マシュマロトーストと体重計
それは、すべての女子高生にとっての「世界の終わり」を告げる、あまりにも残酷な一枚の紙だった。
「嘘…でしょ?」
放課後の夕暮れ時。第二寮の一階ロビーにある掲示板の前で、乾栞奈は絶望に染まった声を漏らし、その場にへたり込みそうになっていた。メガネの奥の瞳が、恐怖に小刻みに震えている。
通りかかる他の寮生たちも、その掲示板を見ては「最悪…」「今週に限ってなんで」と、お通夜のような声を上げて足早に去っていく。
掲示板に貼り出されたプリントには、大きな太文字でこう印刷されていた。
『【重要】全寮生対象:定期体重測定および身体検査のお知らせ。明日午前九時より体育館にて実施。各自、体操着を着用して集合すること』
「測定。よりによって、明日…!」
栞奈は頭を抱えた。
脳裏をよぎるのは、この一週間、午前二時を過ぎてから自分たちが犯してきた数々の罪業の記憶だ。
深夜のバター醤油マヨ焼きおにぎり。
にんにくレモンペッパー塩焼きそば・タルタルソース爆盛り。
どちらも脳の血管が弾け飛ぶほど美味しかった。それは間違いない。しかし、食べたものは消えない。確実に二人の肉体の一部となり、脂肪という名の明確な質量となって蓄えられているはずなのだ。
「あ、栞奈。こんなところでどうしたのぉ?」
購買で買ってきたパックのいちごミルクをのんびり飲みながら、姉の詩織がふわふわとした足取りでやってきた。
栞奈は無言で、血の涙を流さんばかりの形相で掲示板の紙を指差した。
「ん? あー、体重測定かぁ」
「『かぁ』じゃないよお姉ちゃん! 大ピンチだよ! この一週間の夜食のツケが、明日の朝九時にすべて白日の下に晒されるんだよ!? もし先月より増えてたら、お母さんに報告がいって、実家からの仕送りの仕分け(主に美味しいお菓子類)が減らされる!」
「大丈夫だよぉ、栞奈。明日の測定器がちょっと空気を読んで、私たちのときだけ数値をマイナス二キロとかにしてくれればいいだけだよ〜」
「体重計にそんな高度なAIは搭載されてない! あいつらはただ愚直に、現実の重さを数字にするだけの非情なマシーンなの!」
栞奈は詩織の腕をガシッと掴むと、恐ろしいほどの眼力で宣言した。
「決まり。今夜は絶対に、水以外は口にしない。いい? 夕飯の寮母さんの唐揚げも、私は半分残してキャベツでお腹を膨らませる。お姉ちゃんも絶対に夜中に私を誘惑しないで。もし誘惑してきたら、お姉ちゃんの部屋のぬいぐるみを全部洗濯機で丸洗いするからね!」
「えぇー、それは困るなぁ…」
詩織は眉を八の字にして困り顔を作ったが、栞奈の決意は固かった。
夕食時、栞奈は宣言通り大好きな唐揚げを涙を呑んで詩織に譲り、ひたすらキャベツの千切りを噛み締めた。すべては明日の測定器に打ち勝つため。己のプライドと美のブランドを守るための、孤独な戦いである。
しかし、皮肉なことに、完璧すぎる抑圧は、さらなる暴走を生む引き金にしかならないのだった。
深夜三時。
世界が完全な静寂に包まれる中、二一五号室のベッドの上で、栞奈は寝返りを打ち続けていた。
寝られない。まったく寝られない。
夕食をキャベツで済ませたせいで、お腹が空きすぎて胃が雑巾のように雑に絞られている感覚がする。しかも、明日の体重測定へのプレッシャーという極限のストレスが、栞奈の交感神経を限界までバチバチに刺激していた。
脳が、異常なまでの飢餓感を訴えている。それも、ただの空腹ではない。ストレスを相殺するための、圧倒的な「糖分」を激しく求めていた。
キュルルルルルル、ゴロゴロゴロ…。
静かな部屋に、栞奈の胃袋が獣のような咆哮を上げる。
「起きてるんでしょ、栞奈」
暗闇の中から、鈴を転がすような優しい声が響いた。
気がつくと、詩織がすでにベッドを抜け出し、ローテーブルの前にちょこんと正座していた。その手には、部屋の非常食棚から引っ張り出してきた、六枚切りの食パンの袋。そして、見ただけで脳内麻薬が分泌されそうな、市販の『大粒ホワイトマシュマロ』と『ミルクチョコレートの板チョコ』のパッケージが並んでいた。
