第65話 皇子来訪前夜
北方都市グランテの朝は、いつもより少しだけ騒がしかった。
石畳の大通りでは荷車が行き交い、市場ではいつも以上に声が飛び交っている。
旅人や商人だけではない。
職人たちも忙しそうに動き回っていた。
宿屋では部屋の準備が進められ、食堂では大量の食材が運び込まれている。
町の入口では衛兵たちが交代しながら警備を強化していた。
理由は一つ。
――第一皇子アルヴェルトが、この都市を視察する。
その予定が迫っていたからだ。
領主館の執務室。
レスティーナ・フォン・グランテは窓から町を見下ろしていた。
人の流れがいつもより多い。
特に西区の宿屋街は活気に満ちていた。
「思った以上に騒ぎになってるわね」
レスティーナは苦笑した。
(ググル先生)
『はい』
(皇子が来るだけでこんなに変わる?)
『はい。皇族の訪問は都市の評価に直結します』
「なるほどね」
つまり――
この都市が王家に認められるかどうか。
それを左右する出来事でもあるわけだ。
その時、扉がノックされた。
「領主様」
エルガルトだった。
「どうぞ」
彼は書類を持って入ってきた。
「視察ルートの最終確認です」
「見せて」
レスティーナは机の上に広げられた地図を見た。
皇子の訪問ルート。
町の入口。
石畳の大通り。
中央広場。
市場。
倉庫街。
西区の宿屋街。
そして農地。
最後に領主館。
「悪くないわね」
レスティーナは頷いた。
都市の特徴が一通り見える。
物流。
商業。
農業。
すべて揃っている。
「ジェイは?」
レスティーナが聞く。
エルガルトは答えた。
「倉庫街で荷物の整理をしています」
「相変わらず働き者ね」
レスティーナは小さく笑った。
ジェイ。
三年前、帝都からこの町に来た少年従僕。
今では十八歳の青年になり、都市運営の中心人物の一人になっている。
物流管理。
倉庫の配置。
交易商人の対応。
彼の仕事は多い。
その時、執務室の扉が開いた。
「呼ばれました」
噂の本人だった。
ジェイは軽く礼をした。
「ちょうどいい」
レスティーナは言った。
「視察ルート確認して」
ジェイは地図を見る。
しばらく黙って考えた後、言った。
「倉庫街を先に見せた方がいいと思います」
「理由は?」
「交易都市としての強みですから」
レスティーナは頷いた。
「確かに」
北方都市グランテの特徴。
それは物流だ。
北方の資源を集め、帝都へ流す。
その中心が倉庫街だった。
巨大な倉庫。
整理された荷物。
そして荷車の動線。
すべて計算されている。
(ググル先生)
『はい』
(物流都市として評価される可能性は?)
『高いです』
「それなら決まりね」
レスティーナは地図を書き直した。
倉庫街を視察ルートの前半へ移動する。
エルガルトが言った。
「農地も見せる予定です」
「もちろん」
レスティーナは笑った。
「都市は食べ物がなきゃ成り立たないもの」
グランテの農地は広い。
開拓民が作った畑。
水路による灌漑。
輪作農業。
ググル先生の知識で改善された農業だ。
収穫量は周辺地域より多い。
それが都市の人口を支えている。
レスティーナは椅子に座り直した。
「それにしても」
「皇子が本当に来るとはね」
ジェイが言う。
「帝都でも噂になっていました」
「どんな?」
「北方に面白い都市がある、と」
レスティーナは少し笑った。
「面白いって何よ」
「普通じゃない都市だそうです」
ジェイは答えた。
「三年でここまで発展した都市は珍しいと」
レスティーナは窓の外を見る。
三年前。
ここは荒野だった。
だが今は違う。
市場の声。
荷車の音。
人々の生活。
都市が生きている。
「まあ」
レスティーナは言った。
「皇子が見てどう思うかね」
エルガルトが静かに答える。
「きっと驚くでしょう」
ジェイも頷いた。
「間違いなく」
レスティーナは微笑んだ。
「そうだといいけど」
皇子の視察は明日。
北方都市グランテの三年間の成果が、ついに王家の目に触れる。
レスティーナは窓の外を見ながら呟いた。
「さあ」
「明日は忙しくなるわよ」
夜はゆっくりと北方の都市を包み始めていた。
そして明日。
この町の歴史に残る一日が始まろうとしていた。




