ルアンはぐったりと
十一月二十日
ルアンはぐったりとした足取りで部屋に滑り込み、全体重をかけてドアを閉めた。
この二日間、シャワーと着替えのために帰っただけで家には五時間も過ごしていない。最近は、広めのペントハウスを借りたのを後悔していた。
猛烈な激務だからこそ居心地のよさそうな広めの部屋を借りたのだが、家にめったに帰らないのでは意味がない。
ルアンはいつも通りしおれかけた観葉植物を眺め、悪態をついた。着々と枯れつつある植物を見るたびに母の顔が思い出し、罪悪感が呼び起こされる。
やはり母にはもう植物を送ってこないように言わないと。
まぁ聞くとは思えないが。
ルアンはふと足元の枯れた植木についた微かな水滴に気付いた。
――水?
この植木鉢に最後に水をやったのはいつだっけ……次の瞬間、全身の力が抜けルアンは闇の中に落ちていった。
寒い。
ひんやりとした固い床の感触は心地よいが手足は凍りそうだ。遠くで誰かの声が聞こえた。
「おい、ルアン! ルアン!」
はっきりと聞こえた男の声でルアンは我に返った。
もがくが、力が入らない。
「ルアン! 力を抜け!」
力が入らないのに、抜ける訳ないでしょう。
「目をゆっくり開けろ。もう開くはずだ」
急に男の声が優しくなった。
暖かく大きな手が頬に触れている。
「開かない……」
ルアンは呻いた。
「力を抜いて。君は自分でギュッと目を閉じている。ほら、一、二、三……」
ゆっくりと目を開くと、ぼやけた男の顔と真っ黒な瞳と目があった。
……誰だ?
「落ち着いたか? 気分はいい?」
――シュゼ。驚きで息がつまる。
「おっと暴れるなって。危ないよ」
シュゼはさっと手を上げると慎重にフィセと距離を取った。
ルアンは手首に巻かれたプラスチックのチューブロープに気付きギョッとした。端はまっすぐ伸びて、開けっ放しにされたトイレの配管に繋がっている。
チューブは特殊な周波のレーザーでないと焼き切れないもので、主に警察で使われているヒト拘束用の特別なものだった。体中に怒りが満ちるのがわかる。
「あなた、なんで……」
ルアンは歯を食いしばって言うと、シュゼは肩をすくめた。
「おい、まだ立ち上がらない方がいい」
ルアンはシュゼを無視をしてさっさと立ち上がった。一瞬めまいがしたが、すぐに持ち直す。
シュゼはその様子をじっと見ていた。
「なんのつもり?」
ルアンは慎重に壁伝いに移動して、シュゼと距離を取った。
「悪いが麻酔銃を使わせてもらった。気を失っていたのは約一分。当然だが無害だ」
ルアンは悪態を飲み込んだ。
警察が使用する解毒プラントも無視する特殊な筋弛緩剤だろう。
ルアンは心の中で十秒数えてから顔を上げた。
犯罪者に対しては堂々としなくては。
「死んだはずだと思っていたけど」
ルアンは精一杯の皮肉をこめて呟いた。
シュゼは笑っている。
「僕の遺体を見た時の君らの反応が見ててみたかったな。水槽は蹴り飛ばした?」
そう、ルアンはシュゼの遺体を蹴り飛ばしそうになった。
正確には鑑識と調査が終わった後のシュゼのGPS生体発信インプラント維持装置の横にあった観葉植物の自動水やり器を蹴り飛ばした。
部屋はひどい有様だった。
嵐で折れた木で割れた窓から入り込んだ雨と葉、倒れた家具、機材、すべてが雨でずっしりと濡れ、丁寧に手入れされていた観葉植物は倒れてぐちゃぐちゃだった。
なにより水槽から外れたチューブからの『出血』で床一面の血の海だったのだ。
シュゼのGPS生体発信インプラントはビニールチューブを延々と巡回する血液の中に浮かんでいた。ぐるぐる同じ場所を回っている血液内にあるだけで、我々はすっかり騙されたという訳だ。
窓が割れ、そこからの風でチューブが外れて血流が止まったため、生体反応監視装置がシュゼの心肺は停止したとの信号を発信をしてきたのだ。
