011
アルカディア。
活動センター。
ハル視点。
疲れ切って、床に寝転がる。
これで何度目だ。
猫型外骨格着ぐるみスーツを着て運動しているからといって、体力を消耗しないわけではない。
力には問題ない。
ただ、回転速度では、俺が外骨格の足を引っ張っている。
機械と回転速度を比べても意味がないことは分かっている。
それでも、多少は機械の性能に合わせることはできる。
ベローナはいつものように、水の入ったコップをそのまま着ぐるみの口に突っ込んできた。
見た目はかなり変だけど、こうすれば俺も水を飲みやすいので、文句は言わないことにした。
ベローナも、俺がただ運動しているだけで、セフィとランニングマシンの速度を無理に合わせようとしているわけではないことくらいは分かっているらしい。
だから、何も言わなかった。
何しろ、外骨格を着ていると運動の効果は低くなる。
だから多少は無理をしないと、運動にならない。
「どうして脱いで運動しないのか?」
そう思う人もいるだろう。
だって、脱げないんだ。
何しろ、俺はまだ機密扱いだからな。
それに、ソフィアとセフィからも言われている。
外では着ていたほうがいい、と。
この猫型外骨格着ぐるみスーツには、衝突防止と衝撃緩和の装置が追加されている。
この星で超小型種族に分類される俺にとっては、命綱みたいな装置だ。
まあ、そうだよな。
今までを振り返ってみても、何度かサイズの問題で、もう少しで転生するところだった。
だから……俺の家のクローゼットは二種類に分かれている。
俺自身が着る服。
そして猫型外骨格スーツ用の服。
余計だろ?
でも、セフィが気に入っている……。
休憩を十分に取ったあと。
俺は立ち上がり、ソフィアの隣まで歩いて、リングを眺めた。
リングでは、セフィとベローナが前回と同じように、組手をしていた。
俺はソフィアに言った。
「本当にさ、たまにはソフィアも上がってやってみたら?」
ソフィアは眉をひそめた。
「やめてよ。私はこのままでいいの。バランスは大事なの。それに……」
ソフィアがスマホの画面を俺に見せる。
それは以前、活動センターで初めてセフィと一緒にランニングマシンを走った時の映像だった。
再生数は、すでに十万を超えている。
「この世界の重姫たち、暇すぎないか?」
待て。
これは呼び名なのか?
「走走猫?!」
この呼び方はどういうことだ?
ソフィアが笑いながら言った。
「だって、ランニングマシンの上で両足が残像になるまで走ったのが、もうミームになってるんだもの。それで、みんながそんな名前をつけたのよ」
俺は少し心配になって尋ねる。
「情報操作としては、やりすぎじゃないか?」
ソフィアはスマホを操作しながら言った。
「今のところ問題ないわ。目的から考えれば、走走猫という言葉をみんなに意識させたほうが、注意を別の方向へ逸らす効果は高いもの。それに……」
ソフィアがスマホに表示された収益の分配額を見せてくる。
「私も、こんな金のなる木を拒否するのは難しいわ……」
俺は表示された収入を見る。
うん……よく分からないな……。
また不労所得が増えた……。
最初はスマホを解析したことで得られた情報による不労所得。
そして今度は動画の収益分配による不労所得。
入ってくる金が怖い……。
やっぱり、この収入は家計基金に入れておこう。
「あ、そうだ」
前回、海岸の浮遊プラットフォームで行った実験では、実験結果を聞いていなかった。
セフィと一緒に見て回ったあと、俺がビールと紅茶を買って、海鮮料理と一緒に彼女たちに食べさせたので、聞くのを忘れていた。
搭乗者とパートナーになったあと、今まで操縦したことのない乗り物に乗ったら、どんな影響があるのか。
それが結構気になっている。
ベローナは、俺とパートナーになってから初めて、水精霊(水上バイク)を操縦した。
俺はソフィアに尋ねた。
「じゃあ、パートナー状態を解除したあとでも、ベローナは操縦できるのか?」
ソフィアは、リングでセフィと組手をしているベローナを見てから答えた。
「あなたとパートナーになっている時みたいに自由自在というわけではないけど、確かに感覚は残るわ。それも、初心者というよりは、もう乗りこなせる段階に近い。まるで学習過程を飛ばしたみたいな感じね。私の推測だけど、パートナー状態を解除したあと、早いうちにもう一度乗って復習すれば、もしかしたらもっと感覚が良くなるかもしれないわ」
そう言ったソフィアが、微妙な表情を浮かべた。
俺は尋ねる。
「どうした?」
ソフィアはつまらなそうに言った。
「次のパートナー実験の対象は私なの。使うのは飛行系の乗り物。でも、私はもう飛べるのよ」
