まず名前だ
「まず名前だ。お前の名前を決めなくては」
クロタエがサンドイッチをがつがつと食べながらつぶやいた。俺はムッとして顔を上げた。
古びたテーブルと椅子を中庭に移動させてから、俺は毎日外で食事をするようになった。ここは一日中日があたらず、俺の目にはちょうどいいのだ。
そしていまいましいことになぜかクロタエも毎日ここで食事をしていた。俺がどれだけ嫌な顔をしても聞きはしないので抵抗はとっくに諦めている。
俺はサーモンサンドを飲み込んで顎を上げた。
「全く必要とは思えないね。現に俺は名無しでも今までやっていけた」
クロタエが大げさにため息をついて、首を振った。
「人間には名前がいるんだ、身元不明遺体くん。自分で自分の名前が決められるなんてお前は幸運なんだぞ。わたしなんて何度クロタエだなんてつけた両親の知性を疑ったことか」
「クロタエ、か。確かに」
俺は薄ら笑いを浮かべてクロタエから投げつけられたチップスを払った。
「人の身体的後天性の特徴を指摘するのは無作法だぜ」
「あんたの両親の知性を鼻で笑ったんだ」
「なお悪い」
クロタエはもう一切れチップスを投げつけると背もたれにもたれて足を伸ばした。
「でも許そう。わたしの両親はここにいない。だから好きなだけ悪口を言ってもいいよ。わたしも時々言う」
俺は曖昧に頷いた。
この女の親ねぇ。世界七不思議の一つだな。
クロタエは遠くの壁を見ながらつぶやくように続けた。
「わたしの両親は二人とも物理学者でごりごりのヒモ屋だ。今は連合原子核研究所にいる」
「ヒモ屋?」
「ヒモ理論ってのがあってな。宇宙は二十六次元のボソンヒモのゆらぎから生まれたとかなんとか言っている連中だ」
「理解不能だ」
「わたしもだ」
クロタエはけらけらと笑った。
「昔っから、両親のしゃべっている内容は理解できなかったな。今会ったらなにを話すんだろうとたまに考えるけど、やっぱり訳のわからない数学の話題でわたしを置いてきぼりにしそうだ」
クロタエは肩をすくめた。
「それでも、たまには誕生日を祝ってやりたいと思うよ。わたし達科学者は国外に行けないから」
俺は、居心地が悪くなり、机に落ちたベーコンの切れ端をつついた。
人に両親の話をされたのは初めてだったのだ。
「つまり、後継人が披後継人の悪口を言うためにもお前には名前が必要だって事だ」
クロタエが包み紙をくしゃくしゃに丸め席を立った。
「十日だけ猶予をやろう、それまでにつけないとわたしが命名するぞ」
俺は呻いた。自分で自分の名前をつける? 戦争の悲劇の一つだな。
「そうそう、お前ここで一人で空を眺めているなんて時間の無駄だぞ。これをあげよう。クロタエ叔母さんからのプレゼントだ」
クロタエはもったいぶった口調で分厚い本を差し出した。まさか読めだなんていうんじゃないだろうな? 俺は文字が読めないのだ。
「ついに愛国心的奉仕の精神が目覚めたのか?」
俺のゾッとした視線に気付いたのか、クロタエはクスクスと笑い気取った口調で言った。
「文化的にいえば〈他者憐憫症候群〉だね。野蛮人の君がもっと賢くなれるように、知的なわたしが選んだ必読書の一つだよ。文字は読めるか? ちょっとばかし勉強するのも一興じゃないか」
ここでクロタエをクソ女と思わないとは、どうやら俺には強固な自制心が芽生えたらしい。
「ちなみに『世界一おいしいママの手作りジャムレシピ』って本だ」
撤回、相変わらずクロタエはクソ女だった。
信じられない事に俺は文字の練習に没頭した。
ジャム作りに興味があったからではない。なにもやる事がなかったのだ。
不思議な事に少しだけ単語と文法を理解すれば、すぐに文章は読めるようになった。なぜ今までこんな文字列が理解できなかったのか不思議でたまらない。
クロタエは料理本だけでなくたくさんの本を置いていった。例えば『世界園芸辞典』だとか『織物の歴史』だとか『ハンカチでの感情表現』とか。
男の人生に最も必要のない類の本だ。
「お前の遺伝子解析の結果が出たぜ」
俺はギョッとして顔を上げた。
クロタエが山と積まれた本をつまらなそうにパラパラとめくっている。
いるなら一声かけろよ――思わず常識的な言葉を発してしまいたくなる。
俺は急に気恥ずかしくなり、夢中で読んでいた『近代ユニット折り紙史』をノートの下に引っ込めた。
「シュゼに頼んだお前の遺伝子解析の結果が出た。お前は推定十一歳らしい。身長は一八五を超える確立が七十パーセント。そして先天的に色素が少ない。太陽光が眩しいだろう? 遮光用ナノマシンを注入する気はあるか?」
「冗談だろ?」
俺はたじろいだ。遮光用ナノマシンを注入する気だって? なにであれ『ナノマシン』が名前につくものは一切注入する気はなかった。
クロタエはえへんと咳払いすると、なにかが書かれている紙を振り回した。
「お前の産みの親は二人ともブロンドで青い目だったな」
「んな事がどうしてわかるんだよ」
「優性遺伝」
クロタエが自分にだけ紅茶をいれ、優雅とはいえない仕草でかき混ぜながら言った。
俺は肩をすくめて鳴り響いている耳鳴りを意識から振り払った。
「黒髪を決定する遺伝子と金髪を決定する遺伝子だと、黒髪の方が優先的に働くのさ。瞳の色も同じだ。だから黒髪の人間と金髪の人間の間には黒髪の子供しか生まれない」
「だったら百年後には黒髪の人間ばかりになるぜ」
クロタエはニヤリとした。
「お前は賢いな。だが、違うんだな。これが。話を戻すけどナノマシンの注入で皮膚癌と結膜炎と視力低下の危険性を減らせるぜ」
「ふうん」
俺はできるだけ身を引いて頭を働かせた。
妙なものをぶち込まれる前に話題を変えないと。なにかこの女の好む話題が必要だ。一つだけある。
「俺の名前を決めた」
「ほう」
クロタエが紙を置き興味津々の様子で身を乗り出した。
「アイだ」
「なんだって?」
「アイ」
俺は繰り返した。クロタエは珍しく面食らった顔をしていたが、次の瞬間はじけたように笑い始めた。
「いいね、いいぞ。アイか。最高だ。最高にいい名だ。お前は才能がある」
なんのだよ。つぶやくより前にナギの言葉が響いた。
「スノーマ博士」
俺はナギを探してあたりを見渡した。
最近耳鳴りのおかげで声が聞き取りにくい。
しばらく探した後やっとクロタエの部屋の窓から身を乗り出している彼女を見つけた。クロタエは椅子ごと回りながら、大げさにお辞儀をする。
戯言を吐くのをナギの冷静な言葉がさえぎった。
「グリンが来たわ」
クロタエの周り中の温度が一斉に低くなった気がした。
「ふむ。アイ、行くぞ」
いつもより低い声でクロタエがつぶやいた。
「ん? ああ」
立ち上がると軽いめまいがしたが、俺はなんとか立ち上がった。




