第4話 四月二日 その4
僕たちには目的があった。確固たる、というほどでもないが、一応河下さんへの誘い文句は「桜を見ませんか」だったので、目的と言ってもいいだろう。
日没までには河下さんを自宅に送り届けたい。僕たちは少し焦りながら車に飛び乗った。
市民会館の前にコインパーキングがある。三時間までなら料金は掛からないらしい。すぐ横には駅があった。駅利用者のためと思しき駐車場が数時間無料ってどういうことだろうと考えたが、平凡な僕の脳みそでは仮説すら立てられなかった。
横断歩道を渡って、市民会館の裏手に小さな川が流れている。
今年の桜はどこに見に行こうかと何気なく検索したとき、たまたま出てきたのがこの関川の桜だった。
四月二日。そろそろ散り始めてもおかしくない。
川沿いの桜並木は――、
「七分咲き、ですかね」河下さんは小川に掛かる橋の上でぽろりと言った。「散るどころか咲ききってもいなかったです」
「先日まで雨続きで気温低かったからですかね」
住宅街の真ん中を流れる小川の両岸にトンネルのように咲く桜は、正直七分咲きというのも憚られるくらいの咲き具合で、僕にはせいぜい五分咲きに見える。
「でも、良い方に転びました」
「良い方、なんですか?」素っ頓狂な声が漏れてしまった。
「はい。良い方です。わたし、これくらいが好きなんです。もちろん満開の方が綺麗ですけど、満開の並木を見ると、どこかに必ず葉桜になってる木があるじゃないですか。それがあまり好きじゃないんです。終わりを見ているようで」
「終わり、ですか」
「何事も終わりを見るのが苦手で、いつまでも続くと思っていたバラエティ番組の最終回とか、見たこともない芸能人の訃報とか、お店の閉店とか、あと、夜とか。終わりを感じるものを見ると胸がぎゅっとなるんです。だから、まだこれから咲くんだって思えるこれくらいの桜がわたしは好きです」
河下さんは、「来年も咲くって分かってはいるんですけどね」と付け足して、そよいだ風に乱れた前髪をさっと直した。
満開は一瞬だ。咲き誇った瞬間から終わりは始まっている。すぐに葉桜になり、その頃には風の一吹きで花びらが舞い始める。桜吹雪と言えば聞こえは良いが、その花びらは、散っているのだ。
一分一秒ごとに終わりに向かっていくそれを、これまで僕は、ただ美しいとだけ思っていただろうか。
「少し歩きましょう」
河下さんの提案に、僕は「はい」と返した。
川沿いの歩道にはいくつか四阿があって、腰の曲がったおばあさんが二人並んでお茶を飲んでいた。制服姿の女学生が談笑しながら桜の写真を撮り、小さな子がお母さんの手を握りながら散歩をしている。
柔らかい風は涼しく、木漏れ日はほどよい暖かさで、鳥の囀りは清らかに響く。なんだかとても、いい感じだ。
関川の桜並木は三キロにも及ぶという。端から端まで歩こうとは思わない。けれど、三キロを別段長いとは思わないほど、心地の良い道が続いていた。
僕と河下さんが歩くスピードは違う。河下さんがどんどん先に行っても、僕は僕のペースのまま歩いた。河下さんも僕を待とうとはしない。僕らはここに二人で来た。それだけだ。肩を並べることは目的にはない、のだと思う。
どこにでもある並木道だ。特別なことはなにもない。桜の名所ではあるんだろうけど、観光客で溢れかえっているなんてこともない。けれど、普段歩いている道とはどこか違う。この感覚が大事なのだ。程よいわずかな刺激が、この場所に来た意味を感じさせてくれる。
小さな公園が目に入った。小学生くらいの男の子たちがサッカーボールを蹴っている。河下さんは立ち止まって、その様子を慈しむような目で見ていた。
追いついた僕は、彼女に声を掛けるようなことはしなかった。
子供たちの声よりもボールを蹴る乾いた音の方が響く。時々鳴いた鳥の声に僕が視線を奪われると、目の前を通った軽トラックの排気ガスの匂いが鼻を突いた。