だから少し……なんていうか……。
損したというか、得した感じがしないというか。
「ああ、なるほど」
俺は納得した。
「もらえるはずだった報酬を、もう持っていたみたいな感じか。笑」
少し考えてから言う。
「まあ、飛行系の乗り物って一台だけじゃないだろ? ソフィアが操縦したことのない、それも一番可能性が低そうな乗り物を申請できるか試してみよう。不許可ならそれまで。通れば得したってことでいいんじゃないか?」
ソフィアが、何かに気づいたような顔をした。
「そうね! ダメでも却下されるだけだし、別に損はないわね。ひとつだけじゃないし、すぐに申請してみる!」
お前、慣れすぎだろ……。
俺は笑って言った。
「俺も仕事の時は、いくつか機体を選んでたからな。指定できるなら、遠慮はしないぞ~」
ソフィアが連続申請モードに入るのを見ていると、少し懐かしい気分になった。
昔、仕事をしていた頃、相手が乗り物を指定させてくれるなら、俺はできるだけ特徴のあるものや面白いものを選んでいた。
例えば……痛車~。笑
もちろん、本気の時は任務内容に合わせて、一番適した乗り物を選んでいた。
今でも覚えている。
当時、何気なく痛車を要求したら、本当に痛車が送られてきた。
その時、副操縦席に座る予定だった先生の表情がものすごく微妙で、俺はものすごい達成感を味わった。笑
俺がそろそろいいかなと思ったところで、タオルを二組と水筒を持ち上げ、組手を終えたセフィとベローナに渡した。
申請モードに入ったソフィアを見て、ベローナが疑問そうな顔をしている。
俺はベローナに言った。
「次の実験のために、ソフィアが乗ったことのない飛行系の乗り物を申請してるだけだ。前回の海辺の実験では、結構面白い収穫があったからな。あの時、楽しかったか?」
ベローナは犬歯を見せて笑った。
「はは、すごく楽しかったぞ。まさか水精霊があんなに面白いとは思わなかった。お前がいない時はそこまで入り込めなかったけど、それでも十分楽しめた」
「おかげで、自分用に一台買いたくなったくらいだ。でも、そんなに使わないから、やめておく」
俺は言った。
「じゃあ、俺とセフィがパートナー実験をした時に乗った跳躍者ならどうだ?」
ベローナは少し考えてから言った。
「やっぱりやめておく。私たちはほとんど一緒に移動するし、大部分は浮遊プラットフォームの連結輸送システムを使うからな。便利すぎる。それなら、その金は武器への投資に残しておく」
はは。
結局、ベローナは武器が大好きなままだ。
しかも投資までしている。
自分で売りたくないなら、それは投資とは言わない気がするけどな。
俺がセフィに跳躍者についてどう思うか聞こうとした時。
セフィが見ている方向には、大勢の重姫が集まっていた。
セフィが言った。
「あれ、ファーンじゃない? 彼もここで運動してるんだね」
その瞬間、ソフィアとベローナが驚愕した。
「どうして?!」
二人がセフィの言った方向を見る。
そういえば……ファーンって誰だ?
俺は忘れていたので、俺もそちらを見る。
……見えない。
セフィが俺を持ち上げる。
その方向を見ると、そこには一人の男性重姫がいた。
俺は見ながら言った。
「うーん……男性重姫って珍しいよな。誰だ?」
ソフィアが俺を見て、驚いたように小声で言った。
「私たちがあなたを入国させた時に、面倒を起こした男性重姫よ!(003) あなた、あの人を散々からかったじゃない!」
「しかも、からかいすぎて気絶させたでしょう」
俺は一生懸命思い出す。
ああ、いたような気がする。
俺が初めてパートナーになった男性重姫だ。
それに……どうでもいいから、適当にやったんだ。
だから忘れていた。
俺は笑いながら、テヘペロの表情とポーズをして言った。
「……重要じゃなかったから、気にしてなかった」
ソフィアが苦笑する。
「本人の前ではそんなこと言わないでね。面倒なことになるから」
俺は真面目に答えた。
「俺は別に、面倒を起こすのが好きなタイプじゃない。安心してくれ」
突然、誰かが俺たちに言った。
「その低級な炭素基生命体はいないのか?」
結局、相手のほうからやって来た。
ソフィアとベローナは一瞬で不快そうな表情を浮かべたあと、礼儀正しい仮面をかぶった。
あ……セフィはそのままだ。
あいつ、こういう演技は苦手だからな。
ソフィアがファーンに言う。
「ファーン様。その方については現在機密事項です。公共の場で関係する事項を話さないでください」
ファーンは突然思い出したように、ソフィアに言った。
「分かっている。ただ、君たちが口を滑らせないか試してみただけだ」
こいつ……登場した瞬間から殴られたいのか?