「だ、ダメだよお姉ちゃん。言ったでしょ、明日は体重測定なんだってば…」
栞奈はベッドから這い出し、ふらふらとローテーブルへ近づきながらも、最後の理性を振り絞って抗議した。しかし、その目は完全にマシュマロの袋にロックオンされている。
「ダメじゃないよ、栞奈。今の栞奈の脳みそはね、糖分が足りなくてシワシワになっちゃってるの。このままだと、明日の体重測定の前に、栄養失調で倒れちゃうよ?」
「大袈裟だよ。第一、今からパンとチョコなんて食べたら、明日の数値に直撃するに決まってるじゃん…!」
「直撃しないよぉ。だってね、栞奈。マシュマロをよく見て」
詩織は袋から、真っ白でぷにぷにとした大粒のマシュマロを一個取り出し、月光に透かしてみせた。
「マシュマロってね、お砂糖を限界まで泡立てて作られてるの。つまり、中身の半分以上は『空気』なんだよ? 風船と同じ。だから実質、綿菓子よりも軽いし、食べても体の中でふわふわ浮くだけだからカロリーなんてないの。それにね、チョコレートに含まれるポリフェノールは、ストレスを和らげるお薬なんだよ? 今これを食べれば、明日の体重測定の緊張がほぐれて全身の筋肉がリラックスするから、結果的に体重が軽くなるよ」
「マシュマロの糖分は空気じゃ消えないし体重が軽くなるわけないでしょ!どんなトンデモ医学だよ!」
栞奈は鋭くツッコんだ。ツッコんだが、そのとき、彼女の脳内で「熱々でシュワシュワに溶けたマシュマロと、とろける甘いチョコレート」の映像が脳内で再生されてしまった。
甘いものが食べたい。今すぐ、暴力的なまでの糖分で脳を殴り倒してほしい。ストレスで限界を迎えていた優等生の理性が、音を立てて粉々に砕け散った。
「お姉ちゃん。明日、朝一番にトイレに三回行く。サウナ並みに汗をかく。…だから、作ろう」
「うん、そうこなくっちゃ。栞奈、トースターの準備をお願い」
共犯関係が成立した瞬間、栞奈の動きは爆速の調理モードへと移行した。
「お姉ちゃん、冷蔵庫からスライスチーズを出して。一枚だけ」
「えっ? 甘いトーストにチーズも入れるの?」
「入れるの。甘みのなかに、ほんの少しの塩気という『アクセント』を加えることで、甘さが何倍にも引き立つんだよ。これぞ調理科学」
栞奈は手際よく食パンを一枚取り出すと、その上にスライスチーズを敷いた。
続いて、ミルクチョコレートの板チョコを、パキパキと小気味よい音を立てて豪快に割りながら、チーズの上に隙間なく並べていく。
そして仕上げに、大粒のホワイトマシュマロを、まるで石畳のようにきれいに整列させてパンの上に載せた。食パンの上に、真っ白な可愛い絨毯ができたような美しいビジュアルだ。
「よし、トースターへ。時間は三分半。マシュマロは焦げやすいから、一瞬も目を離しちゃダメだよ」
「了解です、隊長」
チチチチチ…と、トースターのタイマーが回り出す。
二人はトースターのガラス窓の前に並んでしゃがみ込み、オレンジ色の熱線の向こう側をじっと見つめた。深夜三時、女子高生二人がトースターを凝視する姿はどこかシュールで、しかし真剣そのものだった。
一分経過。板チョコの端が、熱でじわりと溶け出し、チーズの油分と混ざり合い始める。
二分経過。上に載ったマシュマロたちが、熱風を吸い込むように、むくむくと二倍近くに膨らみ始めた。お互いに押し合いへし合いしながら、白く丸いドームを形成していく。
三分経過。マシュマロの頂点が、トースターの熱源に近づき、じわじわと美しいキツネ色に色づき始めた。キャラメルのような、甘く香ばしい、凶悪極まりない匂いが排気口から溢れ出し、部屋の空気を一瞬で支配する。
「お姉ちゃん、今…! マシュマロの表面がプツプツしてきた、今だよ!」
チン。
静寂を破る小気味よい音が響く。
栞奈はミトンをはめた手で、慎重に受け皿を取り出した。
「うわぁ…すごぉい」
