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その56

 ゆっくりと立ち上がるマクシミリアンを見て、ウォーレンの胸中に生まれかけていた自信や手ごたえは、波に攫われる砂の城のように崩れていった。

 矢は確かに命中した。今も深く突き刺さったままだ。あの胸板がいくら分厚い筋肉に守られていようと、心臓まで達している。生きているはずがない。

 異変にフェイもすぐに気づいた。驚きの表情がはっきりと意味を成した。何で死なないの。ウォーレンにも分かるはずがない。

 首の骨を鳴らし、大きく息を吐いた大男は、胸の矢を無造作に引きぬいた。束ねた三本の両端を持ち、へし折ろうとする。

「折れ、ない」

 ぐにゃりと曲った矢が、勢いよく元の形に戻り、虫の羽音のような音を出して震えた。予想外だったのだろう、不思議そうにそれを眺めている。滑稽とも思える瞬間だったが、ウォーレンたちは動けず、言葉も発せない。求めていたのは、ちょっとしたスリル。刺激的な日常。今、対峙している恐怖は、そんな浅い器の許容量をゆうに超過していた。溢れだしたそれは、二人の運動神経を凍てつかせ、あらゆる自由を奪っていた。

 マクシミリアンが矢を捨て、積まれてあった樽を叩き潰した。ぎくりと身を震わせる二人に、ゆっくりと近づいてくる。世の中には、直視できないほどの恐ろしい表情があると知ったのは、このときだった。

 マクシミリアンが腕を振り被った。とっさにウォーレンがフェイを抱え、思い切り飛びのいた。

「ひっ」

 フェイが短く悲鳴をあげ、拳がすぐ後ろを通過したのが分かった。風圧だけで身体が八つに引き裂かれそうだ。倒れこみながら振り返ると、乾いた細かい砂が渦を描いて巻き上がっていた。なんて拳だ。間一髪で避けられたが、これが精一杯だ。もうもうと立ちこめる土煙を緩やかに割って現れた巨体が二人を見下ろした。

 立ち上がる暇はない。だが頭の働きは普段より活発だった。それが恐怖をより大きなものとしているのだから、不幸だったと言うべきだろう。ウォーレンは気づいてしまった。マクシミリアンの胸の傷が塞がっている。思い返すと出血も少なかった。致命傷を受けてさえ活動出来る、圧倒的な生命力と回復力。それがマクシミリアンの『カラー』なのだ。

 こいつは本物の怪物だ。殺せない。

 それでもウォーレンは矢をつがえた。手は震えている。倒せない。逃げられない。だがフェイのやつは別だ。フェイの『カラー』なら、あいつだけでも助かるかもしれない。立ち上がれさえすればいい。おれがやるべきは、一瞬で構わない、その隙を作ることだ。

 弓を構え、引き絞る。上手く結晶の矢が生成できない。一本、指の間から滑り落ちる。落ち着け。二本で、いい。狙うのは頭部。放てば、やつは腕でかばう。あるいは横に飛びのくかもしれない。それが隙だ。

 ウォーレンの手を離れ、するりと矢が宙に飛びだした。風を切る。正面にはマクシミリアン。顔が大写しになっていく。二本の矢は、そのまま顔面に突き刺さった。

 防御しない。のけぞりもしない。自分の身体をそこまで信頼できるものだろうか。顔に突き立った矢を抜き捨て、何事もなかったかのように一歩踏み出すその姿に、ウォーレンの身の内から震えがはしった。恐怖のためだけではない。力という概念が固形化したかのような、豪胆そのものの立ち振る舞いに場違いにも感動していた。隙は作れず、生まれたのは思わずもれた乾いた笑いだ。終わりだ。すまない、フェイ。

 路地に乾いた音が二発、反響した。

 マクシミリアンが両膝を突く。その後ろから、ふっさりとした毛並みが現れた。女だ。手に小火器を持っている。膝を撃ち抜いたのだ。マクシミリアンが低く唸った。

 この女を知っている。《モノリス》のビビッド、シャーリーだ。なぜここに、そしてなぜマクシミリアンを撃ったのか。ウォーレンには分からない。

「動くな」

 シャーリーは言った。それはマクシミリアンに向かって発せられたのかもしれない。だがウォーレンは、これが逃げ出すチャンスではないと一瞬で悟った。これでは生殺与奪の権利がマクシミリアンからシャーリーへと移っただけだ。飛び道具相手では、いくらフェイでも逃げ切れないだろう。状況は、むしろ悪くなっているのかもしれない。

 マクシミリアンが立ち上がろうとしていた。関節を撃ち抜かれたら、下手をすれば一生歩けなくなるところだ。それがもう治ろうとしている。驚異的な回復力だ。

 だがその動きは途中で止まった。額に小火器が押しつけられていた。

「邪魔、するな」

 唸りとともにマクシミリアンがシャーリーを睨んだ。明らかな怒りを含んだ眼だ。それを直視し、平然と彼女は言った。

「その足が治りきる前によく聞きな。ニコラスから、この場は私に任された。逆らうなら脳天に弾をぶち込む」

 対するマクシミリアンの言葉は暴風の勢いだった。何を言っているのか判断は難しかった。感情が音としてそのまま噴き出したかのようだ。全身を染める憤怒は、赤さを増し、傷跡がより鮮明になった。

 シャーリーは、無言でさらに二発の弾丸を脚に撃った。再び膝をついたマクシミリアンが吠えた。空気がビリビリと震えた。

「もう少し時間が必要かい。冷静になるには十分な時間を与えたつもりだけど」

 マクシミリアンが再度、立ち上がろうとする。

「時間延長はもうない。次は頭を撃つ」

 冗談や脅しではない、真実の冷たさがその一言にはあった。

 二人のビビッドは睨み合った。

 しばらくしてマクシミリアンが大きく息をついた。身体の赤みが引いていき、傷跡が目立たなくなっていく。

「分かった、分かったよ。この場は任せる」

 慌てたようにマクシミリアンが言った。

「バンバン撃ちやがって。痛いものは痛いんだぜ。全く、むちゃくちゃしやがる」

 マクシミリアンの不平をシャーリーは鼻で笑い飛ばした。

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