手に入る。気に入らなければ切り捨ててしまえばいいのだ。代わりなど吐いて捨てるほどあるのだから。それが物であろうと、人であろうとも。
誰しも不愉快な思いをして暮らしたくはない。
アガリエとてそうだ。幼少期を過ごした牢のような部屋では二度と寝起きしたくはない。
そうだ。誰しも、そうなのだ。
己にとって都合が良いことばかりで周りを固め、できれば不都合な事実には目を背け、何事も起こらず、平穏であればよいと願う。
「畏れながら、人の手で叶えられるものを神に希うなど、愚か者のすることでございますよ。さて、方々に問いましょう。わたくしが耳にした情報によれば、西ではまだ多くの武人が生き延びているようです。加えてこの王都まで攻め入ろうというのですから、相応の兵糧を蓄えているに違いありません。この局面において誰を頭上に戴くべきか、今一度お考えいただきたいと存じます」
静観していた周囲の空気が変わる。
セイシュからの報告が確かであれば、ここにいるのは王母の血族がほとんどのようだ。
先頃、王位継承に際して起きた戦は、同時に第二王子の弔い合戦でもあったため、第二王子の後ろ盾であった家と手を組んだものの、王母が己の身内ばかりを徴用して政を行ったため、やがてそれを不服とした者たちと騒動となったのは記憶に新しい。今では完全に決裂している。
第二王子の同母妹であり、正統な月神女であるアガリエが軟禁に近い扱いを受けているにも関わらず、誰も表立って異を唱えないでいるのもまた、味方となるべき家の者が不足しているためだった。
それだけではない。王母は先王の妃や生家に厳しい責務を課し、玉座から遠ざけている。
特に元々敵対していた第四、第五王子の母妃への仕打ちは徹底していた。彼女は先王の死後、不義密通の咎で廃され、その王子たちの王位継承権も剝奪されている。
当然、彼女の生家は反論したが、王母の圧倒的な権力を前に屈し、取り潰されてしまった。
その隙間を埋めるようにして権力を得たのが、ここに座する面々だ。
王母の生家にまつわる者もいれば、どこの家の者とも知れない男がいつの間にか当然のように加わっている。後者に至っては王母の寵を得、取り立ててもらったのだという噂がある。遠目にも見目麗しいのがわかる。実際噂通りなのだろう。
彼らは下座のアガリエを見やり、そして玉座を振り返った。
広がる動揺と混乱。彼らとて王母の逆鱗に触れればただではすまない。
だからこそ今までご機嫌取りに徹し、己の利益ばかりを追い求めていたのだ。民がどうなろうとも、そうしていれば彼らは安泰だ。己の保身を守ることを愚かだとはアガリエも思わない。
だからこそ彼らに問いかける。
問う、その価値がある。
事は瞬きのその間にはじまり、終わった。
権力がなければ、彼女は驚くほどに非力だ。
圧倒的な力を前に成す術もなく王母は崩れ落ちる。床に広がる血だまりからして、すでに息がないであろうことは明白だった。
縁とは不思議なものだ。閨に呼び寄せた時、よもやその男の手で最期を迎えることになろうとは、王母も思ってはいなかっただろう。
男が手にしていたのは、装飾として王の傍らに置かれていた豪勢な刀だった。彼は王の御前で帯刀することは許されていない。かわりに装飾品を手に取ったのだろうが、抜き身の刀身にも複雑な装飾が施され、色鮮やかな玉が埋め込まれているような代物だ。王母の死因はおそらく刺殺ではなく撲殺になる。
にわかに周囲が騒々しくなる。
「痴れ者が! カーヤカーナ様にあれほど目をかけていただいておきながら、そのご恩に報いるどころか刃を突き立てるとは何事か!」
「いやだな、随分と寝惚けたことを仰せですね。カーヤカーナ様ならばそちらにおわすではございませんか」
男は刀についた血を薙ぎ払うと、アガリエの前に膝をつき、恭しく頭を垂れた。
「月神女を騙る不届き者は、このユクサが成敗いたしました。どうぞご安心めされよ」
「大儀であった。今後、わたくしの警護はそなたに一任しよう」
「しかと心得ました」
不要なものは切って捨てる、変わり身の早い男だ。
とはいえ目的が明確であり、それが権力や地位であるならば、アガリエとしては扱いやすいが。
まっすぐに前を見据える。
動かなくなった母の体を見つめていた王は、ぎこちない動作で視線をアガリエへ向けた。
「王よ。このような事態となり、まこと無念でございましょうが、ご理解いただけるものと存じます」
「……うむ。約束であったからな」
「ではお許しいただけますね」
「うむ。すべての権限を月神女カーヤカーナに一任する。皆、これより先はカーヤカーナに従うように。よいな」
御意、と頷くより他の選択肢は用意されていない。
こうしてアガリエは再び国の頂に昇りつめた。