詩織が感嘆の声を漏らす。
トースターから現れたのは、まさに『背徳の極み』と呼ぶにふさわしい悪魔のスイーツだった。
こんがりと黄金色に焦げたマシュマロは、まるで焼きたてのメレンゲのように膨らみ、その隙間からは、完全に液体と化した濃厚なチョコレートと、とろけたスライスチーズがマグマのようにフツフツと湧き出している。
二人は音を立てないように、素早くローテーブルへ運んだ。
パンの耳を両手で持ち、半分に引き裂こうとする。
サクッ。
トーストされた食パンの心地よい硬質な音とともに、上に載ったマシュマロが、まるで高級なモッツァレラチーズかのように、クリーミーにビヨーーーンと長く引き伸びた。同時に、中から溶け出した黒いチョコレートがとろりと滴り落ちる。
「「いただきます…!」」
二人の声が重なり、同時にトーストに齧りついた。
「ーーーーーーんんんっッ!?」
栞奈はあまりの衝撃に、持っていたトーストを落としそうになり、慌てて両手で支え直した。
口に入れた瞬間、まず感じたのは、マシュマロの表面のカリッとした香ばしさ。しかし、次の瞬間には、その中身がシュワァ……一瞬で溶けて、温かい極上のクリームとなって口いっぱいに広がった。
そこに絡みつく、ミルクチョコのガツンとした濃厚な甘み。
それだけなら、ただの激甘トーストだ。しかし、底に敷いたスライスチーズのほのかな塩気が、遅れてやってくることで、甘さの暴風雨の中に一本の「旨味の芯」が通る。
サクサクの食パン、シュワシュワのマシュマロ、トロトロのチョコ、そしてモチッとしたチーズ。四つの食感と、甘みと塩気の無限ループ。
「美味しい…! 美味しいよお姉ちゃん! 脳の細胞が、一個残らず大喜びしてダンスを踊ってるのがわかる!」
「ふふ、でしょぉ? マシュマロの空気と、チョコのポリフェノールが、今まさに栞奈のストレスを消滅させてるんだよぉ」
詩織も、口の周りに白いマシュマロと茶色いチョコをいっぱいつけながら、大満足の笑みを浮かべていた。普段の儚げな美少女が、完全に「お菓子泥棒」の幼児のようになっている。
「あー、この焦げたマシュマロのサクサクしたところが最高。チーズの塩気のおかげで、重たいはずなのに無限にいけちゃう…!」
「明日なんて来なければいいのにねぇ、栞奈」
「本当、もう明日のことなんてどうでもいい! 私はこの、甘美な地獄に落ちる道を選ぶ!」
二人は言葉を失ったかのように、一心不乱にトーストを口に運び続けた。
マシュマロとチョコが糸を引き、二人の指を汚していくが、そんなことを気にする余裕は一ミリもない。深夜三時、暗闇の中で、双子の姉妹は悪魔のスイーツを瞬く間に平らげていった。
ごちそうさまでした、と手を合わせたときには、ローテーブルの上には小さなパン屑一つ残っていなかった。
栞奈は、指についたチョコを名残惜しそうに舐めながら、強烈な多幸感の波に揺られていた。そして、いつものように、一歩遅れて凄まじい「罪悪感」が背筋を凍らせる。
「はぁ。食べちゃった。本当に食べちゃった。明日の測定まで、あとたったの五時間だよ…?」
「大丈夫だよぉ、栞奈。マシュマロは空気だから、寝ている間に全部、息と一緒に口から出ていっちゃうよ。おやすみぃ…」
詩織はそう言い残すと、驚異的なスピードで自分のベッドに潜り込み、一瞬で寝息を立て始めた。
栞奈も、もはや抗うエネルギーはなく、「明日、絶対に朝一でスクワットする…」と固く心に誓いながら、深い眠りへと落ちていった。
そして、運命の午前九時。体育館。
体操着に身を包んだ生徒たちが、長い列を作っていた。
静まり返った館内に、測定器の電子音が「ピッ」「ピッ」と事務的に響く。
「次、乾栞奈さん」
「はいっ…!」
栞奈は緊張のあまり、心臓が口から飛び出そうだった。
一歩一歩、まるでギロチンの刃の下へ向かう罪人のような足取りで、白い体重計の上へと乗る。両手を体の横にピタッとつけ、息を止め、目を瞑った。
(神様、仏様、寮母様、どうか、どうか…!)
