徹夜の脳にはにんにくをブチ込むのが一番効く(妹談)
私立聖華女子学園の図書室は、中間テストを三日後に控え、ただならぬ緊迫感に包まれていた。
普段は静かに読書を楽しむための空間だが、今やそこは、赤点回避に命を懸ける者と、学年上位をキープせんとする猛者たちが火花を散らす戦場と化している。
「くっ…! なんでここで…意味がわからない、全然頭に入ってこない…!」
図書室の片隅の席で、乾栞奈は髪をかきむしりながら、分厚い古典の参考書を睨みつけていた。シャープペンシルを握る手に力が入りすぎ、パキンと虚しい音を立てて芯が折れる。これで今日、五本目の破壊だ。
今回の古典のテスト範囲は、気が遠くなるほど長い古文の「暗記」だった。現代の女子高生からすれば、まるで意味のわからない呪文の羅列にしか見えない文字列。それを一言一句間違えずに覚えなければ、学年一桁の座から容赦なく叩き落とされる。そのプレッシャーが、生真面目な優等生である栞奈の脳をじわじわと追い詰めていた。
「乾さん、テスト前はさらに迫力があるね…」
「さすが学年トップ争いの常連。集中力の次元が違うわ」
通りかかるクラスメイトたちが、鬼気迫る栞奈の姿を遠巻きに見ながら、畏敬の念を込めて囁き合う。
しかし、その視線が栞奈の隣へと移動した瞬間、誰もが微笑ましいような、呆れたような複雑な表情を浮かべた。
「すぅ、すぅ、んにゃぁ…」
そこには、ノートを開いたまま綺麗に突っ伏して、幸せそうに寝息を立てている姉の詩織の姿があった。色素の薄いゆるふわな髪が、図書室の窓から差し込む夕日に照らされて輝いている。テスト前だというのに、彼女の周囲だけはぽかぽかとした小春日和の空気が漂っていた。
「お姉ちゃん…! 起きて! 図書室は寝室じゃない!」
「ひゃいっ!? …あ、栞奈ぁ。古典の神様がね、夢の中で『丸暗記なんてしなくていいよ〜』って優しく微笑んでくれた気がするのぉ」
「神様じゃなくてそれ、サボりたい自分の生霊だから! もういい、帰るよ!」
栞奈はボキボキに折れた芯の残骸を片付けると、猛烈な勢いでリュックに教科書を詰め込んだ。学校での完璧な「高嶺の花」という皮の裏側で、栞奈のストレスゲージは、すでに限界を突破して真っ赤に点滅していた。
そして、運命の深夜二時。二一五号室。
小さなデスクライトの灯りだけが、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。
ベッドの中でふと目を覚ました詩織は、机に向かってガタガタと小刻みに震えている怪しい人影を発見した。
「…かんな? どうしたのぉ、そんなところで」
「あは、あははは…! 『い・ろ・は・に・ほ・へ・と』違う、これは古典じゃない、いろは歌だ…! 『あまたのとし月を送りて、いかなる恩をか報ずべき』…あーーーー! 脳みそが、脳みそが完全にフリーズしたーーー!」
振り返った栞奈の目は、完全に血走っていた。メガネが少し斜めにズレ、黒髪のショートカットは巣立ちを控えた鳥の巣のようにボサボサだ。完全に「勉強ハイ」と精神的疲労、そして極限の空腹によって、理性のタガが完全に消し飛んでいた。
「栞奈、落ち着いてぇ。一回寝よ? 寝て忘れたら、明日また新しく覚ければいいんだよぉ?」
