クロタエから離れると
クロタエから離れると、俺もただのガキになっていた。
有り難いことに誰からも注目されない。
俺はホッとしてあたりを見渡した。部屋の中央の机の上にはキラキラと輝く見たこともない料理が並んでいる。
帰る前に珍しい食べ物を一切合切腹に溜め込んでもいいはずだ。
トレイにのっている料理を探索しようと一歩踏み出した瞬間、目の前の少女のバッグから青いハンカチがこぼれ落ちた。
「ちょっとあんた。落としたよ」
少女はギョッとして振り返ると、両手にグラスを持ったまま俺を睨んだ。
「ハ、ン、カ、チ」
俺がイライラと顎で示すと、今度は床に落ちたハンカチをじっと睨んだ。
「両手がふさがってるのよ。拾ってくださらない?」
俺は口を開きかけ――自分で拾えよクソガキ――閉じた。
大人気ない。相手はガキだ。
俺はしぶしぶハンカチを拾い上げ、少女に差し出した。
「ねえ、これ持ってて」
右手のグラスを俺に押し付けてから少女はハンカチを受け取った。
「ありがとう」
少女がにっこりと笑った。俺は危うくグラスを落としそうになった。
人から礼を言われたのは久しぶりのような気がする。
「綺麗な瞳の色ね。空みたいに真っ青」
エッジウェア社製の遮光用虹彩人工色素ナノマシン『ロマンチック・オールド・スカイ』だぜ。俺は心の中でつぶやいた。
日光のまぶしさを緩和するために、クロタエ達が俺にぶち込んだナノマシンの一つだ。視界はマシになったが、この気障ったらしい青い瞳の色は気に入ってなかった。
俺は肩をすくめて香ばしい匂いの元を探る作業を再開した。
「あなたは誰といらしたの?」
少女の言葉に俺はギョッとして身を強張らせた。
礼儀として少々世間話をするべきなのか? そこら辺の常識はさっぱりわからない。まあ、いい。腹をくくれ! 今日はサービスしてもいい日だ。
この女はなんて言ったっけ? そうそう、誰といらしたの? だ。まったくどこの貴族だ。
「わたしは両親とよ。ほら、あのカウンターの前にいる軍服を着た黒髪がパパ。その横にいるブロンドがわたしのママ」
俺は少女が指した方をなげやりに見た。
ブロンド女を連れた黒髪の軍人はそこらじゅうにいた。
俺はわかったふりをして頷いた。
「俺は母親といらした」
「どなた?」
「あの柱の横にいる黒いドレスを着たおん……女性。アウリーノってやつの横にいる」
俺はもう少し語彙を増やそうと誓った。
「スノーマ博士しかいないわ」
「そう。それが俺の母親」
「スノーマ博士にお子さんはいないはずよ」
「残念。俺がいる」
書類上では。
「正真正銘の血の繋がった親子だ」
これは嘘。
少女は驚いて俺をまじまじと見つめた。
お陰で俺も少女をじっくりと見ることができた。
血管が透けて見える程なめらかなクリーム色の肌。真っ黒な髪と同じ色の瞳には重たそうなまつげがかかっている。髪を赤いリボンと共に複雑怪奇な方法で編みこんで後ろで束ねて、クリーム色に細かい刺繍の入ったドレスを着ていた。
お人形だな、俺はつぶやいた。
クリームとリボンとフリルに埋もれて育った貴族のお人形だ。
真っ黒なふたつの目で見られると自分が原始人になった気がする。
俺は目を伏せると、少女のピカピカの靴が目に入った。頭飾りと同じ色のリボン飾りが付いている。
「どこの貴族だ」
「ごめんなさい、なんて?」
「いや、なんでも」
少女はにっこりと微笑んだ。なるほど、これが貴族的微笑ってやつか。
俺は落ち着かない気分であたりを見渡した。そろそろ逃げ出す頃合だ。
「歳はいくつ? わたしは十三歳よ」
俺は呻いた。
シュゼの見立てを信じれば俺より年上じゃねえか。このお人形が、俺より年上だって? 世の中どうなってんだ?
「俺は十四」
俺はシュゼの科学的見地を無視する事に決めた。
「どこに住んでいるの?」
「ロッドフォード」
正確には人工内耳の手術のために三十五時間住む予定だ。
これもシュゼとクロタエの野望の一つだった。俺の左耳は致命的な損傷で聞こえていないらしい。自分では全く気付いていなかったが、聡い連中はいち早くかぎつけて俺に手術を勧めたのだ。
「わたしもよ。七番街に住んでるの」
俺は我に返った、悪態を飲み込んで偶然だねといった微笑を浮かべた。
「学校はどこ? わたしは……セントジャイル校なんだけど。もしかしたらベクトン校? やっぱり博士の母校に通っているの?」
あの女に小学生時代があったなんて想像もできない。ともかく、この少女と学校の噂話をする気はなかった。
俺はいつも通り嘘をついた。
「通信教育を受けている」
正確には来年から受ける予定。
しかもまだ合格点の半分しか取れていない。
「あなた本当にスノーマ博士の息子さんなの?」
少女は怪訝そうに俺を見てから、そわそわとウエストのリボンを気にしだした。
俺は急に自分が豚野郎になった気分になった。
こんな子供に適当な作り話をしている豚野郎。そう俺のことだ。
俺は元々大して持っていない自尊心をさっさ投げ出した。
「白状すると俺はスノーマ博士の実の子じゃないし、ロッドフォードにも住んでいない」
少女は居心地が悪そうに頷いた。俺は息を吐いてグラスを飲み干した。
「なぁ、なんで俺がクロタエの子供じゃないって気付いたんだ? 俺があの女の遺伝子のかけらも持っていない馬鹿に思ったから?」
「違うわよ。黒髪は優性遺伝って知っていただけ」
俺は言葉に詰まった。
優性遺伝! 黒い髪の女は金髪の子供を産まない……。
「確かに」
耳が熱くなるのを感じる。どうやら俺は正真正銘の原始人らしい。
「もう行かなきゃ、ハンカチを拾ってくれてありがとう」
少女はほとんど空になった俺のグラスをちらりと見た。
「そのグラスはあなたがどうぞ」
「どういたしまして。俺の無学を指摘してくれて」
「そんな事気にしないわ」
少女は妙に大人びた笑みを浮かべて俺の顔を近づけた。俺は落ち着かない気分になった。
「またね」
俺は少女の後姿をぼんやりと眺めながら、自分を罵っていた。
一瞬、家に帰ったら語学以外の勉強もしようと考えてしまったのだ。