「あの装置はあなたが考えたの?」
ルアンはゆっくりと移動しながら通信端末を探った。
入り口近くに落ちた鞄の中にあるが、チューブに繋がれていては届きそうにない。
もう少し時間稼ぎをしなければ。
ルアンはネゴシエーターの基礎実習を思い出した。
「背中にあるインプラントをどうやって取り出したの?」
シュゼはにっこりと笑い、右手を握る動作をした。
ふいに浮かんだ考えにルアンはゾッとした。
天井から垂れ下がる遠隔手術用ロボットがメスを握り、ゆっくりとシュゼの背中を切り裂く場面だ。
「……自分でやったって訳ね」
「学生時代にもっと真面目に縫合の練習をしておくべきだと後悔したよ。自分がベーコンしか縫った事がない落ちこぼれだと忘れていた」
シュゼは服をめくって背中を見せた。
ルアンは言葉もなく傷跡を見つめた。
脊髄にそって止血用テープが貼られ、真っ白のシャツには転々と血の跡がついている。
「告白モードになっているからついでに白状すると、この部屋を封鎖させてもらった。電波をすべて妨害している。悪いが助けを呼ぶのは少しだけ待ってくれ」
「あなたって特技が多いのね」
ルアンは歯を食いしばって言った。
「でも医者としての腕と男としての役目は二流だ。そのテープから抜け出そうと思わないでくれ。僕は手首の接着はできないし、水漏れを直す自信もない。それに君にとっても自分の家が下水まみれになるのは、腕がちぎれるのと同じくらい好ましくない状況のはずだ」
シュゼはニヤリとしながら一息で言うと、椅子を引っ張り出して疲れた様子で腰を落とした。心なしか顔色が悪い。
ルアンはさらに顔を見ようと身動きするとシュゼは顔を上げてにっこりと笑った。逃亡犯とは思えない笑顔だ。
「今日は金を借りにきた」
シュゼが唐突に口を開いた。
「逃亡資金って奴がなくてね。いくらか貸してくれ」
冗談じゃない。
「強盗に転職したのね」
「その通り。現金の手持ちがなくて、そろそろ犯罪者の心理状態がわかりつつある危険な状態だ。クレジットカードってやつは逃亡犯にとって最高の相棒とは言いがたいしね。ついでになにか食べるものが欲しい」
シュゼは皮肉っぽい笑顔を見せると話は終わりとばかりに立ち上がり、冷蔵庫を漁り始めた。ルアンは急に居心地が悪くなった。
冷蔵庫にはなにもないのだ。
ビールとだいぶ古いチーズと……後はなんだっけ?
ともかく、最近冷蔵庫を開けた記憶がほとんどない。
「なにもないな。見事な空だ」
シュゼのつぶやきに頬が熱くなる。
「うーん、ビールしかない。冷凍室も空だなんて感動的だな」
シュゼは面白そうに言ってビールを何本か手に取ると戸棚を次々と開け始め、ついにビスケットを見つけ出した。
それは母が二年前のルアンの誕生日に焼いた物だったが、それを指摘する気は一切なかった。
「君もどう?」
ルアンは首を振った。
「じゃ、僕は失礼して食べさせてもらう」
シュゼがビールをゴロゴロと転がしてルアンに渡した。
自分が拘束されている時にはもっと強い酒が必要だ。
ルアンはビスケットが猛烈に痛んでいる事を願った。
「失礼だけど、このビスケットは妙な味がする」
シュゼがもくもくと食べながら言った。
「母が復活祭に作ったものよ」
二年前のだけど。
「いや、違った。滅茶滅茶うまいよ」
シュゼはさら旺盛な食欲をみせた。ビールをうまそうに飲み椅子に座り直すとシュゼはおもむろに言った。
まるでこの前両親に電話したのはいつ? と言うかのように。
「フィセ・イズリントンに会った?」
ルアンは体中の力が抜けていくのを感じた。
フィセ・イズリントンに接触した偽捜査官――。
「あなたね」
ルアンのつぶやきにノッテ・バンビーニは眉を上げ真っ黒な瞳を輝かせた。
「なんのことやら」
それが答えだった。
「アルベロ・ロッソにも会ったかな?」




