野蛮人から文明人になるのは簡単だ
十月二十四日
野蛮人から文明人になるのは簡単だ。
やはり人間は遺伝ではなく環境がものをいう。
遺伝がすべてだったら俺は今頃酒飲みか男娼になっていたはずだ。だが俺は環境に左右され立派なドラッグの売人に成長した。
そして今、俺は本に囲まれて清潔な服を着ていた。一人前の文明人だ。
俺は医務室にいろとの命令を無視して研究所左翼の一室に五日間で閉じこもっていた。
大してない自制心をかき集めたおかげで当初の怒りは収まりかけている。
つまり、この研究所を飛び出す時は火をつけるのを忘れないようにしよう、ではなく選択肢を考えろ! と僅かに残っている脳細胞の叫びに耳を傾けるだけの分別は残っていた。
選択肢は二つ。
プランA『研究所から逃げ出す』
つまり、スラム街に舞い戻る。
問題は俺がスラムに戻っても喜ぶ人間は皆無だということだ。
ピアスに見つかってもう一度殺される前にあの街から逃げ出せても、今よりもっと不愉快なものを売ることになるだろう。
児童擁護センターにぶち込まれるのは最悪だ。
どこの誰があの環境で子供を育てようと考え出したのかは、すべての児童擁護センター庇護下の子供の謎だった。
プランB『研究所にとどまる』
これも全くいい考えとは思えなかった。
軍人とスラム街のガキは相性が悪い。最悪だと言っても良かった。特に軍人がせっせと戦争をしている間に、ドラッグを売りまくっていた人間とは。
急に笑いがこみ上げて俺はぐったり壁にもたれかかった。
確実なのはこの研究所の外だろうが中だろうが楽しい事はなにもない、ということだ。どの道行き着く先は刑務所。
もしくは天国、いや地獄か。
俺はスリッパをくるくると回しじっと窓を眺めた。
カーテンの隙間から漏れる光にこめかみが微かに疼く。
いつからか強い光を感じると眼球丸ごとが痙攣し、それから痺れたような鈍い痛みが数時間続くようになっていた。おまけに最近耳鳴りがひどい。しんとした部屋に金属的な耳鳴りだけが鳴り響いている。
「くそっ」
俺は床に積み上げられた雑誌を蹴り飛ばすと立ち上がった。
ため息をついてここで出会った人間の顔を思い浮かべる。
クロタエ、シュゼ、ナギの三人だけだ。
三人のうちの誰かがたまに現れて、食事を置いていく以外はほかの職員には会っていない。
どこかに研究所へ行く専用の出入り口があるのだろう。
地上の施設は廃墟だから、本体は地下のはずだ。だが秘密の入り口を探しださないだけの分別は残っていた。
真っ黒の髪を揺らしながら、クスクスと空中に向かって微笑んでいる女の顔が脳裏に浮かび、俺は罰当たりな言葉を口にした。
シュゼの妙に高潔な態度も気に入らない。少しでも役に立つことはないかと探しているような目で見られるのはごめんだ。
そう、まともなのはナギくらいだ。
いや、彼女もまともではない。悪びれもせず、真っ青な目を愉快そうに輝かせていたのだから。
俺はうろうろとするのを止めて、部屋を抜け出した。
このまま薄暗い部屋の中で考えていてもらちは明かない。
だらだらと食って、寝て、食って、寝て、それはそれは結構だが永遠にそんなものは続かないことは良くわかっている。
そろそろ頃合だ。選ばなければ。
今までどちらを選んでも正解の選択肢が目の前に差し出されたことはなかった。どちらもクソだった。
そうだろう?
児童擁護センターを抜け出した時も、身包みを剥がされて組織に入った時も、このクソから抜け出してもこれから先もクソが待ってると知っていたはずだ。
選択肢を考えろ!