「寝られるわけないでしょ! 忘れたら困るから必死になってるの! だめだ、脳が完全にエネルギー切れを起こしてる。このままじゃ古典の呪文に脳を殺される…!」
栞奈はフラフラとした足取りで立ち上がると、獣のような執念でミニ冷蔵庫の扉をガバッと開け放った。
いつもなら、詩織が夜中に目を覚まして悪魔の提案をし、栞奈がそれを必死に止めるのが二一五号室のお約束だ。しかし今夜は違った。限界を迎えた優等生が、自ら禁断の扉を開いたのだ。
「お姉ちゃん。今の私の脳が求めているのは、お上品な糖分じゃない。眠気を一瞬で吹き飛ばし、硬化した脳細胞を強制覚醒させる、圧倒的な『塩分』だよ!」
栞奈が冷蔵庫から取り出し、ローテーブルの上に叩きつけたのは、以下の三点だった。
袋入りの冷凍『本格ゴロゴロチャーハン』。
業務用の『おろしにんにく(大容量チューブ)』。
そして、白い塊となった凶悪な脂の結晶『ラード』。
「えっ…、栞奈? 今からチャーハン炒めるの? しかも、にんにく?」
さすがの詩織も、普段の妹からは想像もつかないガッツリ系のラインナップに、少し引き気味に声を上ずらせた。
「そうだよ! これをホットプレートで限界まで炒め直すの! ラードの暴力的な旨味でお米をコーティングして、にんにくをチューブ半分、いや、一本丸ごとブチ込む! にんにくパワーが血液に乗って脳に到達すれば、古典の呪文なんて一瞬で記憶回路に書き込まれるに決まってる! 名付けて『深夜二時の男前ガーリックチャーハン・ラード増し増し仕様』! これはただの夜食じゃない、明日の点数を毟り取るための、食べる参考書だよ!!」
「え、えぇ(食べる参考書って何だろう)。でも、すごく美味しそうだねぇ。お姉ちゃん、喜んで助手を務めるよぉ」
立場は逆転したものの、美味しそうな匂いの予感に詩織の食いしん坊センサーが反応した。二人はすぐさま、深夜の隠密調理フェスへと突入する。
カチャ、とホットプレートの電源を入れ、温度を最高温度の「強」に設定する。
栞奈はスプーンを掴むと、ラードの塊を豪快にすくい取り、熱くなったプレートの上にドカンと落とした。
ジュワァァァァァッ!!
深夜の静かな部屋に、白い煙とともに、脂の焼ける強烈に香ばしい音が響き渡る。ラードが一瞬で溶けて透明な海を作ったところへ、凍ったままの冷凍チャーハンを袋から一気に流し込んだ。
バラバラバラッ!
「お姉ちゃん、フタ持って! 油が跳ねて音が響くと管理人さんにバレる!」
「了解だよ、隊長!」
詩織が素早くホットプレートのフタで盾を作り、音を遮断する。
栞奈は木べらを持ち、凍った米粒をラードの海の中で溺れさせるように、激しく炒め始めた。冷凍チャーハンは元々油でコーティングされているが、そこにさらに追いラードをすることで、お米がパラパラになるのを通り越し、油で「揚げる」ようなバチバチとした状態になっていく。
全体に熱が通り、チャーハンの焼き豚と卵の匂いが立ち上ったところで、栞奈は本日のメインディッシュを取り出した。にんにくチューブだ。
「いくよ、お姉ちゃん。脳細胞、強制覚醒の儀式…!」
「いけー、栞奈ー!」
ブチュウウウウウッッッッ!!
栞奈がボトルの腹を全力で絞ると、太いおろしにんにくの帯が、熱々のチャーハンの中心へとトッピングされていく。チューブの実に半分以上、普通のラーメン屋ならトリプルマシに相当する量のにんにくが投下された。
ジューーーーーーッ!!
