ひどい嵐だ
十一月十七日
ひどい嵐だ。
横殴りの雨が叩きつけ、全身をぐっしょりと重くする。
空港からフィセの家まではすぐだったが、雨の中では永遠に感じた。
ルアンとベイスは疲れを振り切ってフィセのアパートを見上げた。
この街ではよく見られる戦後に立てられた戦前風デザインの集合住宅だ。
隣でベイスが腕時計をさして見せた。
今は午前四時。だが、彼女の部屋である四○七号室の窓からは灯りと共に人影が動いているのを見える。
ルアンは機内で取り寄せたフィセのデータを頭の中でめくった。
ロッソとはシェルターで知り合い、学生時代に関係のあった多くの女性の一人だ。
ロッソとは五年前に別れている。大学では生物を専攻し、卒業後は医学部に進んでいる。
スタンモアラボの上級研究員であり、午後十一時まで働いて午前四時まで起きている仕事中毒の独身女。
ルアンは彼女に多大の親近感を持った。
「行きましょう」
ルアンとベイスは降り注ぐ雨を避けてロビーまでたどり着くと、四階まで進んだ。
フィセの部屋の前でベイスがもう一度時計を指差した。
「今尋ねるのも今日午前十時に尋ねるのも、彼女の睡眠時間にとっては同じでしょう」
ルアンはインターホンを強く押した。
一瞬の静寂。
もう一度インターホンを鳴らすと、扉の置くからなにかが崩れ落ちる音と悪態が聞こえた。
「どなたでしょう」
インターホンから、不機嫌そうな声が響く。
「捜査官です」
ルアンはカメラに向かってIDカードをかざした。
次の瞬間扉が勢いよく開き、乱れた髪の女性が飛び出した。
真っ青な顔に鮮やかな緑色の瞳だけが、爛々と輝いている。
ルアンが口を開く前に、フィセが悲鳴に近い声をあげた。
「なにかあったんですね?」
「どうしました?」
ベイスの低い声で三人は我に返った。フィセは息を飲み、こめかみを揉んだ。
「失礼しました。ええと、どうぞ入ってください」
彼女の部屋は収納能力を大幅にオーバーした本のせいで雑然としていた。ルアンは彼女の目の下のクマに気付いた。
アルベロ・ロッソが今まで付き合った数多くの女性と比べると、どうしても華やかさに欠ける。背が高く、すらりとしているがスリムというより働きすぎでやつれているようだ。
薄い紅茶色のブロンドはエレガントだが実利主義の美容師によってシンプルにまとめられ色気に欠ける。だが、緑色の瞳には確かな知性の光があった。
「どうぞ空いているところに座ってください。コーヒーでも飲みます?」
ルアンとベイスはコーヒーメーカーの中で煮詰まっているどろどろの液体を一瞥した。
午前四時に煮えたぎっているということは、もう何時間もあのままなのだろう。
「お構いなく」
二人同時にきっぱりと言った。
フィセは自分だけマグにたっぷりとコーヒーをいれると、雑誌が詰まれたソファーに腰掛けた。
三人とも席に着くとルアンは早々と切り出した。
「アルベロ・ロッソの事で、少しお話を聞かせてもらいにきました」
フィセが息を飲んだ。瞳の色が濃くなり、顔から血の気がなくなっていく。
「彼がどうかしたんですか?」
「あなたは昨日の二十時にアルベロ・ロッソのDNA参照を行いましたね? 業務時間外だったようですが」
「ええ……その……」
ルアンは手を振って答えた。
「あなたがあの施設で何をしようと、私達には関係ありません。我々が興味があるのは、あなたがアルベロ・ロッソのDNAをどこで入手したか、というだけです」
「彼に会ったんです」
フィセは当然のようにはっきりと答えた。
ビンゴ。
ルアンは身を乗り出した。
「彼に会ったのはいつですか?」
「三日前。それと電話がありました」
「いつ?」
「今さっきです」
フィセとベイスは顔を上げた。
ベイスはロッソが宿泊しているホテルの名前をメモするとすぐに部屋を出ていった。
「なにかあったんですね?」
「アルベロ・ロッソは行方不明者として捜索中の人物です」
一瞬の沈黙。
「ええ、ええ……」
マグを持つ手が微かに震えだした。
「ロッソと会った時の事を話してくれますね? 場所はどこですか?」
ルアンは息を飲みゆっくりと吐き出すように話し始めた。
「スタンモアのカフェです。三日前の一時頃、彼とよく似た男を見たんです」
いいぞ! 近い!
