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カオティック・ダイアリー  作者: 相良徹生
第五章 私は知っている

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私は真っ白な部屋にいた

十一月 十九日



 私は真っ白な部屋にいた。まぶしくて床と壁の境見分けられない。

 床がひどく冷たく、足がじんじんと痛んだ。

 すぐそばに寝ている女の髪だけが、床にインクを垂らしたかのようにはっきりと浮かび上がっている。

「……」

 女がつぶやいた。ここからでは聞こえない。

「なんて?」

 私は女に向かって一歩踏み出した。「あなたは――――」そして目が覚めた。



 見慣れない感触にハッとして体を強張らせる。巨大なベッドの上。

 そうだ、ここは私は家だ。少なくとも法律上は。

 シャワーを浴びてアルベロ・ロッソの――マシロ曰く趣味のいい時の私が買った――麻のシャツに着替えると、少しは人間らしい気分になった。ともかく、これからどういった行動をとるか決めないと……自分の家だからってこのままここにいることはできない。

 私は髪も乾かさずに一階へ降りた。

 マシロはいつも通りどこからか見つけ出したコーヒー豆で苦々しい液体をマクベスに出てくる魔女も真っ青な慎重さで抽出していた。

「それで、今日の予定は?」

 猛烈な勢いでパンケーキ四枚とプラムとマッシュポテト、焼きトマト、ビーンズ、スコーン三つ、熱々のベーコンエッグ食べ終えると、マシロは口を開いた。

 私は申し訳ない気持ちで自分の皿に残ったパンケーキを見下ろした。マシロは料理上手だったが、少女と食事するとすぐに胸がつまりこれ以上食べられなくなってしまう。

「アルベロ・ロッソ」

 私は細切れになったパンケーキをつつくのを止めてマシロを見上げた。

「あなたは自分の家にたどり着いた。あなたが行方不明ってことは警察が把握している。どうする? 警察に連絡して終わり?」

 確かに、ここで終わりだ。『私は誰か』という問題はこの家にある情報ですべてカタがつくだろう。私が望んでいたのはこれのはずだ。だが、遠くから誰かの声が聞こえる。

 おいおい、冗談じゃない。まだまだこれからだ、と。だがこれ以上どうしろと?

 嫌な考えを振り振り払おうとマグカップの液体を口に含み――危うく噴出しそうになった。

 なんだこれは! 苦すぎる。

「ちょっと、それわたしのコーヒーよ。待ってて……今紅茶をいれるから」

 自分でやる……言いかけた次の瞬間、目の前でマシロが紅茶をたっぷりいれたマグを差し出していた。

「――え?」

 私は混乱した頭のまま慌てて辺りを見渡した。

 眠っていた? まさか。意識が飛んだ? 食べかけのパンケーキ、まだ湯気をたてているベーコン。『一瞬』前とまったく周りは変わっていない。私はどのくらい気を失っていたのだろうか。

 マシロがマグを差し出したまま不思議そうに私を見つめていた。

「……今、私は寝ていましたか?」

「いいえ」

 マシロはつぶやくように言うと、紅茶に視線を落とした。

 私は熱々のマグを手繰り寄せて、ミルクをたっぷりと注いだ。まだまだ、か。


「残っている部屋は?」

 私は積み上げられたタイヤに腰掛けて手を上げた。

 そろそろ自分が豪邸に住む俗物野郎だという現実を直視するのがつらくなってきた。

 朝食後、私達は二階の部屋すべてとガレージを探索したが、ぴかぴかに磨き上げられた家具と高級車を三台を発見しただけだった。

「あとは……屋根裏と地下室と、庭に物置があると思う?」

「さあね」

 私はなめらかな車の曲線を撫で上げた。

「少なくとも地下室はあるわよ」

「え?」

 間の抜けた声と顔で私はマシロを見返した。

「朝食を作ってる時に気付いたの。今日のパンケーキにつけた手作りジャム、地下貯蔵庫にあったものだから」

「手作り?」

「でしょうね。すごくいっぱいあったし」

「記憶喪失前の、つまり前マシロ記の私。モダンな家に住みスーパーカーを乗り回すアルベロ・ロッソの地下室に手作りジャム? まさか私が作ったんじゃないでしょうね」

「あなた自分じゃ気付いていないと思うけど……」

 マシロが眉を上げて、芝居がかった仕草で手を上げた。

「結構マッチョよね」

 キッチンの横の貯蔵庫にそれはあった。美しいペルシャ織りのカーぺットを捲ると、大理石の床に合板でできた入り口が現れたのだ。

 私はマシロの横でぽかんと口を開けているのを止めて、男らしく嫌な音を立ててきしむ階段を下りるとじっと目を凝らした。

「どうやって見つけたのですか?」

 視界の隅でマシロがこれだから男ってとでも言うように肩をすくめた。

「金持ちの家の庭にはプールがある。書斎には葉巻保管箱が。プレイルームにはバーカウンター……そして、地下には貯蔵庫かワインセラーがある」

 階段を降りきって辺りを見渡すが、入り口からの光しか届いておらずなにも見えない。

「右手の壁に照明のスイッチがあったわよ!」

 マシロが上から叫んだ。

「君はこんな場所に入り込んだのですか?」

「ええ。気味悪いからすぐ出たけど」

 確かに気味が悪い。

 静まり返った部屋中の空気は粘度を持っているかのように体にぴたりと張り付いて、妙に重く感じる。

 やれやれ、地下にはモダンな空調と照明設備をケチったらしい。

 私は手探りでスイッチを見つけるとそれを押し、そして絶句した。照らされた部屋はまさしく――ジャム庫だった。壁一面の棚にビンがみっしりと並んでいる。

 ざっと何千瓶。色とりどりのビンがちらちらと揺れる裸の電球の光にあたりキラキラと反射している。

「ワオ」

「ワオ」

 いつの間にか降りてきたマシロが私の口調を真似てニヤリとした。

「私の秘密の副業はジャム屋だったようですね。数百種類はありますよ」

 私は床に置かれた木箱を踏み台にして、一番上の段を覗き込んだ。

 何年もそこにあるように埃をかぶっている。

 これを売ってこの家を買ったのか? それにしてもこの量は……。

「繁盛していなかったようですね」

 私は昼食用にいくつか引っ張り出した。

 緑、黄色、オレンジ、紫、赤……世界中のすべての色がここに集まっているかのようだ。どうせ食べるなら、一番古いやつがいい。

 一番奥のものを手探りで掴むと、思ったより軽かった。

 空だ。

 いや違う、引っ張り出して覗き込むと瓶にはたっぷりとジャムが入っていた。ビンの内側にジャムの画像を印刷した紙を筒状にして入れてあるのだ。

 この薄暗い部屋では一見周りと同じジャムの瓶詰めとしか見えない。

 蓋をこじ開けると、黄色のカードが出てきた。

 なんの変哲もない薄いカードの中心に赤い丸のボタンがある。

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