マシロは窓に向かって険しい顔をしていた
マシロは窓に向かって険しい顔をしていた。
私はホッとした自分に内心驚いていた。
部屋に戻ると彼女は跡形もなく消え去っているという確信を持っていたのだ。
子供は親元に帰るべきだ。そうだろう?
「ただいま」
ギョッとしてマシロが振り向いた。強張っていた表情は一瞬で消え、暖かな笑みが広がっている。
「お帰りなさい」
私はジャケットを脱ぎエアコンのスイッチを押した。そしてカードキーをドアノブに引っ掛け……ギクリとした。
「どうやって私の部屋に入ったのですか? この部屋はオートロックで、カードキーは私しか持っていません」
マシロはいたずらが見つかった子供のように笑った。
「誰にでも、一つや二つ秘密があるのよ」
「不法進入が君の得意技って訳ですね。という事は君がこの部屋に潜り込んだ日の『鍵が開いていた』ってやつも嘘ですね」
マシロは肩をすくめて、私の言葉を無視した。まあいい。
「それでフィセとなにを話したの?」
今度は私がギョッとする番だった。
「なぜ彼女の名前を知っているんですか?」
「立ち聞きしたから」
私が睨むと、少女は手を上げてうんざりした口調で答えた。
「確かにわたしには道徳的に好ましくない癖がある事は認めます。でも、名前を聞いたらすぐに家に帰ったわよ。正確にはあなたの名前を聞いたら。アル」
「本名はアルベロ・ロッソ」
マシロがハッと息を詰めて私を見つめた。
黒い方の瞳の色が一段と濃くなり、輝きを増している。
「アルベロ・ロッソ。あなたの事はおじさんじゃなくて、ロッソさんって呼ばないといけないようね」
「まぁ、その、実感はありませんが。アルベロでも、アルでもご自由に」
私は落ち着きなく言った。何十年も呼ばれ続けている名前のはずなのに、全く馴染みがない。
「アルベロ・ロッソ。少し変わった名前ね」
マシロの言いにくそうな様子に私は吹き出した。
「いつもの勢いはどうしたのですか? 少しどころじゃないですよ。ずいぶん、非常に、変わった名前だと思いますけど」
「人の名前になにか言うほどわたしの育ちは悪くないわ」
マシロがふくれっ面で言った。私は少女の頭をくしゃくしゃに撫でたい衝動にかられた。
「アル……あなたなのね、アル」
マシロは嬉しそうに私の名前をつぶやいた。
彼女が言うとこの馴染みがなく、嘘くさい名前がずいぶん素敵なものに思えてくる。
マシロが駆け寄ってきてぎゅっと私を抱きしめた。
「素敵な名前だと思う」
私はなにも言えずに呆然と突っ立っていた。
目がチクチクと痛む。
おいおい、勘弁してくれ。
自分の名前を知ったくらいで感動してどうする。
そして、その事に私の唯一の友人である少女が喜んでくれたくらいで……。喉の奥がつまり、涙があふれそうになるのをこらえて私はもごもごと礼を言った。
マシロは気付かない様子で一歩下がると腰に手をあて、きっぱりと言った。
「それで、フィセとなにを話したの?」
「私は君が突然逃げ出した理由を聞きたいですね」
マシロがじろりと私を睨み、一言ずつはっきりと発音した。
「全、て、話、す、のよ」
私は洗いざらい報告した。
興味津々の女が相手では最後にはすべて白状させられると本能的に理解していたのだ。
アルベロ・ロッソという名の翻訳家だということ、そして私が二十九歳な事。これにはマシロは驚いて眉を上げた。私は気にしていないふりをして続けた。
後はフィセが私のクリスマスカードを見つけ出し、住所がわかれば完璧だった。少なくとも家に帰ることができる。
「そのフィセ・イズリントンの事を話して」
「彼女はけんしかんです」
「へぇ」
「どういった職業が知っていますか?」
「死体を切り刻んで、死因を調べるのよ」
私は眉をしかめた。
「あなたのブロンド女のイメージとちょっと違った訳ね」
マシロはにやけながら眉を上げた。
「彼女は自分の職業に誇りに思っています。それに髪の色は薄い紅茶色です。光にあたるとまるで――」
マシロが咳払いをした。
「髪の色を説明しているだけです」
マシロのにやけ面がひどくなり右目がキラリと光った。
「あれは染めているブロンドよ。彼女の地毛はブルネットね。賭けてもいいわ」
「まさか!」
マシロは面白そうに眉を上げ、これだから男はとでも言うように頭振った。
フィセと私が学生時代に付き合っていた箇所になるとマシロは身を乗り出して聞き入った。口元がひくひくとしている。
「そのにやけ面を止めてもらえますか?」
「アルベロ・ロッソ、あなたはフィセ・イズリントンに惚れている」
私は言葉につまり、マシロを見返した。
「そんな事言いましたっけ? それで君は彼女をどう思いましたか?」
私は無理やり話題を変えた。
「偽ブロンド女。よりにもよって検死官って、彼女になにがあったのよ。すごく残念。今週のお似合いの二人賞はあげられないわ」
「君は見る眼がありませんね」
私の『彼女の印象』を伝えるのは止めておこう。今ならバイロンも真っ青な甘ったるい詩が書けるだろうから。
「女を見る眼に対して女に意見するなんていい度胸ね。次に会う約束をしたんでしょ? ランチにでも誘う?」
「あちらから、連絡がくるはずです。ランチは……その、彼女に親切心に付け込みたくありません」
「なに気取っているのよ。あなたはその絶望的な布切れ……ではなくて、ジャケットさえ脱ぎ捨てれば完璧よ。キュートなお尻をしてるし」
マシロはウインクしてニヤリと笑った。私はもぞもぞと身じろぎし、無意識に首を撫でていた。くそっ、なんでこの部屋はこんなに暑いんだ?
「それで? 二人はなんで別れたの? 彼女が不実だったの? それともあなたが豚野郎だったの? 彼女は未婚? 恋人はいないの?」
「そんな事聞けませんよ。こっちは初対面なんだから」
マシロはため息をついた。
「一番重要な事なのに」
確かに。
「だいたい私に恋人がいたらどうするんですか。君の言うところの結構素敵な顔をしていてキュートな尻を持っているんだからモテたはずです」
マシロは意味ありげに眉を上げた。
「おっと馬鹿にするのもこれまでですよ。私はもう二十九歳なんですから」
「精神的童貞なら世話ないわよ」言うなり、マシロはそっぽを向いた。
一週間前の私なら、マシロの一言に大いに傷ついていただろう。
だが私は強くなった。マシロの皮肉っぽい言動に耐性がついたともいう。
それに、彼女の言う通りだった。
童貞を気にするには私は歳を取りすぎていた。