ベローナの顔には、こう書いてある。
冷静になれ~~~。
ファーンは周囲を見回した。
どうやら俺を探しているらしい。
だが、今の俺は猫型外骨格着ぐるみスーツを着て、セフィの胸元に抱えられている。
ファーンは俺を見つけると、ソフィアに尋ねた。
「この小型種の獣族は何者だ?」
ソフィアは、以前この猫型外骨格着ぐるみスーツを製作した時に設定した、対外向けの情報を流れるように口にした。
「私の新しい隊員です。名前は走走猫。珍しい小型獣族で、体が小さいので、険しく狭い場所ではかなり機敏で頼りになります」
ファーンが俺を見る。
そして、ゆっくりと近づいてくる。
まずい。
まさか、気づかれるか?
俺はソフィアに目で伝える。
大丈夫なのか?
こんな無理のある設定、どんなに鈍い奴でも関係に気づくだろ。
ソフィアも目で答える。
大丈夫。
彼を信じて。
彼なら私を失望させない。
ファーンは俺をじっくり見たあと、鼻で息を吐いた。
「このサイズでこれほどの重要任務を務められるとは、認める価値がある。私はファーン。ファーン家の長男だ。私のことを覚えておけ。君にとって悪いことではない」
ソフィアが嬉しそうに、目で俺に伝えてくる。
ほらね~。
あいつは期待を裏切らないくらい鈍いでしょう~。
ソフィアの言う通りだった。
信じよう。
彼の、あまりにも恐ろしい鈍さを。
俺もファーンに挨拶する。
「こんにちは、ファーンさん。僕のことは走走猫と呼んでください、ニャ」
まず最初に言っておく。
俺にはキャラクターを演じる能力なんてない。
それに、意味もなく語尾をつけたりもしない。
これはソフィアが猫型外骨格着ぐるみスーツに取り付けた機能だ。
俺の声は変換され、猫の声調になって、語尾に「ニャ」がつく。
完璧な偽装だ。笑
ベローナが不快そうにファーンに尋ねる。
「どうしてここに来たんだ? お前の家にもジムや私有の活動センターがあるだろ?」
ファーンは軽く笑い、顔を上げた。
「ふん。私もたまには簡単で平穏な生活を体験したい。普通の装甲体を着て、普通の活動をする。君たちと出会ったのは、純粋な偶然だ」
セフィが首を傾げてファーンに言った。
「家から追い出されたの?」
うん。
俺は初めてOTZを見た。
しかも七メートルバージョンだ。
もちろん、そのポーズをしているのはファーンだ。
「ぼ、僕は……ただ家に少し長くいただけで、姉さんに追い出されたんだ」
「少し小遣いを渡されて、適当に時間を潰してこいと言われた。どこへ行けばいいのか分からなかったから、ここに来たんだ」
「目立たない格好にしたのに、それでも見つかってしまった……」
突然、ファーンが本音の大愚痴大会を始めた。
俺には、ファーンのどこが目立たない格好なのか分からない。
ただ、ソフィアとベローナの表情を見る限り……
たぶん、これは余計に怪しく見えるやつだ。
ファーンは立ち上がると、再び傲慢な態度に戻った。
「どうやら、私が何を着ても、生まれつきの高貴な雰囲気には勝てないらしい。まったく。今後、何か潜入任務があったとしても、私は難しいかもしれないな」
お前に生まれついているのは、その気持ち悪い自信だろ?
そうツッコミたい。
……やめておこう。
ソフィアとベローナも我慢している。
セフィは俺を自分の顔のところまで移動させて、ファーンを隠すのに使っている。
そんな俺たち三人の重姫と一匹の猫が、ファーンをどう扱えばいいのか分からず気まずくなっている時。
隣に、獣族の集団が現れた。
先頭にいる、中型体格と思われる男性獣族がこちらへ歩いてくる。
狼か?
