第5話 四月二日 その5
帰り道は各務原市へと下り、国道21号線を西へ走った。
帰宅ラッシュだ。どうしても道は混雑する。河下さんは寝てしまうと思っていたのだが、道中の桜並木にここの方が咲いていますねと話してみたり、目の前の車に「どうでしょう」と書かれたステッカーが貼られていることに気付いたりと、河下さんは何度も僕に話題を振ってくれた。
沈黙は苦ではない。僕はそれで良いと思っている。それでも、話が弾む瞬間は嬉しいものだ。渋滞は相当なものだった。信号があればその都度止まる。同じ赤信号を二度見ることもあった。なかなか前に進まないけれど、進まないことも悪くないと思える時間でもあった。
夕暮れの街は、気付けば夜と言ったほうが良いくらいに暗くなり、ようやく僕らは出発地である大垣駅に着いた。
昼には人の姿もまばらだった駅前に、制服姿の生徒やサラリーマン、老若男女問わない人たちによる賑わいがあった。
様々な人の交流が駅前にはある。昼間には見えなかった営みだ。僕にしてみれば、ある意味これも異世界のそれと言えるのだろう。
「今日はありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、河下さんはシートベルトを外した。
「お誘いしていただけてとても良かったです。初めての感覚でした」
「本当にご自宅までお送りしなくて大丈夫ですか?」
「はい。近いので」
「それなら良いのですが」
「あ、デートリップは今回限り、ってのはナシでお願いしますね。約束が違うので」
その言葉に、僕は思わず安堵した。今回限りで、と言われるのでは内心ひやひやしていたのだが。
「はい。もちろんです」
「それじゃ」と、ドアを開けようとした河下さんを、
「あの、河下さん」
僕は慌てて呼び止める。
「ずっと言いそびれていたので、ここでお伝えさせてください」
僕はずっとポケットに入れていた袋を取り出した。河下さんに手渡す。「中を見ても?」と言われ、僕は頷き、車内ライトを点灯させた。
入っていたのは、忍者がデザインされた爪切りだ。
「河下瀬南さん。十八歳のお誕生日、そして成人、おめでとうございます」
四月二日。
今日は河下さんの誕生日だったのだ。
今は十八歳で成人を迎える。元女子高生の河下さんは、今日を以て正式に大人の仲間入りしたのだ。だからこそ僕らは今日旅に出た。お祝いということではなく、今日からなら行けますね、という河下さんの提案があったからだ。
「これ、プレゼントですか?」
「何もお渡ししないのも、なんか違うかなと思って」
ビニールに入った爪切りを取り出し、河下さんはじっくりと見つめた。
「わざわざありがとうございます。これ、お土産屋さんで買っていたんですね」
「はい。せっかく、関市に赴いたので。あ、でもすみません、千五百円はちょっと重いかなと思って、五百円の方にしたんですけど」
「ホントだ。テスターのやつだ。しかも、忍者……関って忍者も有名なんでしたっけ」
「いえ、たぶん外国人観光客向けのデザインなのかなと。武将の名前が書かれたものもありましたけど、お好きな武将とか分からないので、無難なものにしようかなと思いまして」
河下さんは、肩を小さく上下させた。
「普通いませんよ、好きな武将。わたし歴史詳しくないですし」
河下さんは笑っていた。くすくすと、可愛らしく。
「忍者良いですね。気に入りました。大切に使わせていただきます」
「是非」
爪切りを丁寧に袋に戻し、鞄に入れてしまえばいいのに、河下さんはそうはせず抱えるように持っていた。
「じゃあ、わたし行きますね」
「今日はありがとうございました。お気をつけて」
ドアに手をかけた河下さんは、外の様子をキョロキョロと見回して、声を潜めて言う。
「今ここで降りたら、さすがにパパ活過ぎますかね」
「ですから気にしすぎですって。まだ夜はそこまで深くないですし、それに、河下さんは今日から成人ですから。少なくとも警察のご厄介にはなりません」
「大人って言い訳にも使えるんですね」
「言い訳とかでもないですけど……僕たちは単に、旅仲間なので」
「そうですね。旅仲間。疑われないようにしましょう」
河下さんは意味深に微笑んで車を降りた。
ドアを締める前に、河下さんはもう一度こちらを向いて小首を傾げる。
「そういえば、市ヶ谷さんのお誕生日っていつですか?」
「七月です。七月十日」
「三ヶ月後か。じゃあその日も、一緒にお出かけしましょうね」
「え」
「約束ですよ」
河下さんは不思議な人だ。
僕にはまだ河下さんがわからない。
もしかしたらずっと分からないままかもしれないが。
「……善処します」
その答えで満足できるとは思えないのに、河下さんは目を細めて笑う。
ドアをそっと閉めた。半ドアだったから、もう一度開け、改めて閉めた。その閉め方も、とても優しいものだった。
胸の前で小さく手を振って、会釈し、河下さんは駅の中へ小走りで向かっていく。
僕は運転席の窓を少し開けた。昼間とは違う、ひんやりとした風が車内に入り込んでくる。
夜の風の匂いが好きだ。鼻を通る冷たさが好きだ。青空の下で感じるよりも、ずっと良い。
でももしかすると。
あの春の暖かさも、太陽の暑さも、匂いも。
いつか好きになれる日が来るのかもしれない。
そんなことを思いながら、僕はゆっくりと。ブレーキから足を離した。