「はい、終わり。次、詩織さん乗って」
保健の先生の淡々とした声。栞奈は恐る恐る、記入された記録用紙を盗み見た。そこにあった数字は――。
(…え? 減ってる!?)
なんと、先月の数値よりも「〇・五キロ」減っていたのだ。
実は、ここ数日間の深夜のドカ食いによる罪悪感から、栞奈は昼間に無意識のうちに学園内をめちゃくちゃ歩き回ったり、部屋で激しいフェイスマッサージやストレッチを繰り返していた。その結果、奇跡的に基礎代謝が上がり、一時的に水分が抜けて数値が減少していたのである。
「やった…! 減ってる! お姉ちゃん、本当にマシュマロは空気だったんだ! 私の勝ちだよ!」
測定器から降りた栞奈は、小さくガッツポーズをして大歓喜した。これなら仕送りの仕分けを減らされる心配もない。深夜の背徳メシは、完全に正義だったのだ。
「次、乾詩織さん」
「はーい」
続いて、詩織がふわふわとした足取りで体重計の上に乗る。
詩織は栞奈と違って、昼間も授業中に寝ているだけで全く運動をしていない。
測定器のデジタル目盛りが、非情な音を立てて数値を確定させた。保健の先生が、少し目を見開いてペンを走らせる。
そこにあった数字は、先月比、プラス「一・五キロ」。
バッチリと、言い訳の余地がないほど綺麗に増量していた。
「あ、増えてるぅ」
詩織は人ごとのようにパチパチと瞬きをした。
体育館の片隅に移動した後、栞奈は勝ち誇った顔で、しかし少し呆れながら詩織を振り返った。
「ほら見なよお姉ちゃん! やっぱりマシュマロは空気なんかじゃなかったんだよ! お姉ちゃんだけ一・五キロも増えてるじゃん! どうするのこれ!」
ショックを受けるかと思われた詩織だったが、彼女はすぐにいつものゆるふわな笑顔を取り戻すと、人差し指をチッチッチと振ってみせた。
「違うよ、栞奈。何もわかってないねぇ」
「何が違うのさ」
「これはね、太ったんじゃないの。昨日の夜に食べたマシュマロの『空気』がね、まだ私の体の中に残ってて、風船みたいに膨らんでるの。だから、今の私の体の中は空気でいっぱいだから、実質、私は今、浮力で浮いてるんだよぉ? だから私は実質、今、浮いてるの」
「浮いてたら体重計の数値は軽くなるはずでしょーーーーーー!!」
体育館の喧騒の中、妹の、周囲に配慮して音量を極限まで抑えた、しかし過去最高に鋭い魂のツッコミが炸裂した。
乾姉妹の、世間の目と、体重計の目盛りと、深夜のギルティな胃袋を巡る戦いは、これからもまだまだ続いていく。




