その35
カラスは村人の気配から逃れるように森の奥へと歩いた。せせらぎが聞こえた。小さな川だった。無性に喉の渇きを感じ両手ですくって水を飲んだ。振り返ると、のっぺりと堆積した影の中、遠方の一部が赤々と立体的に抜き出されていた。もう一杯、水を飲む。その日、カラスはそこで眠った。
朝が来た。徐々にはっきりする意識の中、自分を起こしたのは鳥のさえずりだと気づいた。日の光が妙にまぶしい。全てが新品のように感じ、カラスは昨日のことが夢ではないかと思った。
家のあった場所に戻ってみると、そこには焼け落ちて骨組みだけになった住まいがあった。老人の木も真っ黒に炭化し、緑の葉はもちろん一枚も残っていない。特別美しかったわけではない平凡な、しかしカラスにとって特別な木は、黒い幹から硬直した短い枝がまばらに突き出した無残な姿になっていた。
カラスは川に戻った。へたりこむと川面には真っ黒な自分の姿が歪んで映っている。カラスはそれを拳で叩いた。像は一瞬乱れ、飛び散ったがすぐに元に戻った。叩き続けた。やがて疲れると喪失感が募った。あふれる涙が川に注いだ。上流でも誰かが同じように泣いていて、それが川になっているのかもしれない。この考えはカラスをいくらか慰めた。カラスがポイットと出会ったのはこのときであった。
カラスは、この件で色なしには他のヒュープルと同等の機会が与えられていないと学んだ。普通であれば何の苦もなく手に入る権利や小さな恩恵ですら例外ではない。それどころか、逆に奪われてしまうこともあるのだと。
以降、カラスは人里離れた深い森で生活することになる。木の実をもぎ、草花を摘み、ときには猛獣を打ち倒し日々の糧とした。しかし、このような生活を送っていてもカラスは野生に染まらなかった。まずは、老人と暮らした日々がすでに生き方の基礎をカラスの中に形成してしまっていたからだ。そして、より大きな要因は、唯一の友人であるポイットが口うるさく文明的な生活を要求したからである。
カラスは小川のそばに簡素な小屋を建てた。それは老人の家と比べてもさらに見劣りするものだったが、雨風はとりあえずしのぐことができた。さらにカラスは村に出入りする大型動力車との取引を試みた。村人たちがした仕打ちが思い出され、非常に勇気のいる決断だったが、もはや失うものはないという無謀さもあった。動力車の前に躍り出て進路を塞ぐと、カラスは獣の肉や皮、果実、薬草などを広げた。商人たちは顔を見合わせていたが、結果はうまくいった。カラスの提示した品々の中には村でも取引できないような珍しい物もあったからだ。カラスはそれらと交換に衣類や嗜好品といった、森では得難い品を手に入れることができた。ときには、品物ではなくわずかばかりのチントを得ることもあった。
森の生活では、貨幣を使う機会がほぼない。それにも拘らず、カラスが品物をチントと交換したのは、ポイットの入れ知恵があったからだ。
ポイットはカラスと出会う前から、長いこと各地を当てもなく放浪していた。森の外、ずっとずっと遠く離れた場所には都市というものがあって、村よりももっとたくさんのヒュープルが集まって暮らしているのだと彼女は知っていたのだ。あの荷物をたくさん積んだ動力車はそこから来るのだとポイットは言った。そして、都市がいかに文明的で素晴らしいかを毎日、自分のことのように自慢したのだった。
この自慢攻撃にカラスは閉口したが、心の内では都会に対するあこがれのようなものが芽生えつつもあった。定期的にやってくる商人たちは、いかにも自信にあふれた堂々とした態度で、綺麗なぴしっとした衣服に身を包み、容姿だけでカラスを追いたてるような真似はしなかった。素晴らしい人物であるかのような幻想をカラスに抱かせるには、それだけで充分だった。ポイットの雑多なおしゃべりを聞いていても“都市”のイメージは一向に湧かなかったが、そんなヒュープルたちがたくさん集まっているのなら、さぞかし素晴らしい、住みやすい場所なのだろうなと漠然と思っていたのだった。その気持ちはだんだんと強くなっていく。
あるとき、都市への思いをカラスが口にすると、ポイットはここぞとばかりに自分の知識を並べ立てた。その中に、都市では貨幣、チントがとても重要だ、というものがあった。都市に行くにもチントが必要だし、都市の中でも何かにつけてチントが要求されるという話だった。カラスがチントを集め始めたのはこんな理由からだった。
ポイットがやたらと都市にこだわったのは、森の生活に飽きてきていたからだろう。彼女もそこまで都市に詳しいわけではなく、なんとかカラスを誘導してやろうと言い始めたことだったので、これにはしめたとほくそ笑んだに違いない。
しかし、都市でどのぐらいのチントが必要になるかはポイットも知らなかったし、商人がカラスに与えるチントはほんのわずか、一般的な取引価格の一割以下だったため、貯蓄は楽ではなかった。獣たちの方も、闖入者に対して相変わらず容赦がない。都市への道はまさに綱渡りだった。商人が村への往来やカラスとの取引を止めてしまえば、あるいはカラスが猛獣に命を取られてしまえば、それで呆気なく終わる細く儚い道だった。
この頼りない、先も見えない道を行くうちにカラスは研ぎ澄まされた感覚を得ていく。森の獣との命のやりとり、色なしがする交渉、そのどちらも小さな歪が全体の瓦解を引き起こし、そうなれば修復は不可能だ。カラスはこんな生活を送るうち、知らずと微かな歪を直感的に理解できるようになっていた。獣たちがどうやって自分をしとめようとしているか手に取るようにわかったし、商人たちが交渉に難色を示したときは不思議と察知できた。少ないチャンスをものにする――シンプルかつ希有、そしてカラスが色なしとして生きていくのに必要不可欠な技術が身についていた。
こうして彼は、道を渡り切った。