それとも犬か?
俺には判断が難しい。
とりあえず犬ということにしておこう。
彼は犬歯を見せて言った。
「お前、変だな。男性重姫だとしても、そんなふうにはならない。ここでは邪魔なんだ。自覚がないのか?」
あらまあ……。
どうやら困っているのは俺たちだけじゃないらしい。
それに正直、ファーン本人にも自覚がない。
そういう意味では、完全に間違っているとも言えない。
ただ……
その犬獣族の目は、先に彼を裏切っていた。
別の目的があるように、ソフィア、ベローナ、セフィへと流れている。
つまり、そういうことか?
ナンパか?
それとも邪魔者排除?
俺は目でソフィアに尋ねる。
「前にもこういうことはあったのか?」
ソフィアは目で、困ったように答えた。
「あなたが来る前は、よくナンパされたわ。基本的に何でも食べる獣族が多かったけど~、すぐに追い払えたから」
ベローナも目で、笑いながら言った。
「お前が来てからはなくなったな。お前、雄の獣族が近づきたくなくなるような匂いでも出してるんじゃないか?」
俺は眉をひそめて、目でツッコむ。
汗臭さ?
そんなわけあるか!
俺はかなり清潔にしているぞ!
セフィが横で目をぱちぱちさせて言った。
「みんな、目で何を話してるの? どうして私だけ話についていけてないの?」
「それに、お前! すごいな!」
「大した体格もない猫獣族なのに、ハーレムまで作ってるじゃないか!」
突然、俺がロックオンされた。
Why? What?
ハーレム?
俺のことか?
俺は自分を指差す。
「俺?」
「お前だよ! 猫獣族! まだ疑ってるのか?」
うわっ!
そうだった!
今の俺は猫だ!
Fuck!
俺、巻き込まれた?
というか、ハーレム?!
こいつ、目がおかしいんじゃないか?
あ、そういえばさっきソフィアが言っていた。
「獣族は何でも食べる」って、こういう意味だったのか?!
そういうことなら、獣族には反論しにくいな……。
いや、違う!
この星はもともと女性重姫が男性重姫より圧倒的に多い!
だから無罪!
犬獣族は俺が無言なのを見て、さらに続けた。
「率直に言って、一番邪魔なのはお前だ。察しろ。距離を取れ。俺たちに迷惑をかけるな!」
犬獣族がそう言うと、後ろにいた獣族たちも次々と声を上げた。
「そうだそうだ! 遠くへ行け!」
「空気を読め!」
そう叫ぶ大部分の奴らは、ソフィアとセフィを見ている。
中には何人か女性重姫もいる。
だが、視線の中心はベローナだ。
まさか……。
ファーンはただの引き金だった。
排除したいのは、俺なのか?
さっきのファーンとの会話で、俺とソフィアたちの関係を知った。
それで、ただの同僚関係だと思ったから、距離を取る必要はないと判断したのか?
ファーンが優雅に手を上げた。
「皆さん。ここで言い争うのは賢明ではありません。ソフィアたちに迷惑をかけることになります。そこで私は……」
その場が一瞬で静まり返った。
ファーンは俺と、先頭にいた犬獣族を指差した。
「両者とも獣族なのだから、獣族のルールに従えばいい」
「強者に発言権がある。リングで決着をつければいい」
俺の猫の顔には表情がない。
だが内部の俺の表情は……
きっと、犬のクソみたいな顔になっている。
内部には消音装置がある。
まさにテストする時だ。
ファーン!
You mother fucker!
###!###!
この瞬間、俺は今日許される分の汚い言葉を全部吐き出した。
俺の目の前には五角形のリングがある。
まだ上がっていないのは、上がった瞬間に正式に開始されるらしいからだ。
ふざけるな!
