その47
セントラルには音のない霧雨が降り続いていた。厚い雲が日光を遮るため、昼中でも薄暗いが、いざ日が落ちると単に暗いだけでなく精神を抑圧するような重苦しさが、あらゆる暗がりからにじみ出してくるようだった。
まだ寝るような時間でもないのに辺りの活気は皆無といってよかった。たまに見かけるヒュープルも路地裏や軒先といったより暗いところでじっとしていた。どうも《エピタフ》におびえて隠れている風でもない。
彼らは大抵、物音立てずにだらりと座っていた。濁った眼をぼんやりと宙にさまよわせ、手にした小さな薄紫の草筒から物憂げな煙を立ち昇らせていた。一定の動作を組みこまれた機構のように、時たまそれを口元に運ぶ。鼻や口から煙を漏らしながら、腕が元の位置に戻される。それが緩慢に繰り返されていた。生気や活力といったものがまるで感じられない。何が彼らをこうしてしまったのだろうか。
靄のように漂う細かい雨。色灯は、ぼんやりと周囲を照らすのみだった。
辺りに鈴の音が、一度だけ響いて消えた。
ややして闇に新しい光がぽっと生まれた。
それは縦長の箱型をしている。周囲を透明な結晶板で囲まれた、ヒュープルひとりで精いっぱいの空間。遠隔通話用個室――通称「遠話ボックス」だ。夜間に入室者がいると自動的に色灯がつく仕組みになっているのだ。
入室者は番号を回すでもなく、透明な壁にじっと背中を預けていた。濡れたコートからしずくがぽつ、ぽつ、と滴っていた。
再び呼び鈴が鳴った。男は素早く応対した。
「はい、私です。……上手くいきましたか? …………いや、それでよかったのでしょう。少なくともスパイであるという嫌疑の外には置かれたはずですから。……ええ、その調子でお願いします。こちらはこちらで動いていますからね。……ポイットは元気ですよ。何も心配は要りません。過度の連絡は避けるようにとのことです。次の接触は、大きな進展があったときになるでしょう。では」
通話停止のボタンを押すと、男は遠話ボックスを出た。その顔は、アルだ。
アルは、風のように霧を裂いて、しかし影のように静かに仮の拠点へと向かった。
「どうだった?」
戻ってきたアルにニコラスは訊いた。
「少々思い通りではなかったものの、順調な様子でした。カラスは、無事《ハウス》に潜入できたとのこと。ただ連絡を受けたのがあなたではなく、私だったのが不満だったかもしれません。声だけで、定かではありませんが……」
「私の外出は最小限にしたい。ドルフをあまり警戒させたくないからね」
「ええ、カラスもそれは十分理解していると思います」
報告を聞いて、マクシミリアンが不愉快そうに顎をかきむしった。
「カラスはおれたちを信用しきってないんじゃねえか? もしかすると、このまま《ハウス》に居ついちまうかもな」
シャーリーがじろりとマクシミリアンを睨んだ。
「怖い顔すんなよ。そんな奴に命綱を握られてるんだから、たまんねえって話だよ」
いや、睨んでいるのは彼女だけではない。
「アホーッ!」
毒づくマクシミリアンの顔面に小さな影が突進した。
「私がここにいるでしょ! カラスがあんたたちを信頼してるって証拠がね!」
ポイットは腰に手を当て、胸を張った。
「証拠ォ?」
マクシミリアンが冷めた目をした。
「一方的に付きまとってるだけで、カラスの方はおめえを必要としてねえんじゃねえか? 今ごろ、厄介払いできてせいせいしてるかもしれねえぜ」
「うぐぐ」
一瞬言葉に詰まったポイットだったが、
「そ、そんなはずはないんだからね! だって、あたしは、カラスの色なんだもん! あいつもあたしを必要としてるんだから!」
「ほー、へー、そうだといいな」
「ア、アホーッ!」
ポイットは顔面をポカポカと乱打した。マクシミリアンは意に介さない。多少うっとおしそうではあるが。
ニコラスは微笑すると、話を切り出した。
「カラスが無事に潜入できたということで、我々も動き始めよう。ポイット、準備はできているかね?」
ポイットはマクシミリアンの鼻を踏んで飛翔し、自信満々に胸を張った。
「もちろん」
マクシミリアンは鼻をぽりぽりとかいた。ニコラスはうなずいて、
「ポイットは私、シャーリーと一緒に、明日、ソルトフリーズに向かう。アルはデュイストーンズの偵察。現地の様子が私の思ったとおりかどうか、確認してきてくれ」
それぞれが返事をした。
「おれは?」
マクシミリアンが待ちきれないように言った。
「マクス、申し訳ないが」
ニコラスが眉を下げた。
「君は留守番だ」
一瞬、硬直したようになったマクシミリアンは、次に早回しのようにニコラスに縋りついて哀願した。
「ニコラス、そりゃないぜ。おれだって何か出来るはずだ。そうだ、ほら、アルの潜入のサポートでもいい」
「気持ちは分かる。だが、今一番重要なのは静かに事を運ぶことだ」
マクシミリアンは自分の大きな両手のひらを見て、ため息をついた。
「こればっかりは、この図体を恨むぜ」
「その身体が役に立つときがすぐ来る」
「わかったよ、ニコラス。わかった。……留守番だな」
マクシミリアンは静かに椅子に腰かけた。明らかに消沈したその姿は、いつもより小さく見えた。
車軸をきしませながら、ニコラスが車椅子をゆっくりと旋回させた。
「明日が第一歩だ」
皆に背を向け、ぽつりとつぶやいた。