俺はもう一度悪態をついて廊下を進んだ。
ゴミはないが、がらんとした廊下が続き、廊下を曲がると玄関ホールがあった。古臭いリチウムの床は磨り減って輝きをなくし、薄っすらと埃が積もっている。玄関の自動ドアはすんなりと開いた。
俺は頭痛を無視して一歩を踏み出した。
空は分厚い雲で覆われて灰色の鈍い光を放っている。外に出ると建物内の息苦しさが少しだけ和らいだ。
砂まみれになったアスファルトを道なりに進むと急に視界が開け、見渡す限りゆるやかな丘が広がっている。
そして何百もの巨大なアンテナが一面に建っていた。
「すげぇ」
俺は思わずつぶやいた。
こんな巨大な物を見たのは初めてだった。高さ地上三階建ての研究所よりさらに巨大な円盤が、見渡す限り同じ方向を向いて並んでいる。
「すげぇ」
俺はもう一度つぶやいた。
「そうだろう。エネルギー戦争の産物だ」
ギョッとして振り返るとクロタエが突っ立っていた。
白衣に青いスカーフを長い黒髪の上から無造作に巻いている。はだしにサンダルだった。
「お前が逃げ出すなら、どちらに行ったらいいか助言しにきた」
クロタエは俺の顔を見ずに言うと、アンテナに近づいて伸びをした。
この女の助言には絶対に従わないようにしよう。俺はしっかりと誓った。
埃っぽく生暖かい風が顔にあたり、伸ばしっぱなしの髪をぼさぼさにする。俺は髪をかきあげて、まぶしさに目を細めた。
「目はいいのか?」
クロタエがぽつりとつぶやいた。
「なんだって?」
「目はいいのかと言った」
クロタエは遠くのアンテナに向かって繰り返した。
「あんたの親は会話をする時は相手の顔を見ろって教えなかったのか?」
「ふむ」
クロタエは全く悪びれない様子でくるりと振り返り、顎を上げながら言った。
「失礼。そういえば、母にもそう言われて育った。だが、残念ながらわたしの母は娘が人にこうしろと言われると正反対の事をしたがる性質を見抜けなかった」
俺はクロタエのつぶやきを無視して目の前の光景を楽しんだ。こんな光景を見たのは初めてだったのだ。
「何基あるんだ?」
「二十四だったかな」
クロタエが静かに答えた。鉄塔は塗装がはげ錆びかかり静かに朽ち果てようとしている。
強い風にぎしぎしと金属がたわむ音に俺はゾッとして一歩引いた。
「安心しろ。五十年は持つように設計されている」
「んな保証はねぇだろ」
「今のはエンジニア不敬罪にあたるな。ナギがいたら逮捕されるぞ。現代工学を甘く見るな愚か者」
クロタエはクスクス笑うと、誰に伝えるでもなくつぶやいた。
「軌道上の発電所で発電された電気をマイクロ波を受け取るんだ。この施設でルイシャム一帯の電気を供給できる計画だった」
「マイクロ波?」
クロタエはギョッとして俺の顔をまじまじと見つめた。
「驚いたな、軌道上発電を知らないのか? まったく、教育はどうなっているんだ?」
クロタエは世界の終わりとばかりに大げさにため息をついた。
不思議とその仕草を見ても苛つかなくなっていた。
この芝居がかった人を小馬鹿にする仕草で、周りの人間を苛立たせて楽しんでいたのだろう。そして、俺は人から小馬鹿にされるのに慣れていた。
そんな時は無視するに限る。そうだろう?
「宇宙空間で太陽光発電をするんだ。それをマイクロ波として、地上に送電する。八七年に実用化されて、最盛期は発電衛星が五十四基あった」
「あった?」
「開戦時に破壊されたからな。今じゃただのデブリの山だ。まったく、馬鹿な事をやらかしたもんだよ。無能な軍部に幸あれ」
「軍人がそんなことを言っていいのか?」
「わたしは軍人でもいい軍人じゃない」
だろうな。
「祖国のために死なないし殺さない。だが悪い軍人って訳でもない」
クロタエが息をつき、じっと俺の目を見て言った。
「それで、お前はどうする気だ?」
ここに残るか、残らないか。
丘の奥に微かに街見えた。
俺が育った場所はずいぶん遠くなった気がする。
「アンテナは何基あるんだって?」
「十五基だ」
すんなりとクロタエがつぶやいた。
「さっきと数が違うぜ」
「今数えた」
言うと、クロタエは研究所に向かって歩き出した。
俺はもう一度アンテナ郡を一瞥した。
一瞬でこの数を数えることは可能だろうか。あの妙な女ならできる気がした。
建物に向かうクロタエの後ろ姿をぼんやりと見つめる。
おいおい勘弁してくれ。それが最善の策か? 甘えは愚か者の元だ。
心の底から今まで散々な目に合った俺の声が聞こえた。
まあいい。俺は鼻で笑って続けた。選択肢のどちらも魅力的だったことはない。どちらもクソのはずだ。そして馴染みのあるクソに舞い戻るか、ここで新しいクソにぶち当たるかの差だ。
プランB、俺は研究所に向かって歩き出した。




