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カオティック・ダイアリー  作者: 相良徹生
第五章 私は知っている

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俺の頬に生暖かいものが流れた

 俺の頬に生暖かいものが流れた。

 涙か?

 目はナギに向けたまま、俺は頬を拭った。

 無意識に泣くなんて腹をぶち抜かれた時以来だ。

「きっかけは私が作ったヒト神経細胞を使用したバイオコンピュータね。もうこれしかない。私の最高傑作だったけど、残念ながらそれがなにかと理解された途端に私は軽蔑されてしまった。十三の団体と五つの宗教から私は訴えられたわ。たしかまだに判決が出ていないっけ。ちょっと惜しい気がするわ。さて、私はちょっとしたスキャンダルのおかげで八つの学会から除名され、援助金を打ち切られ、大学を追い出され、世論が強まるとスポンサーも全員手を引いた。バログ大学のコンピュータは火入れからたった三週間でシャットダウンされた。毎日全世界で何千人の兵が死んでいるというのに、彼らを生かすためにヒトの脳みそを使うことは許されなかったって訳。大学を辞めた私はすぐに軍に行ったのは知ってるわね。軍に移って不老処理技術の開発に参加したけど、結局表舞台には二度と出ることはできなくなってしまった」

 ナギが息を吐いて、低い声で続けた。

「もう二度とね」

「なぜだよ、ナギ」

「自由が正義に踏み潰されるのはいつだっていい気がしないものよ。まさに地獄に落ちろ、人類、ね」

 俺はナギの手を振り払って、彼女に向き直った。

 自分でもどうしようもないほど震えている。

「……あんたが仕込んだのか?」

「そうよ」

 ナギはぎこちない動きで、俺に顔を向けた。

「君はそれなりに賢い子供だと思っていたけどね。今説明したでしょう」

 俺は声を絞り出した。

「違う、なんだってこんなことができるんだ?」

 ナギはいつもの笑みを浮かべた。

「アイ。地球滅亡ボタンってわけよ。自分の目の前に全人類を殺せるボタンがあったらどうする? 自分がたくさんの命を左右できる力を持っていたとしたら……想像したことがないとは言わせないわ。押す誘惑には勝てないいでしょうね。たとえ、その全人類ってやつに自分が含まれていても。違うか皆さん」

 ナギは手を広げ、部屋を見渡してニヤリとした。

「死ぬなら……死ぬなら業火に焼かれて死んでみたい。二度死ぬのが許されるなら、お次は凍死がありがたい」

 ナギの呟きにゾッとする。

「あんたはくそったれだ」

 俺は後ずさりながら、吐き捨てるように言った。

「ああ、そうでしょうね。アイ。でも私はとても君が好きよ」

 ナギは唇を歪めて笑った。

 俺は猛烈な吐き気にふらふらとしながらクロタエに駆け寄った。

「顔が青いぞ。大丈夫か?」

 クロタエの低い声が今ではとてつもなく心地よく感じる。

 ああ、全然大丈夫じゃない。

 俺は呻きながらなんとか自分の足で立とうとしたがクロタエの手に阻まれた。

 クロタエが俺の体をしっかりと抱き寄せる。

 彼女の暖かさがありがたかった。

 俺はわけの分からない震えで膝から崩れ落ちそうになっていたのだ。

 ナギは目を細めて呟いた。

「悲劇的ね」

「だまれ」

 クロタエがぴしゃりと言い返す。

「お前は喜劇的だよ」

 クロタエはナギに向き直り、鼻を鳴らした。

「結局お前は誰にも相手にされなかった哀れな道化という訳だ。たった一人の拍手もなく舞台を降りるのが悔しくて、最後は観客共々地獄行きか。最高の喜劇だな。だが全員が、全員がお前のことなど綺麗さっぱり忘れるだろうよ。どこにも、政府のデータベータにも、お前のことは残らない。ただ、ワールドサイエンスの三月号にちょっとばかりのインタビューが残るだけだ。でも今やそれは燃え尽きようとしいてるんだっけ? 『全人類がお前のちっぽけな挫折に付き合わされる』ってやつだな、あの本の通りだ。どうした? 悪者は最後まで笑っているんだろう? 笑えよ。笑えよナギ」

 ナギが貴族めいた笑みを浮かべた。

 うっすらと、幸せそうに、自分以外の全てを見下した笑みだった。

「さぁ、人類諸君」

 ナギは歌うように言い放ち、手を広げて部屋を見渡すとニヤリと笑った。

「少々死んでもらうよ」

 ゆっくりと部屋の空気が冷たくなり、次の瞬間銃声が鳴り響いた。

 一発ではない、何度も何度も、全部で六発くらいだっただろうか。

 誰もが身を強張らせて息を止めた。

 視界の隅でゆっくりとナギが倒れていた。

 小さな赤い粒が宙を舞い、ぽつぽつとこちらに向かってくるのがはっきりと見える。

 全てがゆっくりと動き、くぐもった悲鳴が微かに聞こえた。

 俺も、クロタエも、シュゼも軍人たちも、なにが起こったのか理解できずにぽかんとそれを見守っていたが、誰かの悲鳴で全員が我に返った。

 ゆっくりと傾いていたナギの体が、突然猛烈な勢いで床に崩れ落ちる。

 顔に液体が降りかかり、俺は体をこわばらせてクロタエにすりよった。

 頬に生暖かい感触が伝う。

 涙かなにか知らないが、絶対拭いたくはない。

「お前のせいだ。すべてお前のせいだ。くそったれ」

 グリンの悲鳴に近い怒声が響き渡った。

「ナギ!」

 叫んで駆け出そうとしたが、クロタエの手に阻まれた。

「離せクロタエ!」

 クロタエの視線はじっと倒れたナギに向いている。

 彼女の瞳からは感情が読み取れない。

 シュゼがナギに駆け寄り傷口を見て顔をゆがめた。

 俺が駆け寄ろうとすると、シュゼは頭を振って俺を睨みつけた。

「来るな」

 のどの奥から搾り出したよう低い声ではっきりと言った。

「ちくしょう。お前もか? シュゼ。お前もこの計画に関わっていたのか?」

 銃口を倒れたナギに向けたままグリンが怒鳴った。

「……グリン。お前は狂っている」

 シュゼが吐き捨てるように言った。

「ナギを殺してもなんにもならなかった。クソッタレはお前だ、ちくしょう!」

「悪意だよ。お前らはこの女の悪意が見えていないのか? 国家の敵、人類の敵、おまえら――」

 血にまみれた指をグリンに突きつけ、シュゼが遮った。

「お前は最悪の状況で最悪の選択をしたんだ。サイラス・グリン! もうどうやっても良くならないぞ、俺たちが層倒れだ!」

 グリンは憎悪に瞳を輝かせ銃口をシュゼに向けた。

「シュゼ!」

 叫ぶより先に体が動き、俺はシュゼに向かって走り出していた。

 視界の隅で、グリンの銃口が俺にぴったりと向けられるのが見える。

 次の瞬間、足下に衝撃が走り、俺は床に吹っ飛ばされていた。視界が真っ黒になり意識がかすれていく。

 一発、二発、銃声とうめき声、罵声が響いた。

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