その瞬間、二一五号室の空気は、完全に「深夜の限界ガッツリ系ラーメン店」へと変貌を遂げた。
にんにくの水分が弾ける激しい音とともに、鼻腔をこれでもかと暴力的に破壊する、強烈なガーリックの匂いが部屋中に爆発する。にんにくの鋭い香りと、ラードの甘い脂の匂いが混ざり合い、部屋の酸素すべてが『にんにく』に置き換わっていくかのようだ。
「くっ…! 目が、にんにくの成分で目がチカチカする! でも、猛烈に脳が覚醒してきた!」
「お姉ちゃん、フライドオニオンも入れちゃうねぇ。カリカリして美味しいから」
「ナイスアシストお姉ちゃん! 食感のアクセントは重要だよ!」
さらに油分を吸ったフライドオニオンが加わり、深夜二時の「男前ガーリックチャーハン」が完成した。
二人はお皿に移す時間さえ惜しみ、ホットプレートから直にスプーンで食べるスタイルを選択した。プレートの上では、ラードの油をまとったお米が黄金色に輝き、フツフツと音を立てている。
「「いただきます…!」」
二人のスプーンが同時にプレートへ突き刺さり、山盛りのチャーハンをすくい上げた。フーフーと軽く息を吹きかけ、一気に口の中へ放り込む。
「ーーーーーーッッッ!!!」
栞奈はあまりの美味さと衝撃に、スプーンを握ったまま、ガタガタと全身を震わせた。
口に入れた瞬間、まず脳の視床下部を直撃したのは、おろしにんにくの容赦ない辛みと旨味だ。生の風味がしっかり残ったにんにくが、舌の上で爆発する。続いて、ラードの濃厚なコクをこれでもかと吸い込んだお米が、噛むごとにじゅわじゅわと脂の甘みを溢れ出させる。フライドオニオンのカリカリとした香ばしさも手伝って、スプーンを動かす手が完全に制御不能に陥る。
「美味い! 美味すぎるよお姉ちゃん! にんにくが、にんにくのパワーが血管を通じて脳の奥の奥に直接ブチ込まれていくのがわかる! 記憶細胞が、一斉に目を覚まして『もっと古文をよこせ』って叫んでる!」
「んむ、んむ…っ。おいひぃねぇ、栞奈。ラードをいっぱい吸ったチャーハンって、お口の中がパラダイスだねぇ。にんにくの効果で、なんだかすっごく体がポカポカして、今すぐぐっすり眠れそうだよぉ」
「寝ちゃダメだよお姉ちゃん! これは食べる参考書なんだから、食べ終わったらすぐ古典の呪文を脳内にインプットするの!」
「はーい…ズズッ、んむ」
そこからは、まさに圧巻の爆食いだった。
女子高生の部屋とは思えない、にんにくとラードの凄まじい匂いが充満する中、二人は一心不乱にスプーンを動かした。ホットプレートの端の方で、少しおこげになったカリカリのチャーハンをこそげ落としながら、貪るように胃袋へと収めていく。昼間の優等生のプライドも、美意識も、明日の一斉テストへの恐怖も、すべてがにんにくの旨味の中に溶けて消えていった。
わずか数分後。
三人前はあったはずの冷凍チャーハン改は、ホットプレートの上から完全に消失していた。
栞奈はスプーンを置くと、額にうっすらと汗をかきながら、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「完璧…。脳のエネルギーは完全に満タン。お姉ちゃん、私はこれから、古典のテキストを最初から最後まで全部丸暗記する。にんにくパワーがあれば、徹夜なんて余裕のよっちゃん(※死語)だよ!」
「すごぉい、頑張ってねぇ、栞奈。お姉ちゃんは、にんにくの安眠効果が限界だから、一足お先に天国へ行ってくるねぇ…」
詩織はそう言い残すと、驚異的なまでの素早さでベッドに潜り込み、布団を頭から被った。三秒後には、すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえ始める。
「本当にお姉ちゃんはマイペースなんだから。よし、勝負はここからだよ!」
にんにくによって脳細胞を強制覚醒させた栞奈は、そこから一睡もすることなく、猛然と古典の参考書に向き合った。不思議なことに、あれだけ頭に入らなかった呪文のような古文が、すらすらと脳の引き出しに収納されていく。
「完璧…! チャーハンは、本当に食べる参考書だったんだ!」
栞奈は勝利を確信しながら、徹夜のまま、夜明けを迎えるのだった。
そして、テスト当日。
一時間目、古典のテスト。
張り詰めた空気の中、栞奈のシャープペンシルは、恐ろしいほどのスピードで解答欄を埋めていった。
(解ける! 全部解ける! 昨日の徹夜で覚えた範囲が、そのまま出てる! 勝った、今回の古典は満点も狙える…!)
栞奈は心の中でガッツポーズをした。しかし、集中力が最高潮に達し、興奮してフンッと鼻から荒い息を吐き出した、その瞬間だった。
(…っ!? く、臭いっ!!!)
