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その17

 アルが街を走る。

 アルの動きには、よどみがない。塀を流れるように乗り越えると、壁際におかれたゴミ箱を踏み切り、壁をけって跳び上がった。屋外階段の柵に取りつく。すり抜けるように内側へと位置を変え、するすると階段を昇っていく。最上段にたどりついたが、扉には目もくれない。危なげないバランス感覚で柵に乗って跳躍。屋上のへりに手がかかる位置になると、さらに体が持ち上がった。一連の動作はあまりにも滑らかで、舞い昇りながら空中で加速したようにさえ見えた。

 『カラー』ではない。重力に逆らい体を自由に操る瞬発力、連続した運動で息をきらさない持続力。それらがあわさって生まれる、アルの単純な身体能力。それに加え、彼は街をどのように走るか知っていた。――この助走で跳び越えられる幅はどのぐらいか。どの高さまでなら速度を落とさず乗り越えられるか。そして壁や道にあるあらゆるものを道とする。窓枠、パイプ、ゴミ箱、捨てられたマットレス……一見、障害物としか思えないものでさえ、高さをかせいだり、着地の衝撃をやわらげるのに有用なのだ――アルはそういった知識を、経験として体に染みつかせているのだった。

 アルは膝をクッションにして柔らかく着地すると、少し高くなったへりに身を隠しながら顔をのぞかせた。五階建てビルの屋上からは周囲の様子がよく見えた。

 セントラル地区は、おどろおどろしい雰囲気に変貌していた。まばらな人影も、さびしさよりは不気味さを増す要因となっていた。

 常に立ちこめる分厚い雲が光を遮り、地区全体に影を落としていた。その雲からは霧雨がやむことなく降り続いていた。風はほとんどない。じっとりと湿った空気が滞留し、それは濡れ土の臭いをはらんでいた。

 色外灯の光は煙る水粒によって散ってしまい、遠くまで届かなくなった。薄暗い路地は、早くも恰好の犯罪温床になりつつあった。住人は昼でも窓を閉め切り、必要最小限以外の外出は避けているようである。地区全体がひっそりとしてゴーストタウンのようだ。

 ここを自由に闊歩できるのはギャング、チンピラ、それに属する危険人物だけ。明るく住みやすかったセントラル地区は、もうどこにもなかった。

 アルはため息をついた。霧雨を吸って重くなったコートが不快感をより大きいものに自覚させた。

 アルは外壁に露出したパイプを滑り降りる。そのまま下までいくかと思われたが、半分ほどで、突然壁をけって飛び降りた。そのまま着地すれば危うい高さだが、アルは正確に塀の上を経由しはずみをつけると、ビルの敷地外に転がりながら着地した。すぐさま立って走りだす。風のようにガレージに向かった。



「アル、どうだった」


 アルが帰って来たとき、部屋には全員が、もちろんカラスもそろっていた。

 ニコラスの口調は優しくも厳しくもなく、実に中和的だった。濡れたコートに押しつぶされそうにしていたアルは首を横に振った。


「もうセントラルは……」


 報告がつらかった。言葉は半ばにして途切れてしまった。

 街の惨状に心を痛めたのもある。だが、アルにはそれ以上の思いがあった。こんなときエルがいたら……。どうしても、そう考えてしまうのだ。

 エルとアルは、生まれたときからいつも一緒だった。見た目こそ違いがなかったが、兄のエルは大胆で、弟のアルは慎重な性質を持っていた。エルは、遠慮がちなアルの言葉の後を継いで、いつもズバリと要点を伝えてくれた。逆にエルが言いすぎたときには、アルがいい緩衝材となった。お互いの長所を支え合い、短所をかばい合う。エルとアルは二人でひとつだったのだ。