俺はソフィアに尋ねる。
「俺、今は猫型外骨格着ぐるみスーツを着ているけど、厳密にはダメなんじゃないか? 公平なのかどうか、微妙だろ……」
ソフィアはスマホで猫型外骨格着ぐるみスーツの状態を確認しながら言った。
「問題ないわ。相手は中型獣族よ。小型種の中でも小さいと言われるようなあなたを出すこと自体、本来ならありえないでしょう。それに、中型種獣族の実力は重姫と互角に戦えるくらいあるのよ」
「それに、こういう種族が入り混じった場所では、リングのルールはむしろ簡単になるわ。超高性能義肢を装備している人だっているんだから……」
ベローナが笑いながら補足した。
「私だって訓練用の拳銃を持ってセフィとリングで組手をしてるだろ? そんなに考えるな。隙を突かれるぞ」
セフィが真剣に言った。
「もし何かあったら、私が飛び込んでハルを守るから。だから、ハルも自分を守ってね……」
この状況……。
俺にはもう、戦いたくないと言う余地もない。
待て。
俺、降参していいよな?!
別に、嫌がらせを受けているのは俺じゃないし……。
そう思った時。
猫型外骨格着ぐるみスーツの集音装置から、獣族たちの会話が聞こえてきた。
「勝ったら、あの猫に遠くへ行けと言えるな」
「そうだな。あの猫は邪魔すぎる」
「体は小さいくせに、ずっと妙な気配を出しているせいで、俺たちも近づきにくい」
まあ、あれだけ小さいなら、強くてもせいぜい中小型の範囲だろう。
あの中大型の犬太郎の相手になるはずがない。
全部聞こえてるぞ。
獣族なのに、相手にも声が聞こえることを気にしないのか?
まあ、俺は偽獣族だけど。
……そういえば、ああいう犬を犬太郎って呼ぶのか?
可愛すぎないか。
翻訳、大丈夫か?
その犬太郎が五角形のリングに上がると、言った。
「まあ、あんな奇妙な日々も終わるってことだ。あとはお前たちで頑張れ。リングではリングの話、相手を狙うのはまた別の話だ」
獣族たちと、一部の女性重姫がうなずいている。
そういうことか。
悪かったな。
俺も、お前たちのナンパの邪魔をしていたとは知らなかった。
何しろ、恋愛の世界に正解も間違いも分からない。
ナンパだって交友関係を広げる方法のひとつだ。
結局は、お互いに受け入れられるかどうかだろ。
……さて、どうやって降参しよう?
犬太郎はリングに上がった俺を気にも留めず、後ろの獣族たちに宣言を続ける。
「俺については、先に宣言しておく。あのピンクと白の、いかにも強そうな、セフィって奴は俺のものだ」
「確かに強い。だが、かなり純粋だ。まだ獣族の味を知らないみたいだからな~。その時は……」
「ぶっ!」
猫型外骨格着ぐるみスーツの出力を使う。
二段階で防護柵を飛び越える。
犬太郎が獣族たちと話している、その頭上まで跳ぶ。
さらに力を加えて、旋回しながら下へ。
犬太郎の頭頂部へ、踵から真っ直ぐ叩き落とす。
そのまま犬太郎の頭を床へ叩きつけた……。
ソフィアは、たぶん考えたのだろう。
俺が外骨格スーツを着ている場合。
これは単純に「着ている」のか?
それとも「操縦している」のか?
俺なら直接答えられる。
どちらにも切り替えられる……。
リングの外にいるソフィアを見る。
唖然としている。
たぶん、同じことを考えたのだろう。
つまり……。
難しく考える必要はない。
原理は電動アシスト自転車と同じだ。
単純に運動したいなら、電動アシスト自転車でもできる。
楽をしたい。
あるいは電動自転車として使いたいなら、脚の出力を低く保てば、機械が自然に動かしてくれる。
あとは機械に任せる。
自分で指示する方法なら、せいぜい体の消耗率を下げるだけだ。
この猫型外骨格着ぐるみスーツにも同じことが当てはまる。
「猫のくせに、空気を読まない奴だな」
犬太郎は、さっきの攻撃を大したことだと思っていないらしい。
まあ、それもそうか。
さっき聞いたところによると、犬太郎は中型じゃなくて中大型だった。だが、俺も別に気にしていない。
すぐに退場させるつもりはない。
立ち上がった犬太郎が、猛烈な攻撃を仕掛けてくる。
ただの乱打ではない。
左右の手を入れ替えながら、「補助」と「主」の攻撃を交差させてくる。
これは珍しい。
