第27話 帝国の影
朝霧がゆっくりと晴れていく頃、レスティーナは城館の塔から平原を見下ろしていた。
春の冷たい空気が頬を撫でる。遠くには、麦畑が淡い緑色の波となって広がっていた。数年前までは荒れ地だった土地だ。
それが今では、村が増え、農地が広がり、人の声が絶えない。
レスティーナは腕を組みながら、小さく息を吐いた。
「……来たわね」
彼女の隣に立つエルガルトが、ゆっくりと頷いた。
「はい。帝国監察官の一行が、あと半刻ほどで城門に到着します」
レスティーナは遠くの街道を見つめた。
まだ小さな黒い影だが、馬車列がこちらへ向かっているのが見える。
帝国旗。
銀色の槍。
規律正しい隊列。
帝国監察局の一行に間違いない。
「護衛は?」
「騎士二十。従者数名。書記官が三名ほど」
「……ずいぶん本格的ね」
レスティーナは苦笑した。
帝国監察官とは、本来そこまで大仰なものではない。税収や統治状況を調べる役人にすぎない。
だが今回は違う。
この領地は、ここ数年で急激な発展を遂げている。
逃亡農奴の受け入れ。
新農法の導入。
灌漑設備の建設。
街道の整備。
交易の拡大。
結果として、人口は三倍近くに増え、税収も急上昇している。
当然、帝国が興味を持たないはずがなかった。
「歓迎の準備は?」
「完了しております」
「宴会は?」
「今夜、城館で」
エルガルトは少し声を潜めた。
「ですが……」
「何?」
「監察官の評判が、あまり良くありません」
レスティーナは目を細めた。
「名前は?」
「ユリウス・ヴァルテン」
その名を聞いた瞬間、レスティーナの脳裏にわずかな記憶がよぎった。
前世の知識。
帝国史の断片。
「……なるほど」
小さく呟く。
ユリウス・ヴァルテン。
冷酷で有名な監察官。
貴族の不正をいくつも摘発し、爵位剥奪に追い込んだ人物だ。
同時に――
非常に有能。
そして非常に執念深い。
「面白いわね」
レスティーナは笑った。
エルガルトは驚いた顔をした。
「面白い……ですか?」
「ええ」
レスティーナは塔を降り始めた。
「優秀な相手の方が、話が早いもの」
城門前の広場には、すでに兵士と役人たちが整列していた。
旗が風に揺れ、太鼓が低く鳴る。
レスティーナが姿を見せると、全員が一斉に頭を下げた。
「領主様!」
「ご苦労様」
レスティーナは軽く手を上げる。
その時だった。
城門の見張り兵が叫んだ。
「馬車隊、接近!」
遠くの街道から、馬車列が姿を現した。
先頭には帝国騎士。
鎧は銀色に輝き、槍が太陽の光を反射している。
中央には豪奢な馬車。
黒塗りの車体に、帝国監察局の紋章。
馬車列はゆっくりと城門をくぐった。
そして広場の中央で止まる。
騎士が扉を開いた。
そこから降りてきたのは、一人の男だった。
三十代半ばほど。
整った顔立ちだが、表情は冷たい。
黒髪をきっちり後ろに撫で付け、灰色の瞳が周囲を鋭く観察している。
男はゆっくりと前に歩き出た。
レスティーナの前で止まる。
そして丁寧に礼をした。
「初めまして」
落ち着いた声だった。
「帝国監察局より派遣されました監察官、ユリウス・ヴァルテンです」
レスティーナも軽く頭を下げる。
「ようこそ。我が領へ」
ユリウスは顔を上げた。
灰色の瞳がレスティーナを見つめる。
まるで人を値踏みするような視線だった。
「あなたが領主レスティーナですか」
「ええ」
「噂は聞いております」
彼は周囲の街並みを見渡した。
「辺境とは思えない発展」
視線を戻す。
「実に興味深い」
その言葉に、役人たちがわずかに緊張した。
褒め言葉にも聞こえる。
だが同時に――
疑いも感じられる。
レスティーナは平然としていた。
「興味を持っていただけて光栄です」
「ぜひ詳しく調査させていただきたい」
「もちろん」
レスティーナは微笑む。
「我が領は、隠すことなど何もありません」
ユリウスは一瞬だけ目を細めた。
「それは素晴らしい」
だがその声には、どこか含みがあった。
彼は手を軽く叩いた。
「では、早速ですが視察を」
「どこから?」
「農地」
即答だった。
「逃亡農奴を受け入れているという話ですから」
広場に微かなざわめきが広がる。
逃亡農奴。
本来、帝国では重罪だ。
だがレスティーナの領地では違う。
レスティーナは頷いた。
「案内しましょう」
視察隊は馬車に乗り、城を出た。
整備された街道を進む。
両側には畑が広がり、農民たちが働いている。
子供たちが走り回り、荷馬車が往復している。
ユリウスは窓から外を見ていた。
「……見事ですね」
「ありがとうございます」
「しかし不思議です」
彼は振り向いた。
「逃亡農奴は普通、生産性が低い」
淡々と続ける。
「ですが、この農地は帝国平均を大きく上回っている」
レスティーナは肩をすくめた。
「理由は簡単です」
「ほう?」
「ここでは、働けば土地がもらえます」
ユリウスは眉を上げた。
「土地を?」
「ええ」
「自由民として?」
「そうです」
ユリウスはしばらく黙っていた。
そして小さく笑った。
「夢のような制度ですね」
「そうかもしれません」
「ですが」
彼の声が少し低くなる。
「帝国の制度とは相容れない」
馬車の中に静かな空気が流れた。
レスティーナは外を見ながら言う。
「帝国は豊かな領地を望むはずです」
「確かに」
「なら問題ありません」
ユリウスはレスティーナを見つめた。
そしてゆっくりと呟いた。
「あなたは……」
言葉を選ぶように続ける。
「とても興味深い領主だ」
レスティーナは笑った。
「褒め言葉として受け取っておきます」
やがて馬車は丘の上で止まった。
そこからは領地全体が見渡せる。
広大な農地。
煙を上げる工房。
新しい村。
人の流れ。
ユリウスはその光景を長く見つめていた。
そして静かに言った。
「……なるほど」
「何がです?」
「帝国があなたに興味を持つ理由が」
彼は振り返った。
「監察は数週間続きます」
「どうぞご自由に」
「その間」
ユリウスは微笑む。
「色々と見せていただきます」
その笑みは穏やかだった。
だがどこか――
試すような目をしている。
レスティーナは内心で思った。
(始まったわね)
これはただの視察ではない。
帝国が、この領地をどう扱うかを決めるための監察だ。
味方になるのか。
敵になるのか。
それはこれから決まる。
丘の上を風が吹き抜けた。
麦が波のように揺れる。
レスティーナはその景色を見ながら、小さく笑った。
(なら――見せてあげる)
この領地の力を。
そして。
**新しい時代の形を。**