この不快感も、家の中では感じられないものだ。
「そろそろ車、戻りますか」
河下さんは、囁くように言った。
「まだ並木道は続いていますが、もう良いのですか?」
「はい。満喫しました」
僕に向けられた小さな笑みは、彼女の年齢を考えれば相応に清らかで、瞳の奥にあるものはどこか仄暗く、やはり僕はまだ、彼女のことを何も理解などできていないのだなと、その瞬間に思い知らされる。
車からここまで五百メートルも歩かなかっただろう。同じ道程を僕らは戻る。一度歩いた場所だから、河下さんは急いで歩いたりはしなかった。はからずも、僕らの歩くペースは同じになった。
「今日はどうでしたか、河下さん」
河下さんは真っ直ぐ前を見つめて、数秒ほど沈黙した。考えを巡らせるような間だった。
「正直、特別何も感じなかったかもです。何ていうか、普通、っていうか」
また数秒の沈黙が生まれた。今度の間は、少し気まずさを持つ静けさだった。
「あ、ごめんなさい。悪く言うつもりはなかったんですけど」
「あはは」
つい苦笑いをしてしまった。
河下さんの言葉に複雑な感情を抱いたのではない。反応に困っただけだ。僕にとってその感想は、意外ではあったが、おかしなものではなかった。
「大丈夫です。それは、僕も同じですから」
「え?」
「何かを感じる必要はないんです。何も考えなくて良いように、僕はこうして旅をするんです」
二人がアスファルト踏む速さが、自然とゆっくりになった。
「僕にとって旅は、現実逃避なんです。……いや、僕みたいな人間が現実から逃げちゃ駄目だって分かってはいるんですけど、でも、どうにも駄目なんです、逃げないと、どうにかなってしまいそうで。メンタルが脆いんですね。よく豆腐メンタルなんて言いますけど、形を保っているだけ豆腐は立派です。僕の心は言うならば液体なんですよ。旅とか、エンタメとか、そういう型に入ってなんとかなっているだけの液体。型が、枠がなくなってしまったら瞬く間に排水口に流れていく。脆いと言うより、なんとかそこに存在しているだけ。そんな僕なのに、僕は僕を嫌いになれないから、だから、こうして時々ふらーっと旅に出るんです。いつもとちょっと違う何気ない日常に出会うことで、何も考えずに新鮮な刺激を受ける。こういう現実逃避が、僕を僕の形のまま現実世界にとどめてくれているんです……なんて、そんなことばっかり今もグダグダ考えちゃうんですけど」
空の青に幾分オレンジ色が滲み始めた気がした。
まだ春だ。四月なのだ。そんなに昼間は長くない。
一日の終りが始まる時間だった。
「わたしはたぶん、市ヶ谷さんほどメンタル弱くないです」
隣を歩く河下さんは、時々桜並木を見上げていた。もしかするとそれは、暮れ始める空を見ていたのかもしれない。彼女が何を見ているか、彼女が語らない限り僕には分かりようもないのだ。
「わたしは好きですよ」
「……え?」
「そういうの、なんだか好きです。うまく言えないですけど」
気を使ってくれたのだろうか。そうだとしても、僕の心は温まる。
「でも、現実の世界を旅して現実逃避って、なんだかおかしな話ですね」
「生活圏を一歩出れば異世界みたいなものですから」
「たしかに」
河下さんはそう言って、また少し首を持ち上げた。
すぐ横を流れる小川の水は、さほど綺麗ではない。雨が続いていたのだ。仕方のないことだろう。だから僕たちは、川の水を覗き込むことはしなかった。
僕たちは上を見ていたのだ。桜なのか空なのか、焦点はそれぞれだろう。
綺麗なものを見るだけの時間が、僕らにはあっていいのだ。
じきに僕らの今日は終わる。
あとは現実に帰るだけ。
どこに行っても、僕は必ず慣れ親しんだ我が家に帰りたいと思う。帰りたいと思えるのはこの瞬間があるからだ。
ただ、今日はちょっとだけ、名残惜しいと思う。
どうやら僕も、夜は苦手みたいだった。