普通はプロ、あるいはそれ以上のレベルの場所でなければ、なかなか見られない。
片方の手を補助攻撃。
もう片方を主攻撃にする。
よくあることではある。
だが、それを左右で入れ替えるには、かなりしっかりした基礎と練習が必要だ。
考えず、反射で切り替えられるようになるまで。
だが、こいつはそれだけじゃない。
「噛む!」
二拍、二拍というリズムの中に、ランダムで三拍目を入れてくる。
頭部による噛みつき攻撃だ。
自分と相手のリズムを崩すためのもの。
だが……それだけだ。
これは単純な殴り合いじゃない。
俺だって知っているからといって、必ず避けられるわけじゃない。
ただ、この辺りの知識は地球で半ば強制的に叩き込まれた。
乗り物に乗った状態でも、対処できるようにするためだ。
犬太郎は、ずっと俺に直接攻撃を当てられないせいか、自分のリズムの中に次々と変調を入れている。
俺のリズムを崩そうとしているらしい。
残念だが、あまり効果はない。
俺は体が小さく、しかも機敏という特徴を利用して、ひたすら避け続ける。
フェンス際まで追い込まれると、犬太郎は体の動く範囲を広げて、押さえ込もうとしてくる。
だが、俺は防護柵を利用して逆に加速する。
フェイントを合わせて、そこから抜ける。
全体として、一方的というよりは……
犬太郎が有効な攻撃をまったくできていない。
俺が距離を取って、もう一度リズムを調整した時。
犬太郎が息を切らしながら言った。
「こんなにしぶとい猫獣族は見たことがない」
「だが、このままじゃ先に体力が尽きるぞ。俺はまだ一日中でも戦える」
犬太郎はそう言う。
だが、いろいろと勘違いしている。
俺はまだ猫型外骨格着ぐるみスーツの内部で、エアコンを効かせながら水分補給をしている。
ただ、ひとつだけ同意できることがある。
そろそろ終わりだ。
ただし、この戦いが終わるという意味じゃない。
俺は過去に半ば強制的に覚えさせられた技を思い出して、再現してみる。
この猫型外骨格着ぐるみスーツで、ボクサーの構えを取る。
ソフィア視点。
たぶん、原理は補助機能と似ている。
ハルは「操縦」と「実際の運動」の二つのモードを切り替えているだけだ。
だから今リングにいるハルは、猫型外骨格着ぐるみスーツを着ているというより、操縦していると言ったほうが近い。
その差は、これほどまでに大きい。
しかも今度は、見たことのない構えまで取った。
つま先立ちになり、小さく、何度も跳ねる。
両腕を上げ、拳を握って前に構える。
こんなモードは見たことがない。
私は格闘技には詳しくない。
私は一番得意なセフィを見る。
セフィの目は、まるで固定されたかのように、細部を一つも逃さず見ている。
今は聞いても答えてくれそうにない。
ハルが小さな歩幅で、それなのに素早く、あの犬太郎という獣族へ向かっていく。
大丈夫なの?
一瞬。
犬太郎の左右の手が、どちらも打撃動作に入る。
それに対してハルは、小さな歩幅だけで避ける。
さっきまでの回避とは違う。
相手に張り付くような回避だ。
ハルはそのまま犬太郎の腹部へ潜り込み、拳を振るう。
パッ!
音はかなりしっかりしている。
だが、私にだって分かる。
威力がない。
何しろ体格と重量が違いすぎる。
仕方がない。
犬太郎が笑みを浮かべて、また拳を振るう。
ハルはさっきと同じように小さな歩幅で避け、また拳を出す。
同じように、しっかりとした音がする。
同じように、威力がない。
どうするの、ハル?
これは操縦能力では補えない。
リングの上で、ハルと犬太郎が何度も行き来する。
最初とは違う。
今度はハルが、ひたすら威力のない攻撃を繰り出している。
効果はあるの?
その時、隣にいたセフィが突然、小さく「わあ」と声を漏らした。
何を見たの?
私は細かく観察する。
違う。
視点を広げる。
なるほど。
ハルの一つ一つの打撃が、少しずつ、犬太郎をフェンスへ追い込んでいる。
犬太郎が離れようとしても、また押し戻される。
どういうこと?!
ハル視点。
先生は重度のボクシング好きだ。
時々、俺は無理やり何ラウンドか付き合わされた。
ふざけるな!?
身長190センチ、体重90キロ。
アーノルド・シュワルツェネッガー級の大男。
それと身長170センチ、体重65キロの俺がボクシング?