自分の口元から立ち上った、昨夜の「大容量チューブにんにく半分」の圧倒的な残香が、自分自身の鼻腔を直撃した。あまりの臭さに、栞奈は目眩を起こしそうになる。息を吸うのも吐くのも命がけの、自爆テロ状態だ。
チラリと隣の席の詩織を見ると、彼女はテスト中だというのに、問題用紙の上にヨダレを垂らしそうになりながら、にんにくの安眠効果の余韻でコックリコックリと激しく船を漕いでいた。
(お姉ちゃん、起きて! というか、お姉ちゃんも相当にんにく臭いよ!?)
教室中に漂う微かなガーリックの匂いに恐怖しながらも、栞奈はなんとかテストを解き終えた。
数日後。廊下に張り出された、中間テストの結果発表。
栞奈は、自分の点数を確認した。
『乾栞奈:八十八点』。
あの難解な暗記範囲で、徹夜の成果をきっちりと出し、学年一桁を死守する見事な高得点だ。
「よしっ! やっぱり、私の努力とにんにくチャーハンは裏切らなかった!」
栞奈が満足感に浸りながら、ふと、そのすぐ上にあった姉の点数に目を向けた。そこにあった数字を見た瞬間、栞奈のメガネがガタリとズレ落ちそうになった。
『乾詩織:九十五点』。
「な、ななな…、なんでーーーーーーーっ!?」
栞奈は思わず廊下で叫びそうになり、両手で口を抑えた。
おかしい。どう考えてもおかしい。お姉ちゃんはあの夜、チャーハンを食べた後すぐに爆睡して、テスト中も半分寝ていたはずだ。勉強なんて一秒もしていなかったはずなのに、なぜ自分より高い点数を取っているのか。
「あ、栞奈ぁ。古典のテスト、返ってきたよぉ」
詩織が、いつものようにのんびりとした足取りで歩いてきた。その手には、誇らしげに『九十五点』と赤ペンで書かれた答案用紙が握られている。
「お、お姉ちゃん…! なんでそんな点数が取れるのよ!? あの夜、暗記なんて全然してなかったじゃん! 私、寝ずに死ぬ気で呪文を覚えたんだよ!?」
「えへへ〜、なんかねぇ、あの夜ににんにくチャーハンを食べたら、すっごくよく眠れたのぉ。おかげで朝起きたら頭がスッキリしててさぁ。テスト中、なんとなく『あ、これ夢の中で古典の神様が言ってた気がする〜』ってカンで書いたら、ほとんど当たってたんだよねぇ。にんにくの安眠効果って、本当に凄いねぇ」
詩織はふわふわと笑いながら、パックのいちごミルクをストローでちゅーちゅーと吸った。
もちろん神様ではない。それは、昼間に栞奈が必死になって音読していた声を、詩織が睡眠学習として脳の記憶回路に完璧にコピーしていただけだった。つまり、詩織はただ寝ていただけの、天性の天才だったのだ。
「う、嘘でしょ。私のあの血の滲むような努力は。睡眠時間を削って、むくみと戦いながら必死に覚えた古文は、一体何だったのよ…」
栞奈はガタガタと崩れ落ち、廊下の壁に頭を打ち付けた。
徹夜による肌荒れの危機を冒し、にんにくの臭いで自爆しかけ、挙句の果てに体重もバッチリ増えているというのに、一秒も勉強していない姉に点数で負けるという不条理。
「大丈夫だよぉ、栞奈。八十八点もすごいよぉ。今夜は、お姉ちゃんが栞奈の頑張りを称えて、もっとにんにくを入れた夜食を作ってあげるからねぇ」
「もうにんにくなんて見たくもないわよーーーーーーーっ!!」
中間テストの喧騒の中、妹の、理不尽な天才の姉への猛烈な悔しさと絶望がこもった魂の叫びが響き渡る。
乾姉妹の、学校での見栄と、不条理な才能の格差、そして深夜のギルティなキッチンを巡る戦いは、ますます混沌を極めていくのだった。




