第29話 帝都への旅路
帝国皇帝からの勅命を受けてから三日後。
城館の中庭には、旅支度を整えた馬車と騎士たちが並んでいた。
帝都までは早馬でも三週間以上かかる距離だ。護衛も補給も十分に整えなければならない。
レスティーナは城館の階段の上から、その光景を静かに見下ろしていた。
朝の光が石畳を照らしている。
荷馬車には食料や書類、贈答品などが積み込まれていた。帝都へ行く以上、皇帝や帝国貴族への礼儀も欠かせない。
後ろからエルガルトの声が聞こえた。
「準備はほぼ整いました」
レスティーナは振り向く。
「護衛は?」
「騎士十五名。兵士三十名です」
「少し多いわね」
「帝都までの街道は安全とは言えません」
エルガルトは少し声を潜めた。
「それに……」
「それに?」
「帝国貴族の中には、この領地をよく思わない者もいるでしょう」
レスティーナは小さく笑った。
「それは確かに」
逃亡農奴の受け入れ。
自由農制度。
商人との直接交易。
これらはすべて、既存の貴族社会にとって面白くない政策だ。
特に農奴制度で利益を得ている貴族たちは、レスティーナの制度を危険視している可能性が高い。
「道中で嫌がらせがあるかもしれません」
「あり得るわね」
レスティーナは階段を降りながら言った。
「でも帝国の勅命で動く旅団を襲うほど愚かな貴族は、そう多くないでしょう」
エルガルトは苦笑した。
「確かに」
中庭に降りると、騎士たちが一斉に敬礼した。
「領主様!」
「ご苦労様」
レスティーナは馬車の前まで歩いた。
今回の旅は長い。
しかも帝都で何が起こるか分からない。
それでも彼女の表情に不安はなかった。
その時、門の方から足音が聞こえた。
振り向くと、そこには帝国監察官ユリウス・ヴァルテンが立っていた。
黒衣の監察官は静かに歩いてくる。
「出発ですか」
「ええ」
レスティーナは頷いた。
「皇帝の勅命ですから」
ユリウスは少し笑った。
「思ったより早い対応ですね」
「待たせるわけにはいかないでしょう」
ユリウスは馬車や兵士たちを見回した。
「護衛も十分」
「足りない?」
「いえ」
ユリウスは首を振った。
「むしろ慎重で良い」
彼はしばらく黙っていた。
そして、ふと口を開く。
「帝都は……」
言葉を選ぶように続けた。
「この領地とは違います」
「どう違うの?」
「欲望が渦巻く場所です」
ユリウスの灰色の瞳がわずかに細くなる。
「帝国貴族たちは、あなたを歓迎しないでしょう」
「でしょうね」
レスティーナはあっさり答えた。
「でも」
ユリウスは少し首を傾げる。
「怖くないのですか?」
レスティーナは笑った。
「怖いわよ」
「……」
「でも」
彼女は空を見上げた。
「行かない理由にはならない」
ユリウスはしばらく黙っていた。
そして小さく息を吐いた。
「なるほど」
「何?」
「あなたがここまで領地を発展させた理由が、少し分かった気がします」
レスティーナは肩をすくめた。
「それは光栄ね」
その時、門番が声を上げた。
「出発準備、完了!」
騎士たちが馬に乗る。
兵士たちも隊列を整えた。
エルガルトが近づく。
「いつでも出発できます」
レスティーナは馬車に乗り込んだ。
扉が閉じる。
外から号令が聞こえた。
「出発!」
馬車がゆっくりと動き出す。
城門が開く。
レスティーナの領地が、ゆっくりと遠ざかっていった。
街道に出ると、広い平原が続いている。
農地。
村。
人々の暮らし。
すべてがレスティーナの築いた世界だ。
レスティーナは窓からそれを眺めた。
(必ず戻る)
心の中で呟く。
この場所は守るべき場所だ。
そのためにも――
帝都へ行かなければならない。
旅は順調に進んだ。
街道は整備されており、宿場町も多い。
三日目には山岳地帯に入った。
街道は狭く、森が深くなる。
兵士たちの警戒も強まった。
その日の夕方。
隊列は小さな宿場町に到着した。
石造りの宿屋。
馬小屋。
小さな市場。
旅人たちで賑わっている。
馬車が止まると、レスティーナは外に出た。
長時間の馬車は体が固まる。
軽く伸びをする。
その時だった。
騎士の一人が慌てて近づいてきた。
「領主様!」
「どうしたの?」
「森の方で不審な動きがあります」
レスティーナの目が細くなる。
「盗賊?」
「分かりません」
「人数は?」
「十人以上」
エルガルトが剣に手をかけた。
「街道襲撃かもしれません」
レスティーナは少し考えた。
そして静かに言った。
「……様子を見ましょう」
「ですが危険です」
「分かってる」
レスティーナは森の方を見た。
木々の奥。
確かに何かが動いている。
やがて――
森から人影が現れた。
十人。
いや二十人近い。
兵士たちが一斉に剣を抜いた。
だが次の瞬間。
レスティーナは驚いた。
現れた人々は――
**武器を持っていなかった。**
ぼろぼろの服。
やせた顔。
子供を抱えた女。
老人。
まるで難民のようだった。
彼らは恐る恐る近づいてくる。
そして、一人の男が膝をついた。
「……お願いです」
かすれた声だった。
「助けてください」
レスティーナは馬車から降りた。
「何があったの?」
男は震えながら言った。
「領主に追われました」
「どこの?」
「北の……伯爵領です」
レスティーナの眉が動いた。
男は続ける。
「税が払えず……」
「村ごと追い出されました」
レスティーナは静かに周囲を見た。
子供たち。
老人。
痩せた農民たち。
明らかに逃亡農奴だ。
エルガルトが小声で言った。
「……どうします?」
レスティーナは少しだけ考えた。
そして笑った。
「決まってる」
農民たちを見る。
「私の領地に来なさい」
男たちの目が大きく開いた。
「え……?」
「働く気があるなら」
レスティーナは言った。
「土地をあげる」
一瞬、沈黙。
そして――
農民たちは泣き崩れた。
レスティーナはその光景を見ながら思った。
(帝都に行く前から……)
問題が増えたわね。
だが同時に。
それは確信でもあった。
この制度は間違っていない。
帝都で何を言われても。
レスティーナは変えるつもりはなかった。
遠くの空には、帝都の方向に伸びる街道が続いている。
その先には。
帝国皇帝が待っていた。