先生は楽しそうだった。
俺はマットの上に寝転がっているほうがずっと快適だった。
先生の生徒の中に、見ていられなくなった人が一人いて、俺の体格に合った戦い方を教えてくれた。
俺は覚えるのが早かった。
かなりうまくできた。
でも相手は先生だった。
結局、マットの上に寝転がる時間を減らせただけだった。
俺の拳には威力がない。
この外骨格も同じだ。
だが、トルクは一級品だ。
俺の一発一発には威力がない。
その代わり、推進力がある。
一発ごとに、押す力がある。
一度避けたら、押す。
相手が息を吸う瞬間にも、押す。
動きが大きくなったら、重心を押して崩す。
もう一度。
フェンスから逃げようとしたら、下へ潜り込んで押し戻す。
押す。
押す。
押す。
押す。
犬太郎のリズムは、始まる前から押し崩されていた。
フェンスの隅に押し込まれた犬太郎は、動けない。
近づいてこようとすれば、押し返す。
倒れようとすれば、押し起こす。
叫ぼうとすれば、口を押す。
どうすることもできない。
たぶん、今のこいつの状況を言うなら、そういうことだ。
犬太郎は怪我をしていない。
だが、考えも行動も押さえ込まれている。
その場に立ったまま、動けない。
手を上げて防御しても、それをこじ開けられる。
ひたすら押し打ちされる……。
そういえば、審判もいないし、ゴングも鳴らない。
自分から止めていいのか?
それとも、立ち上がれなくなるまでやるのか?
その前に、こいつの心が折れそうな気がするけど……。
結果から言えば、俺はやりすぎたようだ。
犬太郎は丸くなり、尻尾を前に巻き付けて、口で噛んでいる。
まるで自信を粉々にされた犬だ。
俺はどうしてこんなことをしたんだ?
俺はセフィを見る。
……そうだ!
もう一回、こいつをボコボコにしたい!
待て待て待て。
もう十分だ。
これ以上やったら、動物愛護団体に連れていかれるかもしれない。
冷静になれ。
何か言って終わらせないと、気まずいだろ……。
そうだ!
覚えている。
「お前も強いニャ」
「それは、お前が努力した結果だニャ」
「だから、その努力を恥じるなニャ」
「正しい道を歩めニャ」
「立ち上がれニャ」
「お前の努力を、ここで終わらせるなニャ」
そして俺は笑顔を保ったまま、手を伸ばして犬太郎を立ち上がらせた。
うわあ!
この台詞、吐きそうだ!
耐えろ!
犬太郎の、さっきまで濁っていた両目に光が宿った。
キラキラしている。
キラキラ、キラキラ。
まるで魂が浄化されたみたいだ。
犬太郎は無垢な笑顔を浮かべて言った。
「はい、走走猫先生! 私はこれを糧にして、これからも頑張ります!」
周囲で見ていた獣族たちからも、似たような光が放たれる。
走走猫先生の伝説は、ここから始まった……。
獣族たちに持ち上げられたり、舐め回されたり、匂いをつけられたりといった活動が終わったあと。
俺は疲れ切ってソフィアのところへ戻った。
ソフィアが苦笑する。
「とにかく、結果が良ければいいのよ。これでナンパの問題も心配しなくてよくなったわね」
ベローナがツッコむ。
「私のほうはそうでもないぞ! まだ何人かの女性重姫が私をじっと見てる!」
セフィは平然と尋ねた。
「ハル、さっき怒ってた? もう大丈夫?」
俺は気まずそうに笑って答えた。
「大丈夫、大丈夫。ちょっとした誤解だ」
そういえば……元凶のファーンは?
ソフィアが淡々と言った。
「帰ったわ。男性同士の殴り合いには興味がないって言って、そのまま帰っていった」
今日の俺の分の汚い言葉は、もう全部使い切った。
他に何を言えばいい?
まあいい。
もう気持ちも冷めた。
以前ファーンを気絶させたことへのお返しだと思っておこう。
そうして片付けて帰ろうとした時。
セフィが俺を胸元へ抱き寄せて言った。
「さっきの犬太郎の話、実は聞こえてたよ」
「ちょっと嫌だったけど」
「でも、そのおかげで、私のために怒ってくれたハルを見ることができたから、得したかな~」
なんだよ……。
やっぱり、最初から知ってたのか。
それなのに、どうして怒ったのかなんて聞いてきたのか。
セフィはそのまま、とても嬉しそうに俺を抱いたまま、家まで帰った。
まあいい。
俺も疲れた。
これでいいだろう。




