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カオティック・ダイアリー  作者: 相良徹生
第三章 赤毛はお人好し

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信じられない! この成績を見ろ!

五月四日



「信じられない! この成績を見ろ!」

 夕暮れ時の薄暗い部屋にクロタエの叫びが響いた。

「数学、歴史、化学がまるっきりだめ! 完璧なのは語学だけだ!」

 クロタエは世にも汚らわしい物体のように答案用紙を放り投げた。

 真っ白な解答用紙がパラパラと舞い上がる。

 俺は大して気にもしないで、足元に散らばった解答用紙を蹴り上げた。クロタエ、シュゼ、ナギの興味は俺に勉強を仕込む事に向いたらしく、クソありがたい事に俺を通信の学校に通わせることを至上の命題として掲げている。

 そして、俺の方は数学も歴史もこれっぽっちもやる気がない。歴史にいたっては人生の無駄の一言だ。つまり、通信教育の入試模擬テストの結果は散々って事だ。

「合格点の半分も取れていない!」

「それが人生」

 俺が肩をすくめるとクロタエは頭を抱え込んだ。

「学生時代に数学でB評価をもらったのを電話で母に伝えたのを思い出した。惨めだった……」

 クロタエはぶつぶつとつぶやきながら床を転がっている。

「お前、パン職人になりたいなら、男性詞よりも大事なものがあるんじゃないのか? 答えは辞書に書いてあるじゃないか……。パンを作るのになにが必要かわからないけど、発酵学とか、バケット学とか、イースト学とか覚える事はいっぱいあるぞ」

 クロタエは俺がパン職人になりたいと本気で思っているのだろうか。

 数日前に、パン屋で働けばパンを食べ放題とかなんとか口走ってから、彼女はなにかを勘違いしている。

 クロタエは転がり続け部屋の隅にある箱の大群にぶち当たると、箱を見上げてハッと息を飲んだ。嫌な予感がする。

 クロタエは俺が逃げ出す前に天井に向かってつぶやいた。

「アイ。この箱を開けてくれ」

 この女がこんなふうに話題を変える時は身構えるべきだ。

「なんだって?」

 俺は慎重に答えた。

 クロタエは俺が従わなくても従っても全く構わない、という顔でニヤついている。

 くそっ、こういった人間には従った方がいいのだ。

 言うことを聞くのをしぶっても、相手を喜ばすだけだ。人が嫌がるのを見て喜ぶ悪癖を持った人間がいるということはスラムの生活で身にしみている。

 俺はしぶしぶ座り込んで、上にあった箱を取り上げた。つるつるとした箱に黒と茶の光沢のあるリボンが結ばれている。

「……カシュオーノ?」

 俺はリボンに刺繍された文字を口にした。

「カシュオー・ルマーニ」

 相変わらず無関心を装ったクロタエがつぶやいた。

 なんだよそれ。

 包みを解くと光沢のある真っ黒な布が表れた。

 服か?

 俺はつるつると滑る生地をしっかりとつまんで持ち上げ――生まれて初めて服を見て息を飲んだ。無きに等しかった美的感性が突然急成長したらしい。

 ドレスだった。

 胸元はレースで縁取りされ、花のような模様の立体物が付いている。ウエストの辺りで絞ってあり、たっぷりとした生地が使われていた。

 文句なしに、これは美しい。

 いつの間にかクロタエはこちらに顔を向けていた。

「ほかの箱も開けてくれないか?」

 俺は無言で従った。

 次の箱は華奢なデザインのハイヒールが入っていた。人でも刺せそうな鋭いヒールに、紐の部分にキラキラと輝く宝石が付いている。

 次の箱からは小型のバッグが、次はずっしりと重いネックレスが現れた。

「あと二つ」

 俺は残った二つの箱を開けて言葉を失った。革靴が入っている。

 絶望的に流行を知らない俺でも、男物だということはわかった。

「……なんだ?」

 俺は恐る恐る靴に触れた。柔らかい黒革はしっとりとした感触で、なめらかな光沢を放っている。

「お前のものだ」

 俺はびっくりしてクロタエを見つめた。

「なんだって?」

「驚いたって事は、わたしの言ったことが理解できたって事だろ。妙な芝居は止めろ」

「もう一つの箱が残っていないか?」

 俺は落ち着かない気分で残った箱を開けた。赤い薄紙を開けると、ワイシャツが見えた。

 心なしか俺にぴったりのサイズの。

「シャツ」

 俺は馬鹿みたいにつぶやいた。

「これは子供用だ」

「おいおい、いくら理解力が欠如していると言っても、そろそろ勘付くころだろう? これはお前のものだ」

「なぜ?」

「今夜着るからだよ。さぁシャワーを浴びてさっさと着るんだ」

 二十分後、俺はシャワーを浴びてきっちりとたたまれたワイシャツを手に取っていた。

 きっちりとプレスされ、指が切れそうだ。

 落ち着かない気分で着ると、確かにピッタリだった。もちろんズボンも、ジャケットを羽織って最後にタイを引っ張り出すと、ふと我に返った。

「どうやってつけるのかわからない」

「なんてこった、こっちに来い」

 クロタエがゆっくりとかがみこみ、眉間にしわを寄せながらタイを結ぶ。三回目に失敗した時、彼女は外国語で悪態をついた。

「口が悪いな」

 クロタエは驚いた顔で俺を見つめ、それからいつもの笑みを浮かべた。

「お前には驚かせられるよ。何ヶ国語しゃべれるんだ?」

「はん、今じゃトライリンガルだぜ。あんたがくれた上巻と下巻がバラバラの小説のおかげでな。ついでに忠告しておくと罵倒だけなら六カ国語がしゃべれる」

「なら今度からは古代語で悪態をつくことにしよう。どうもわたしは未成年にはふさわしくない言葉をはいてしまう悪癖があるらしいからな」

 クロタエは苦労して襟を整えた。

「さぁ、できた。見てみろよ。なかなかだ」

 俺は緊張して鏡の前に立った。鏡の中には居心地が悪そうに途方に暮れた少年が立っていた。

「どう見ても鼻持ちならない金持ちのくそガキに見える」

 俺はゾッとして鼻を鳴らした。

「大成功だな。さあ、次はわたしが着替える番だ。ちょっと部屋を出てろ」

「おい。これはどういうことだよ! いったいなんの真似だ?」

「汚すなよ」

 クロタエは俺を部屋から追い出した。

 十分後。俺はようやく我に返った。

 なんだって俺はこんな廃墟でめかし込んでいるんだ?

 たっぷり一時間半、廊下を何十往復した後に部屋から出たクロタエの姿を見て、俺はあんぐりと口を開けたまま固まった。

 真っ黒のドレスは体にぴたりと張り付き、第二の皮膚のようになめからな光を放っている。普段は下ろしている長い髪は摩訶不思議な方法でまとめられていた。

「まさか」

 俺は文句も言えずにクロタエの後を追った。

 クロタエはくるりと回転してみせると俺は口笛を吹いて素直な意見を口にした。

「やるね。しゃべらなければどんな男でも落とせるぜ」

「ああ、だが残念ながらいつだってY染色体に取って致命的なダメージを与える一言を言ってしまうようなんだ」

 クロタエはニヤリと笑った。

「ついてこい。愉快とは言えない場所に連れてってやる」

 いつの間にか研究所前に泊まっていたバカでかい車に、クロタエは慣れた様子で乗り込んだ。俺も慌てて彼女に続く。

 なんてこった! 座席がふわふわだ! 

「なぁ、どこ行くんだよ」

「パーティー」

 それからクロタエは一言も口を開こうとしなかった。

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