 だが、兄はもういない。目の前で死んだ。ドルフにかみ殺された。アルは、いまわしい光景を追い払うようにぎゅっと目をつぶった。


「そうか」


 ニコラスは全て察したと、その短い一言にこめた。

 暗い雰囲気は、外の霧雨がやまないように晴れることがなかった。




 それからさらに一夜明けてもニコラスはなんの指示も出さなかった。ビビッドとカラスはガレージ横の一室に集まり、サーボリを飲んだり、カードゲームをしたりして時間を潰した。みんな、プライムの指示を待っていた。


「ふふん。また、あたしの勝ちだね」

「ああ! やってらんねえ!」


 マクシミリアンが手札をテーブルに叩きつけた。


「思うに、あんたは顔に出すぎるのさ」


 マクシミリアンがうめいた。カードゲームの勝ち頭はシャーリーだった。彼女にカモにされる形でマクシミリアンが負けを積み重ねた。アルとカラスは勝ったり負けたり、中間の成績を維持していた。

 マクシミリアンが不満げにカードを配っている間、シャーリーは、テーブルの端にいながらゲームに加わろうともしないニコラスに目をやった。

 ニコラスはもともとやせていたが、ホワイトモノリスを奪われてから、さらにそれが目立つようであった。毛並みは色つやをほとんど失い、目は落ち窪んだ。ジェイラスから受け継いだ瞳からは、すっかり力が消えてしまっていた。爪をかんだり、ガレージを車イスで往復したりはしているが、特になにをするでもない。ニコラスは時間を浪費しているようにみえた。


「ニコラス、これからどうする?」


 たまりかねたようにマクシミリアンがきいた。ニコラスは、なにもないテーブルの一点をじっと見つめながら言った。


「解散しよう」


 静かな衝撃が走った。ゲームは中断された。それどころではない。


「おいおい、本気か」

「ああ」


 ニコラスはゆっくりと、しかしはっきりうなずいた。


「昨日から考えていたことなんだ。ジェイラスのジュースを手に入れたドルフ相手では、ホワイトモノリス奪還は絶望的だ。兵力も装備も資金も、まるまる失ったのでは、打つ手がない」


 ニコラスは続けた。


「それだけじゃない。このガレージは今のところ安全のようだが、それがいつまで続くかわからない。明日にも《エピタフ》の刺客が襲ってくるかもしれないのでは、ここを仮の拠点として力を蓄えることすらままならないだろう。このままでは《モノリス》を存続させるといっても、形だけのものになる」


 ビビッドたちはうつむいた。


「なに、組織がなくなるなんて珍しいことじゃない。それよりも、そんなものにこだわって、おまえたちを縛りあげてしまう方がつらい」


 マクシミリアンが口を開きかけたが、うーんとうなると黙ってしまった。なにを言うべきかわからなかった。

 ニコラスは、努めてあっさりと告げた。


「《モノリス》は、今日ここですっぱり解散だ。おまえたちほどの実力があれば、他のギャングでもじゅうぶんやっていける」

「あんたはどうするのさ、ニコラス」


 シャーリーは平坦にいってのけたが、しきりに爪をいじって目を合わせようとしない。語気を荒らげないように最大限の苦心をしているのだとニコラスにはわかった。


「うまいことドルフのの目を引いたら、この街から出るさ。やつらもパレットシティの外までは追ってこないだろう。その間に、おまえたちは新しい居場所を見つけてくれ。別のギャングに入団さえできれば、その庇護を受けられる。《エピタフ》でも簡単には手が出せないはずだ」

「あたしは……そんなのいやだ!」


 こらえきれずにシャーリーが叫んだ。


「プライムの命令は絶対。ですが、こればかりは……」

「おれも反対だ。あんたを囮にしてまで生き延びたとあっちゃ、先代に顔向けならねえ」


 アルとマクシミリアンも異を唱える。ニコラスが諭すように言った。


「わかってくれ。他に方法がない」

「あたしは、いやだよ……」


 ニコラスが好んでこのような決定をしたはずはないのだ。彼の口調は淡々としてはいたが、それゆえに、そこに秘められた決意の頑なさをビビッドたちは感じとらずにはいられなかった。

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