フィセの通信端末が鳴り響いた。
キッチンの方でベイスの着信音も聞こえる。ベイスが部屋の入り口から顔を出して自分が出ると合図した。
フィセは軽く頷いて視線をフィセに戻した。
「失礼しました。続けてください」
「最初、アルはわたしの事を全く知らないようでした。全くです。わたしは人を間違えたと思って、すぐに立ち去ろうとしました。でも彼は追ってきました。そして言ったんです。『私は記憶喪失になっている』と」
今度はルアン達が息を飲む番だった。
「記憶喪失?」
フィセはマグをじっと見つめながら頷いた。
「嘘をついているようにも思えませんでした。言っている事も支離滅裂でとても動揺しているようでした」
「続きをどうぞ」
「なにかあったと……彼がなにかの事件に巻き込まれたと思ったんです。わたしは彼の血液検査を行い、連合犯罪者データベースに彼のDNAが登録されていないか調べました。結局なにもなかったのですが、その七時間後あなた方が来た」
「血液検査の結果は?」
「まとめてあります」
フィセは薄い報告書を差し出した。ルアンは頷いて受け取った。
「これはついさっき届いた精密検査の結果です。あなた方が来てくれてよかった。警察に届けようと思っていたんです。アルはインプラント停止剤が投与されています。これは主に手術用に使われる停止剤で、これによって体内のインプラントが停止して、それを追うようにナノマシンも停止します」
フィセはルアンがこの意味を理解するように、息をつきコーヒーを一口飲んだ。
ルアンはめまぐるしく脳細胞を回転させた。
フィセ・イズリントンの報告書が正しければ、ロッソの生体反応が消えたのにも説明がつく。インプラント停止剤によってGPS生体発信インプラント事態が機能停止したのだ。
「続けてください」
「続けてアトピンが投与されました。医療用に使われる麻酔薬の一種です。ですが、これはすぐにかなり古い型の医療用ナノマシンと思われるものに分解されています。彼のナノマシンのいくつかは停止しなかったようですね」
ルアンは検査結果をすばやく読み込んだ。部屋の中は豪雨の音だけが響いている。ルアンの沈黙をフィセは理解していないと感じたようだ。
「ナノマシンの医療利用が始まったのは二十年ほどの前ですが、一般に広まったのはつい最近です。法律が制定されて、製薬会社が統一規格を作り統括インプラントが登場したのが十年前。彼の体内には三種のインプラント規格外の独立型長期循環型ナノマシンがあったようです。型が戦中の物のようで資料が見つかりませんでした」
フィセは頷いた。それはロッソの医療記録で確認済みだ。
確かにアルベロ・ロッソはいくつかのナノマシンを体内に入れていた。その多くは戦中から入れていたもので、資料がなく誰もその正体がわからない。民間用に販売されていない、というより承認が取れていない実験段階のものも入っているはずだ。
「それでも大量のアトピンを完全に除去するのは無理だったようです。これはわたしの推測ですが、彼の記憶喪失は薬物の過剰摂取によるものでしょう」
ルアンは一旦息をつくと、下を向いたまま続けた。
「この薬物は型を見る限り麻酔薬のようですが、もしかしたら……」
ちくしょう。
フィセのほのめかしに、ルアンは内心毒づいた。
フィセの報告書にははっきりとロッソに投与された薬物の成分表が載っていた。
自白剤だ。
軍用に開発された幻覚剤で、人間の記憶野に作用すると言われているものだ。
まだ実験段階だが、現代の『真実の血清』って訳だ。軍事機密の新薬が手に入れられる人間――犯人は軍人か研究者だ。ありがたい事に捜査範囲は狭まった。
悪い方向に。
ルアンはクソを踏んだ気がした。
どうも事態は急速に笑えない方向に向かいつつあるようだ。
ベイスが真っ青な顔をしてリビングに入ってきた。目でルアンを呼んでいる。
ルアンはフィセにことわってベイスと部屋を出た。
「どうしました?」
「シュゼ博士が死亡した」
ベイスが低い声でつぶやく。
ルアンは膝から崩れ落ちそうになるのを精一杯堪えた。真っ黒な空洞がぽっかりと足元にあいた気分だった。
「一時間前に心肺停止信号があった。場所は彼の自宅。今職員が彼の家に向かっている」
ルアンは震えを押し殺して頷いた。
「もう一つニュースがある。ロッソが滞在していたホテルで殺人事件が起きた」
シュゼの死、ロッソの出現。ちくしょう、物事は一つずつだ!
まずはフィセを片付けなくては。
ルアンは部屋へ向かい、フィセに頷いた。彼女はなにか期待する目つきでルアンを探っている。ルアンは首を振った。
「申し訳ありませんが今日は失礼させていただきます。明日……今日改めて伺います。ロッソの試料と検査結果を見せてください。この報告書は頂いてよろしいですね?」
「ええ、でも報告書と資料一式は昨日お渡ししたはずです」
フィセの言葉はどこか遠いところから聞こえてくるようだった。なんだって? 彼女はなんて言った?
「なんだって?」
先に我に返ったのはベイスだった。
「私どもがあなたに会ったのは今日が初めてですが」ルアンはなんとか言葉をひねり出した。
フィセは傍目にもわかる程震えだした。
「昨日、あなたがたと同じ事を聞きに来た男性がいました……。アルベロ・ロッソの行方不明事件を捜査している……捜査官だと名乗って……」
ルアンとベイスは息を飲んで目配せした。
「詳しくお話しください」
「ノッテ・バンビーニと名乗っていました」
ルアンは歯を食いしばった。どうやら、まだ続きがあるようだった。




